第二章
第二章
その日は雨だった。暖かすぎるといわれていたのに、打って変わって寒い日であった。空はどんよりとした曇り空だし、富士山も、蒲原山も顔を出していなかった。
なので、電車に乗って出掛けようとする人も極端に少ない。
「おっはようございまーす!」
今日もブッチャーは、業務の前に、製鉄所を訪れた。
いつもなら、はあいといって出てきてくれる恵子さんのすがたはない。そう言えば、福島のリンゴ畑をやるために、帰ってしまったんだっけ。
とりあえず、新しい調理係のおばさんが来てくれるまでは、利用者たちはそれぞれ、自炊をしたり、コンビニで弁当を買ってきたりして、食料を得ていた。水穂には、宅配弁当ぽかほんたすから、毎日宅配弁当が届くようになっているとジョチさんから言われていたが、本当に食べてくれているんだろうか?
「あ、おはよう。ブッチャー。なんか今日は寒いわね。春が近づいているのに、おかしな天気ね。」
丁度、学校へいく支度をしていた女性の利用者と鉢合わせした。
ブッチャーは、彼女たちからも、本名を忘れられて、ブッチャーとよばれている。
そんなことはもう、気にならなかった。
「そうだねえ。それよりも、水穂さんはどうしてる?」
「普通に四畳半で寝てるわよ。それがどうしたの?何も心配することないわ。」
「おいおい、そんな簡単にいうな。第一、世話は誰がしてるの?」
「ええ、あたしたちが交代で面倒を見ているわ。あと、ぽかほんたすさんから、おばあちゃんたちが定期的にきてくれて、手伝ってくれるわよ。」
「おばあちゃんたちか。ちょっと頼りないなあ。ほら、力仕事が必要な時に、ちょっと心配だよ。おばあちゃんでは。」
ブッチャーが心配そうに言うと、
「でも、あたしたちは、介護の経験がないから、おばあちゃんたちが一緒にいてくれた方がいいわ。いままで力仕事が必要なことは、なかったわよ。じゃ、急がないと学校に遅刻するから、今日はここまで。いってきます!」
と、明るい声で彼女は言い、製鉄所を出ていった。
本当は、容態がどうかも聞きたかったが、それは聞けなかったので、ブッチャーはまたがっかりする。それもそうだけど、おばあちゃんと女の子たちだけで本当にちゃんと看病できるのかなあ?ブッチャーは、それを心配しながら、製鉄所の中へ入っていった。
鶯張りの廊下はやけに重々しかった。日が出ていないということもあるのだろうか、きゅきゅきゅという音が、やたら生々しい気がした。
「水穂さん、入りますよ。」
ブッチャーは四畳半のふすまをあける。
「今日は変な天気ですが、春先ですから仕方ないですね。ま、ゆっくりいきましょうね。」
何も反応はない。
布団の中に横たわっているのは、紛れもなく水穂さんその人なのだが、、、。
「どうしたんですか?またなにかありましたか。」
それにしても反応はない。
眠っているのかと思ったが、それだったら、すやすやと眠っている音が聞こえてくるはずである。それも聞こえてこない。
「水穂さん、どうしたんですか?眠っているんじゃないですよね?それともなにかありましたか?」
ブッチャーがといかけても反応はなかった。
そのかわりに、
「う、うう、、、。」
と、苦しそうに唸る声がかえってきたので、ブッチャーは思わず、
「一体どうしたんですか!苦しいんですか?」
と、急いで言った。
「うう、うう、、、。」
返答する余裕もないらしい。
ブッチャーは掛け布団をめくりあげた。と、胸を押さえて苦しそうに唸り続けている水穂の姿があった。
「どうしたんです!」
返答はなく、水穂はころりと畳の上にころがり落ちると、胸を押さえて激しく強く唸り続けるだけなのだった。
「わあ、大変だ!ちょっと待っててくださいよ。えーとえーと、沖田先生は何番だったっけ。」
ブッチャーは急いで鞄の中からスマートフォンをとり、沖田先生の番号を回した。
「あ、沖田先生!あの、俺です。須藤です。じ、実はですね。水穂さんが大変なんですよ。あ、具体的にですか?あ、あの、唸りかたが普通じゃないんです。呼びか掛けても反応もしないんです。い、意識はあるのかないのかはわかりません。さっきも言いましたが、俺が呼び掛けても、唸り続けるだけで、なんにもいいませんので。あ、咳き込んだり吐いたりですか?それはないです。は、はい、すぐ来てください!おねがいします!」
ほっとしてもいられず、ブッチャーはジョチにも同じ電話をした。ジョチは、沖田先生と一緒にいくから、落ち着いて待っているようにといった。はたして落ち着いていられるだろうか?それを聞かれると、ブッチャーの答えは、とても無理だった。
「落ち着くなんてとてもできませんよ。俺は、そんな超人じゃ在りません。」
ぼそっと呟いたその言葉は、たぶんきっと、自分のために言ったんだと思われる。
その間に水穂さんは、唸るだけではなく、荒々しく呼吸するという伴奏までつけ始めた。
ブッチャーは神頼みするしかなかった。
黒鞄を持って沖田先生が駆け込んできた。ジョチも、一緒にやってきた。小園さんは、もうこんな危ないことはしたくないといっている。しかし、誰も聞いてはいないので、それ以上言わなかった。
沖田先生はまず、水穂には薬を飲ませて落ち着かせた。これでやっと、唸りが止まってくれて、呼吸が楽になってうとうと眠っている。
よかったあと、ブッチャーは大きなため息をついたが、沖田先生は浴衣をぬがせて、胸の聴診をはじめた。その聴診器を取り外すと、大変厳しい顔をして、ブッチャーたちをみる。
「どうなんでしょうか?」
ジョチもそう聞くが、さすがのジョチも、恐々聞いているような口調だった。
「はい。」
先生の顔は厳しかった。
「詳しいことは画像検査してみないとわからないのですが。」
と、切り出す沖田先生。
「たぶんきっと、心膜が炎症をおこしたのだとおもわれます。」
「つまるところの、心膜炎ということでしょうか?」
ジョチが聞くと、沖田先生は静かに頷いた。
「はい。原因は自己免疫によるものだとおもわれます。恐らく、いよいよ心臓まで、免疫が攻撃をはじめたということでしょう。」
「心臓までだって?ほんとにあらゆるところがやられてしまうもんなんですね。」
あきれた顔をしてブッチャーはいった。半分すっとぼけた顔をしているが、それはあきれたというより、怖かったかもしれない。
「そうですよ。須藤さん。そういうことです。これは紛れもない事実なんですから、もうなったものはなったでしょうがないとしてください。」
「そうはいってもねえ。そういうことって、すぐに受け入れられるはずもありませんよ。それはよほど人生を達観している人でなければ、できやしませんから大丈夫。」
ジョチさんがそういってくれて、良かったなあと思ったブッチャーだった。
「でもですね、それにしてはずいぶん早く進行しましたね。やっぱり天童先生の予言は当たっていたんですね。」
ジョチは、ため息をついた。
「つかぬことをお聞きしますが、水穂さん、この数日、心臓に負担をかけるような動作をしませんでしたでしょうか?無理をしてマラソンでもしたとか。」
沖田先生が、またそんなことを聞いてくる。
「何を言っているんですか、先生。マラソン大会に出るなんてあり得ない話ですよ。」
「ええ、確かに、ひどく無理をしてしまったということは認めます。それは本当の事です。先日、この製鉄所の食堂係のおばさんが、結婚式を挙げたんです。その時に、いきなり乱入して、ピアノを演奏したんですよ。」
ブッチャーが、でかい声でそういうと、ジョチがそう解説を入れた。
「ジョチさん、乱入という言葉は使わないでください。乱入してきたわけじゃないんです。あれはきっと、恵子さんに、お祝いの言葉の代わりに、ピアノを弾いてやりたくなっただけの事ですよ。」
まだ不服そうなブッチャーだが、
「いいえ、単的に説明すれば、そうなります。」
「はい。」
と、いうしかなかった。
「で、ここで本題に入ります。水穂さん、心膜炎、つまり心臓が自己免疫によって、攻撃され始めたのであれば、それは、非常に重大なものだと言わざるをえません。ですからこういう場合は、絶対安静による治療が不可欠です。ですから、なるべく、日常的なことから離してやる必要があります。つまり、入院させてやったほうがいいのではないでしょうか。水穂さんの場合、四つの重大な膠原病が複雑に現れてくるのですから、単に心膜炎の治療だけではなく、ほかの治療もしなければなりませんから、ここで療養させるだけでは、治療にはなりません。ですから、ゆっくりと療養できる場所が必要だ。ここから出して、病院に入院させてあげるのはどうでしょうか。幸い、うちの病院に、まだ空きはありますから、検討していただけないでしょうか、、、。」
沖田先生は、耳の痛いことを言い始めた。
「検討ですか、、、。多分無理なのではないでしょうか。」
と、ジョチは言った。
「しかし、一刻を争う重大な事態と言っても、過言ではありません。水穂さんの生死にかかわることです。それをしっかり口にして、十分に説明してやれば、本人も納得するのではないでしょうか?」
「ええ、医学関係の方は、そういうんですけれども、本人の意思というのは、他人が操るのは非常に難しいですからね。いくら、周りがこうしろああしろと言いましても、無理なものは無理ということは非常に多いですから。」
「そうですが、生死が関わってくれば、また反応も変わってくるのではないでしょうか?もし、水穂さんが嫌がったら、誰でも死にたいとは、思わないでしょうし、私も、死なせたくありませんから、受け入れてくれるのではないでしょうかね。」
沖田先生は、医療者らしくそんなことを言う。
「もう、こうなったら、水穂さん本人が目を覚まして、本人から話をつけましょう!本人は頑として、いうこと聞きませんけど!」
二人の話に、ブッチャーは我慢できなくなって、でかい声で言った。
「それなら、そうさせてもらいましょう。私たちも、医療者として、彼を何とかしなければならないと、自負していますから、最後までしっかり説得させてもらいますよ。」
沖田先生、まさしく宣戦布告しているみたいだ。
数時間後、布団のうえからん、んん、と声がした。
「あ、目が覚めたみたいですよ。」
すでに、夕日は傾いていて空はすっかり夕焼け色になっている。
「水穂さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい。」
と言って、水穂は布団のうえに座ろうと試みたが、
「ああ、だめです。ダメです。それはいけません。今は絶対安静にしていなければなりません。体を起こすこともさけてください。心臓への負担が大きすぎます。」
沖田先生は、すぐに布団に横にならせた。ブッチャーが、体にかけ布団をかけてやった。
「水穂さん。今、沖田先生がおっしゃった通り、あなたは、心臓にまで病気が進行していて、安静が必要な状態です。ですから、完全な安静を保つためにも、ここではなく、入院させてもらった方が良いのではないですか。幸い、沖田先生の病院に、空き部屋がまだあるそうですよ。」
ジョチが、とりあえずの状況を説明したが、水穂はやっぱり嫌そうな顔をした。
「まあ、そうですね。確かに、嫌なのはわかりますが、それはしかたないとしてあきらめることも必要ですよ、水穂さん。そうではなくて、しっかり病気を治してくれるところに行って、ゆっくり療養してきてもいいのではないですか?」
「いえ、お断りします。」
細い声だが、きっぱりとした声で水穂は言った。
「なんでですか。またそんなこと言って。もしかしたら、これは、チャンスなのかもしれませんよ。ほら、よくあるじゃないですか。長年病気をしていると、体がそれに慣れてしまって、なおったと勘違いするんですけど、急に容体が悪くなって、それで、入院してやっと完治する。そういうケースが、あるでしょう。水穂さんも、心臓まで悪くなったんですから、これこそ根本的な解決へ向かっていくための、チャンスかもしれませんよ。」
「ブッチャーさん。それは、スポーツマンの言うことで、一般の人には必要ありません。」
ブッチャーが、そういうと、水穂はそれも否定したのであった。
「水穂さん、須藤さんも、先生もこうして言ってくださるのですから、これは快く従うべきではないでしょうか。もし、金銭的に余裕がないのなら、僕が少し出してやっても、かまいませんよ。」
ジョチが、実業家らしくそういったが、水穂は首をふった。
「だったら、理由をしっかり話してくれないでしょうか。そこをはっきりさせておかないと、僕たちも、不快なまま、この話を終わることになりますから。」
そのままちょっと語勢を強くして、ジョチは質問した。
「水穂さん、俺にも話してください。俺も、貧乏呉服屋として、銘仙の販売を一応しているんですから。水穂さんの話は、必ず同和問題が絡むでしょ?」
ブッチャーもそれに同意する。
「ええ、まさしくブッチャーさんのいう通りです。僕が病院に入院したら、必ず何処かで内紛が生じます。患者さん同士かもしれないし、病院のお医者さん同士かもしれない。」
水穂は、細い声であるが、そう話し始めた。
「ですけど、今回の入院は、沖田先生のところですから、主治医は沖田先生ですし、看護師も誰か適任者を絶対選んでくれますよ。だから大丈夫ですって。」
ブッチャーは、一生懸命それを否定しようとするが、
「いえ、ブッチャーさん。多かれ少なかれ、僕は何か言われますよ。ほかの患者さんから、病室を変えろとか、同和地区から来た患者さんを看病するなんて、今回は何てあたりが悪いのかしらなんて、看護師さんに言われるようであれば、いくら手厚く看護されていたとしても、安静になんかできるはずもないんですよ。それがなくなることは二度とありません。」
と水穂はきっぱりと言った。
「二度とないって、、、。二度とないって、そういう過去のことに縛られ続けて、弱っていくだけなのは、水穂さんのほうでしょう!」
膝を叩いて、ブッチャーは、でかい声で言った。
「ですから、歴史的な事情とはそういうことです。いつの時代にも変わらないで、ずっと続いていくのが人種差別ですよ。僕たちは、ずっと差別されて生きてきたんですから、それは仕方ありません。ある時代になって、急に差別が解消されるのかということはまずないんですよ。誰か英雄が現れて、僕らを救い出すということは、まずありませんでしょ。テレビアニメではないんです。これは現実なんですから。」
「だけど、磯野さん。本当にこれは、磯野さんの生死がかかっているんです。医学的に言ったら、心臓が自己免疫によって、破壊され始めたという証拠ですよ。心臓は、どれだけ重要な臓器なのかは、皆さんもよくご存じなはずだ。そして、破壊されていくということは、心臓が、その機能をしっかりしないということになる。そうなったら、どうなるか。わかりますでしょう。磯野さん。」
水穂がそう言うと、沖田先生が医者らしい発言をした。
「そうなっても、僕はこっちに居たいと思います。冷たい病院の中よりも、ここの方が、よく知っている仲間もおりますし、親密になるのに時間をようする看護師よりも、はるかに気が楽な気がします。」
「そうですか、、、。」
沖田先生は、暫く黙り込んだ。
「以前、ヨーロッパに旅行した時も、同じことを勧められたことがありました。その時も言いましたが、えたの人間が、たった一人で贅沢をするなんて、あり得ないはなしです。僕を含めて、伝法の仲間は、みんな災害に巻き込まれても、遺体の処理もされず、烏が何羽も来たりして悲惨な状態で帰ってくるのが当たり前でした。その中で、僕だけが贅沢何て、ほかの者になんていったらいいか。」
「水穂さん、いくら部落民だったからと言って、俺たちのことまで否定はしないでくださいよ。少なくとも今は、伝法はゴルフ場になってて、もう部落はなくなっているんでしょ?其れなら、もう過去にこだわらなくても、いいんじゃありませんか?それに、俺が販売している銘仙だって、誰も同和問題の事を気にする人はいませんよ。なんでまた、水穂さんだけが、いつも頑としていうこと聞かないで、せっかくの治療も拒み続けて、弱っていくだけなんですかね。そりゃ、医学的に言って、治りにくい病気なのかもしれないですよ。それにしても自虐的すぎるというか、なんというか、、、。」
ブッチャーは、もう我慢できなくなって、水穂にそういったのだが、
「いえ、其れこそ、部落民に対する偏見なのかもしれないですよ。」
と、ジョチは言った。
「たぶん彼は、自身だけ一人助かるのがつらくてしょうがないんですよ。広島の原子爆弾とか、チェルノブイリの原発事故とか、最近では、東日本大震災とか、危険な場所から奇跡的に生還できた人が、自身だけ一人助かっても仕方ないとして、後を追って自殺してしまうという例は本当にたくさんありますよ。」
「ジョチさん、何を言うんですか。俺は、そんな大昔の災害についての話なんか聞きたくありませんよ。いまここで起きている話をしてください。」
ブッチャーは、そう反論するが、
「いえいえ、人間にはそういうことはたくさんありますよ。なぜか、愛する人を失ってしまうと、生きようという気にはならなくなってしまうんです。それが、ある意味、人間の共存するための、理由なのかもしれないですよね。」
「なるほど、愛する人を失ってしまうと、人間は生きようという気にはならなくなるんですか。それじゃあ、うちの姉ちゃんが、いなくなると、家族が喜ぶのはなぜだろう。」
と、ジョチに言われてまた黙るのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます