第三章

第三章

「ただいま戻りました。」

青柳先生が数か月振りに帰ってきた。

「お帰りなさい。青柳先生。」

利用者たちが出迎える。

「すみません。長らく留守にしてしまいまして。なんとも、ナシ族の女性の方々が、ずっといてくれなんていうもんですから。皆さん、とても強い方々で、一度決めたら、なかなか変更しないんですよ。」

懍は、苦笑いしながら、そういった。数か月の間、未開の部族であるナシ族の村に滞在して、製鉄の指導などをしていたのだ。それがやっと帰ってきたのである。

「へえ、そうですか。女性がとても強いなんて、どういうことですか?」

好奇心のある女性の利用者が、思わずそう聞くと、

「ええ、面白いでしょう。家庭における権力者はみんな女性で、男性は、彼女たちを支える働き蜂なんですよ。一番偉いのは、おばあさんでどこの家にも、おばあさんを寝起きさせる、祖母部屋というのがあるんです。もちろん、部族長である酋長だって、女性がなるんですよ。」

と、面白そうに言う懍。

「そうなんですかあ。それじゃあ、家庭内暴力も何もなくなるんですかね。」

「ええ、そうなると思いますよ。女性に暴力をふるうようであれば、極刑に近いものが待っているのではないですか?」

「へええ。なんだか人間というより、蜂の家族みたいですね。ほら、スズメバチの家族だって、女王バチがいて、働き蜂がいるじゃないですか。」

別の利用者がそういうと、

「くみちゃん、また虫おたくねえ。人間とスズメバチとは、一緒にしないでよ。」

と、初めの利用者が言った。

「そうですか。確かに、ナシ族の社会は、スズメバチの社会より強固かもしれませんね。しかし、スズメバチのような凶暴な社会ではありませんから、大丈夫です。皆さんのんびりしていて、自然を大切に、謙虚に生きている人たちですよ。」

「いいなあ。あたしも、そういうところに行ってみたいですよ。もう、こんな疲れる社会、いても仕方ないって、しょっちゅう思いますよ。」

初めのくみちゃんと呼ばれていた、利用者が、そういうと、

「まあねえ、くみちゃんは、虫がいっぱいいるところのほうが、楽しいんじゃないの?」

と、別の利用者がからかった。

「でも、いいなあ。あたしもスズメバチは好きじゃないけど、ああして、やくめがしっかりしている社会のほうが、いやすい気がするのよねえ。生きる指針がちゃんとあって、よほど楽だわ。」

「もう嫌ねえ。スズメバチだって、ハチクマに食べられたら、いちころでしょ。」

利用者たちは、そんなことを言いながら、廊下を歩き始める。懍も車いすでそのあとについていった。

「二人とも、面白いことを平気でいうんですね。そういう知識を生かした場所に、行くことができれば、ここにくることもないでしょう。」

懍は、思わずため息をついた。

「いいじゃないですか。あたしたちは、友達もやっとできたんですから。」

「勘違いしては困りますが、ここはスズメバチの巣ではないのですから、一生ここで過ごされてはなりませんよ。」

くみちゃんの話に懍は注意したが、二人ともまだ、この言葉を言うには早いかなという顔をした。

「それから、僕が出張に行っている間に、変わったことは、有りませんでしたか?おとなしく寝ていますかね。」

二人の緊張を和らげるため、懍は柔らかい感じでそう聞いた。少し話題を変えたほうがいいかなと、思った。

「ええ、それが、、、。」

二人の利用者は、さらにくらい表情になる。

「それが?何かありましたか?」

「恵子さんの結婚式のあとに、また悪くなってしまったらしいんです。沖田とかいう先生を呼んでもらって、診察してもらったんですが、何とも心臓が悪くなってしまったようで、もうほとんど寝ている生活なんですよ。」

くみちゃんがそう説明した。

「もちろん、あたしたちは、何もわからないですけど、病気の事なんて。知識も何もないし、用語もわからないですしね。でも、見た時にはもう辛そうで、もう疲れきったというか、もはや蒼白な顔をしています。」

「そうですか。そうなると、衣食住の世話は、誰がされているのですか?恵子さんなら、もう辞職されて、お帰りになってしまったはずなのでは?」

懍はそう質問すると、

「ええ、あたしたちが交代で世話をしていますが、もう本人もほとんど動かせないので、完全に意欲をなくしてしまったというか、辛そうな顔をして、なかなかあたしたちのほうにも顔を合わせてはくれなくなりました。」

と、別の利用者がそう返してきた。

「まあねえ。確かに、介護というのは時として、非常に難しいこともありますからね。まだお若いお二人には、非常な負担でもあるでしょう?」

「いいえ、先生。私たちも、貴重な機会だと思って、この際ですから、思いっきりやってしまおうと思っているんです。ほらよくあるじゃないですか。介護でうまくいかなくて、挙句の果てに殺人までしてしまうとか。それってやっぱり経験不足が一番だと思うんです。それはしょうがないことじゃなくて、やっぱり若いうちに経験しておくことだなと思うから、あたしたちは、今しっかり体験しておくことだな思って、やってみることにします。」

「あら、くみちゃん英雄!すごいこと言う!」

初めの利用者がそう発言すると、次の利用者がそう彼女を絶賛した。それは確かに、すごい発言でもあり、同時に変な奴と言われる人でなければ、できない発言であった。そして、正常な人にはおかしいと言われる発言でもあった。

「ええじゃあ、お願いします。少なくとも、スズメバチの社会とは、また違って、非常に複雑なものにはなると思いますが、何でも僕も相談には乗りますから。」

「青柳先生は忙しいでしょ。どうせまた海外に行くんですよね?だから、私たちで何とかしますよ。」

くみちゃんはちょっと気合を入れすぎているのではないかと懍は思ったが、彼女の意思をつぶしてはならないと思ったため、あえて、訂正しなかった。


翌日。

くみちゃんと、また別の利用者が、朝ご飯のおかゆの入った皿をもって、四畳半にやってきた。

「水穂さん、おはよう。具合どう?」

二人は、枕元に、お皿を置いて、まだ眠っている水穂の肩をそっとたたいた。

「今日はお米のおかゆではなくて、パンでおかゆを作ってみたよ。小麦で当たってしまうのは知っているから、米粉のパンを使ってみたよ。」

くみちゃんがそう言ったが、返答はまるでない。ただ、あおむけに寝転がり、目を閉じて、静かに寝ているだけである。

「ほら、また悪くなると大変だから、何とかして食べよう。出ないとおかゆも冷めちゃって、まずくなっちゃうわ。それじゃあ、嫌でしょう?」

別の利用者が、お匙でおかゆを掬い上げて、そっと彼の目の前に、差し出した。ここまで出すと、匂いを感じ取ってくれたのか、やっと目を開けた。

「ほら、食べてよ。」

その真っ青というか、蒼白な顔は表情一つ変わらないが、相変わらずきれいな人なのは間違いなかった。その人が、布団に横たわって、制服を着た二人の高校生が、一生懸命ご飯を食べさせようとしているなんて、なんとも異様な光景である。

「食べて。」

別の利用者が少し語勢を強くして言うと、

「声を荒げちゃいけないわよ。可哀そうよ。」

と、制御するくみちゃん。

ここでやっと、食べようという気持ちになってくれたらしい。利用者さんの差し出したお匙のほうへ初めて目を向けた。

「食べよう。」

そういうと、やっと口を動かして、お匙の中身を口にしてくれた。これでやっとよかったかと思ったら大違いで、ひどくせき込んでしまうのである。

「あら、具材が悪かったのかしら?」

二人は顔を見合わせた。

「そんなことないわよ。上手くできないだけ。もう一回やってみて。」

もう一度、彼の口元に、匙をもって行く。今回もそれに応えてくれたが、またせき込んでしまうのだった。

終いには、唇から赤い液体が漏れてくるので、利用者たちは、それを急いでガーゼをあてて、ふいてやった。

「大丈夫かな?」

くみちゃんが、そういうより早く、ガーゼがすぐに赤く染まってしまった。

「手を洗ってこなくちゃだめだわ。」

「そういうこと言っちゃだめよ。それは禁止ワード。いったら、水穂さんも傷つくでしょ?」

「でも、よごれた手ではいけないし。」

「だから、汚れるとか、そういう言葉は禁止よ。介護の世界では、それで当たり前なのよ。」

さすがは年若き高校生だ。

思ったことを、何でも口にする。それは、ある意味ではよいことではあるけれど、高校生ということもあって、社会経験の不足のためか、時に禁止とされている言葉も口にしてしまうこともあった。もちろん、高校生ということもあり、誰かが注意しなければ、それを禁止ワードだと理解しないことも当たり前だった。でも、それをいうには時と場を考えて言わないと、大変なことになってしまう。今のくみちゃんのセリフも、介護されている人本人の前では言ってはいけない言葉になることに、彼女は気が付かないだろう。

「そうだったわね。ごめんなさい。水穂さん。これでは、安心してあたしたちに任せられないよね。今度は言わないように気を付けるから、もう気にしないでね。」

水穂は、ぐったりとして、弱弱しく頷いた。

「よし、気を取り直して、もう一回食べられる?」

「いや無理よ。もう吐き出してしまうんだもの。」

「あら、だって、まだちゃんと食べ終わってないわ。完食するまで食べさせなくちゃ。」

「無理して、食べさせると、またはいちゃったらかわいそうよ。」

二人の高校生は、意味のない会議をつづけた。

「そうかあ、でも、あたしは何とかして食べさせてやりたいんだけどなあ、、、。」

くみちゃんは、困った顔をして首をひねった。水穂本人が、何も言えないのが、本当に悲しい場面だった。

丁度そのころ、製鉄所の中にある、柱時計が、八回なる。

「わあ、もうそんな時間!もう行かないと学校に遅刻するわ!」

「まあ、通信制だから、あまり怒られるここともないけど、、、。」

「そうだけど、やっぱり時間通りにいかないと、また変な生徒だと言って、先生に目を付けられるわよ!」

二人の高校生は、そういいながら、急いで鞄を持ち、学校に突進するため、四畳半を出ていくのだった。

この有様をずっと見ていた懍は、やっぱり高校生は高校生だと、ため息をついて、おちゃを飲むのだった。


そして、二人が、高校から戻ってきたときのこと。

玄関を開けると、青柳先生が待っていた。

「あ、ただいまです。先生。わたしたち、ご飯は駅前の食堂で食べてきました。今から遅くなってしまいましたけど、お昼を食べさせてあげます。」

くみちゃんの手には、レトルトパウチのおかゆのパックが握られている。其れも外国製のかなりの高級品だ。金を出せば何でもできてしまうようになってしまったのかと懍は感心すると同時に、弊害もちゃんと教えていかなければ、と思ってしまった。

「さ、早く台所に行って、おかゆ作ってあげよう。」

二人が、台所に向かおうとしたところ、

「いいえ、水穂さんは、朝ご飯の残りもありますし、それで大丈夫ですよ。」

懍は静かに言った。

「で、でも、朝のパンがゆはもうまずくなっているかもしれないですから、新しいの作ります。」

くみちゃんはそういうが、懍は首を振る。

「あ、それとも先生、食べ物を無駄にするなとおっしゃりたいんですね。だったら、そのままではかわいそうですから、クックパッドか何かで調べて、新しい料理にリメイクして出します。」

「そういうことではありませんよ。」

別の利用者がそういうと、懍は教育者らしく、こういい始めた。

「そのような知恵があるのは大変喜ばしいことなんですけれども、あなた方二人は、まだ高校生なんですから、そうではなくて、まず、勉強に専念しなければなりません。少なくとも、お二人は、無意味なことの多い、全日制の高校とはまた違う、親切な高校に籍を置いているのですから、それを十分に享受して、勉学に励んでください。」

「でも先生、たしかにそうかもしれないですけど、あたしたちは今そんなことを勝手にやっていていいわけではないと思います。勉強なんてやりたくなったときにやればいつでもできるって、高校の先生も言っていました。だから、今は、そうするべきじゃないとして、水穂さんの世話をすることに、専念します。」

くみちゃんが、高校生が口にすることは絶対にないだろうなと思われるセリフを口にした。

「それに、あたしたちが通っているところは、多少事情があって、勉強が遅れている人はたくさんいますし、その人たちが、本当に必要なことを知っていることもあるので、学校の先生も、よほど怠けているわけでなければ、しっかり対応してくれますよ。事実、あたしたちが勉強ばかりしていたら、水穂さんの世話は誰がするんですか?」

別の利用者も、そういって、青柳先生に反抗した。

「いいえ、そうやって、真剣に生きようという気持ちがあるのなら、まず今でしかできない事を十分におやりなさい。あなた方くらいの年で、大人の行事をするということは、まず無理なのです。それは、そのための、知識というものが不足しているからですよ。そうではなくて、その知識というものを存分に教えてもらいなさい。大人の汚い行事に参加するのは、それを得てからで十分です。それに、知識がないと、大人の行事には参加できません。つまり純真さだけでは生きていかれないということですよ。それを教えてもらうためには、日本ではやはり学校という場所に行かないと、教えてはくれません。だから、今はそのことに専念する時期なのだと、割り切って行動なさった方がよいのです。」

「青柳先生、それじゃあ、あたしたちは、やっぱり役に立たない存在ということになってしまうんですか?勉強していい成績取って、誰かがかっこつけるための、道具になるのが一番なんですか?」

「いいえ、そういうことではありませんよ。久美さん。勉強は大人がかっこつけるための道具ではありません。そうではなくて、あなたたちが、生きていくための知恵をつける道具です。それを享受できるのは、お若い時でしかないんですよ。介護と言いますのは、あなたたちが思っているよりも、もっともっと汚い世界であり、いろいろな知恵がないと乗り切っていけない世界なんです。それを得ていないで、介護に挑むのは、若い人に対して酷すぎるというもの。恵子さんの後任の家政婦さんについては、僕が家政婦紹介所などに連絡して、すぐに探してもらうようにしますから。あなた方二人は、安心して勉強なさればいいのです。」

懍は、心を込めてそう発言したつもりだったが、くみちゃんの目はまだ反抗的であった。でも、よくある不良少年がするような反抗的な目つきではない。水穂さんのことを、本気でかわいそうだと思っていて、本気で心配しているからこその、反抗的なのである。

「先生、でも、どうしてもあたしたちは納得できません。それに、あたしたちはいくら特権があると言っても、其れのせいで、今までやっていたことを、すべて放棄してよいのかということはないでしょう。それではいけないですから、後任の世話係は、あたしたちに探させてください。」

この発言には、懍も驚いてしまった。日本に、まだここまで純真さをもった女性がいるのか。それがあるのなら、彼女が本当に本領発揮できる場所を、どこかに作ってもらいたかった。それはきっと普通の世界、つまり、学校というところでは、得られないという事だろう。そして、彼女自身も、其れさえあれば、もう少し幸せになれたに違いない。

「あたしも、くみちゃんと同意見です。さすがに、若いからとか、勉強する時期だとか、そういうことで、今までのことをごみみたいに捨ててよいということはないと思います。だって、そういう風に扱われた人って、少なからずいるけど、いい人にはなれません。」

そうかそうか。彼女たちは、必要以上に、ものを見ているような気がした。

「わかりました。では、後任をあなたたちで見つけてください。家政婦紹介所に問合わせるだけではなく、身近な人物にお願いするのでも構いません。」

懍は、ここまで言うのなら、そうした方がよいと思い、その通りにさせてやることにした。

「わかりました。あたしたち、必ず良い人を探しますよ。」

「お願いしますね。」

すでに、くみちゃんは、スマートフォンを出して何か調べ始めていた。久美さん、部屋に戻って作業をなさって下さい、と、懍は微笑みながら言った。

二人は、とりあえず食堂にいった。くみちゃんのスマートフォンで、いくつか家政婦紹介所を検索したが、口コミサイトで見た限り、評判の良い家政婦紹介所はどこにもなかった。雇えたとしても、トラブルが起きて家政婦さんと軋轢が出たとか、そういう投稿ばかり掲載されているのだった。

「之じゃあ、ひどすぎるわ。青柳先生、本当にここからお願いするつもりだったのかなあ。こんなひどい投稿ばかりのっているというのに。」

「これじゃあ信用できないわね。誰か、身近な人にお願いしましょ。水穂さんの身内とか親戚っているのかな?」

二人が顔を見合わせて考えていると、

「こんにちはー。郵便です!磯野水穂さんに届いております。」

と、あわてんぼうの郵便屋の声がした。利用者が、私とってくる、と言って、急いで玄関先に行った。配達員は、国際郵便ですと言って、彼女に一通の封筒を手渡した。

差出人はフランスのパリからで、あて先は、へたくそな平仮名で、「いそのみずほ、またかげやますぎぞうさま」と書いてある。

「かげやますぎぞうって誰かしら?磯野はもちろん水穂さんの苗字なのは知っているけど。」

彼女は戻ってくると、封筒を差し出した。

「よし、開けちゃいましょ。」

くみちゃんは容赦なく封を切ってしまった。こういうところがもしかすると普通の女の子とは違うところかもしれない。

開けてみると、現像したばかりの真新しい写真が、五、六枚出てきた。

「たぶんこれきっと、フランスへ旅行に行ったんだと思うわ。そのときに撮った記念写真じゃないかな。」

写真には、ずいぶん美人だなと思われる外国人の女性と、車いすに乗った水穂、そしてにこやかに笑ってピースしている中年おじさんが写っていた。

「多分このおじさんが、かげやまさんだと思う。」

直感的にくみちゃんはそういった。彼女の勘は時々なんの根拠もなく当たることがある。

「よし、この人にお願いしましょ。一緒に旅行に行くくらいだから、相当仲の良い人だと思うわよ。」

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