本篇20、In my life

増田朋美

第一章

In my life

第一章

今日もテレビでは、まだ三月初めだというのに、暖かくなりすぎだと言って騒いでいる。このままだと日本は、温暖化が進み、温帯どころか熱帯に変わってしまうのではないかという意見も交わされている。少しでも気温を下げようと、エアコンの使い過ぎをやめろとか、フロンガスの使い過ぎをやめろなど、あちらこちらで騒がれているが、人類は後戻りということはもともとできないようだ。次に進まないで昔ながらのやり方をそのまま続けていれば、こうはならなかったのではないか、と、思われることも結構ある。

例えば、有害とされる工業製品を、今更有害として捨てることはまずできないだろう。過去にあったものをよいものとして、もう一度使おうということだってまずできない。それらをうまく受け入れて使いこなせるようにならなければ、人類は永遠に、命令を下し続ける偉い人達と、そうでなければ生活できないと反抗し続ける下層市民たちとに、はっきりと分断されてしまうと思われる。そして、上のものは、下のものを永遠にバカにし続け、下の者は上のものを永遠に憎み続ける世界が、続いていくと思われる。その中で、若い人も年寄りも、健常者も障碍者も一緒に生きていかなければならないのだった。

そのように、テレビや新聞などでは、日本の将来を偉い人たちが相次いで心配していたが、ブッチャーこと須藤聰は、どう見ても偉い人たちの心配事を、心配事として同じように考えることはできないのだった。

「あーあ、偉い人ったら、なんでこの環境問題ばっかり気にするんだか。もとはと言えば、えらいひとたちがすごいものだから使ってみろって、命令しただけじゃないか。俺たちはただ、便利だからと言って、それを勝手に使わされただけだよ。こんなに有害だとわかるんだったら、そんなもの、初めっから作らなければいいんだ。」

丁度、ブッチャーのところへ、ぱくちゃんがラーメンを持ってきた。

「はいブッチャー。味噌叉焼麺。ブッチャーのことだから、沢山食べるだろうなと思ってさ、大盛にしておいたよ。」

「おう、悪いねえぱくちゃん。そういう日本人にはない気遣い、うれしいなあ。」

と言ってブッチャーはラーメンを食べ始めた。

「気遣いっていうか、サービスと言ってよ。もうなじみのお客さんだし、日ごろから大食いだってのは、とっくに知ってるよ。毎回毎回、替え玉と何回も頼むんだから、たくさん食べたいんだな、この人は、っていうことくらいは、学校にいっていない僕にもわかるよ。」

ぱくちゃんは、照れ笑いしながら、そういったが、

「ありがとねえ。ぱくちゃん。ほんと、俺助かった。ぱくちゃんがそうやって学習してくれてうれしいなあ。それに引き換え、日本政府は、これだけ被害者が出ても、学校設備を変えようとしないんだからよ。全く頭が悪いというか、気づくのが遅いんだよな。」

と、ブッチャーは大きなため息をつく。

「へええ、日本の学校って、そんなに悪いの?僕らの中国では、学校へ行けるなんて、いくらあこがれてもできないんだよ。毎日、道路掃除をしながら、学校に行く漢民族の人たちを、羨ましいなと思って眺めてたよ。僕たちは、学校なんていくら高望みしてもいけないんだし、行けても、途中でお金が払えなくて、やめちゃう人がほとんどだし。」

「ま、まあねえ。かえってそのほうがいいのかもしれないよ。学校なんて、いつでもだれでもいけるようなところにしちゃったら、かえって弊害の方が大きいような気がする。そういう風に特定の民族だけいけるようにした方がいいと思う。そのほうが、俺たちも幸せになれるような気がするなあ。誰でも教育を受けられる社会になったからありがたく思えと言ったって、憎む人にとっては、一生憎まなきゃいけない場所になるからなあ。」

またブッチャーはため息をついた。

「そんなにひどいの?日本の学校って。僕は、子どものころ、学校は文字を読めるようになって、お金の勘定ができるようにさせてくれると言われていたよ。」

「そうそう。そこさえ教えてくれれば、あとは学校なんていらないよ、ぱくちゃん。あとはもう学校になんか行かないで、自由に勉強させればいいのに。だってさ、学校なんて、いわば誰にも手を付けられない檻だよ。そこの中に入ると、教師というまるでどっかのカルト集団の教祖みたいな人物に、世の中のことをいろいろ言われて、洗脳して行くんだから。教師どころか、暴帝だぜ。」

そういって、またまたため息をついてしまうブッチャーだった。

「ブッチャーさ、すでに三回もため息ついてる。そんなに学校って嫌だった?学校の先生って、僕は悪い人じゃないと思うな。少なくとも、僕たちウイグルの村にあった学校の先生は、とっても優しくて、わからないことがあっても、親切に教えてくれて、しっかり面倒を見てくれる人だって聞いたけど?」

「いやいや、そういう未開の地ではそれでいいのかもしれないが、日本の学校は、生き地獄だ。それくらい酷かったよ。」

「そうなんだ。ブッチャーがそんなひどいことされてたなんて、僕、知らなかった。」

と、ぱくちゃんは意味深そうに言ったが、

「俺じゃない。俺は大学は行かなかったけど、ちゃんと高校には行ったし、それなりに思い出もある。

そうじゃなくて、俺の姉ちゃんだよ、被害者は!」

とブッチャーは、其れをきっぱりと否定した。

「へえ、そうなんだ。今までの話はブッチャーの事ではなくお姉さんの話だったんだね。それじゃあ直接被害があったわけじゃないのに、なんで日本の教育はだめだとか言うのさ。」

「ま、自分中心の外国人には、この感覚はわからないかもな。とにかく、本人もつらいことは確かなんだろうが、周りのやつは、本人以上につらくなってしまうというもんなんだ。」

「うーん、わからないわけでもないな。僕らも、村でなにかあったときは、村全員でかかわるのが当たり前だったからな。」

「いいなあ、ぱくちゃん。そうやって、村で何とか何て。それがちゃんと根付いていれば、日本人も心の病気にはならないよ。うらやましい、、、。」

また号泣するブッチャーだが、

「でも、僕の村は、当の昔に壊滅したよ。漢民族に盗られちゃったよ。村の人も、もういないんだ。暴動でね。」

と、しんみりとぱくちゃんに言われて、やっぱりどこの国でも一長一短あるんだなあということに気が付いた。

丁度この時、店の入り口にぶら下げてあるカウベルが、カランカランと音を立てて鳴った。

「あ、理事長さんこんにちは。」

「どうもです。春が近づいてくると言いますが、今年はどうも急ぎすぎているようですね。」

入ってきたのは、まさしくジョチその人であった。

「どうもすみません、わざわざ忙しいのにこんなところに来てくださいまして。」

ブッチャーは、口に入っていたラーメンを急いで飲み込み、敬礼してご挨拶する。

「いや、急がなくて結構ですから、味わって食べてください。僕もまだ、お昼ご飯を食べてないんです。」

ジョチがそういうと、ぱくちゃんが、注文内容を聞いてきたので、味噌ラーメンとジョチは答えた。

「は、はい!すみません、本当に忙しいところを、、、。」

この時ばかりは大盛ラーメンにしなくてもよかったなと思う、ブッチャーであった。

「で、何ですか、今日は。大事な相談をしたいから、お話を聞いてほしいなんて。」

ジョチはブッチャーの隣の席に座る。

「はい。本当は、青柳先生に相談しようと思ったんですけどね。まだ先生は中国から帰ってこれないようですし、それならジョチさんに、お願いできないかなと思いまして、、、。」

ブッチャーはもじもじしながらこう話を切り出した。ジョチも付けていたストールを取って、ブッチャーの話を聞き始める。

「あのですねえ、俺の姉ちゃん、つまり須藤有希ですが、姉ちゃんを、ジョチさんの焼き肉屋さんで雇ってもらうわけにはいかないでしょうか?」

之には少しばかりジョチもびっくりしたようだ。

「ブッチャーさんのお姉さん?」

「はい。名前は須藤有希、有るに希望の希と書いて須藤有希ですが、俺とは五年年上の姉です。今まで社会へ出て働いた経験はありません。生け花の教室には通ったことがあって、そこで師範免許まで取らせてもらったのですが、たぶんそれは生涯、役に立つことはないとみな言っています。本人も、社会的に居場所がなくて、ひどく動揺していますので、ジョチさんの焼き肉屋さんに、勤めさせれば、本人も落ち着くんじゃないかと思うのです。」

「はあ、なるほど。つまり、ブッチャーさんより五年離れているということは、つまるところ、35歳というわけですね。其れなのに、働いた経験は一度もないとは、何かわけがあるのでしょう?」

ジョチの聞き方に悪気はないが、ブッチャーは申しわけなさそうに下を向いた。

「僕は簡単に非難したりはしませんから、お姉さんのことをもう少し詳しく話してもらえないでしょうかね?」

「は、はい。でも、このことは、本当にご内密にお願いします、、、。」

ブッチャーは重々しく語り始めた。

「俺の姉ちゃんは、俺がもの心ついた時から、ちょっと変わっていたことは確かです。なんだか小学校で流行ってるような服のブランドも好きじゃなかったし、食べ物の好き嫌いも多かったし。それに

学校というところにどうしてもなじめないようで、よく授業中に泣いたりしてました。ほかの生徒さんのスピードについていけないとか、運動をさせると、極端にできないとかで。それで、姉がチームに入ると、どんな運動でもそうなんですけど、必ず負けるんで、よく運動を楽しめなくさせる存在として、いじめられてました。小学校からこれはずっとそうでした。ただそういう問題を起こす割には、暗記力は俺より良くて、よく世界史の用語などを覚えていて、良い成績は取ってました。」

「ははあ、なるほど。」

ジョチも頷きながら聞く。

「ですが、どうしてもですね、中学校というところは、内申点ばっかりが優先されちゃう世界ですから、体育の成績がすこぶる悪かったんで、俺の姉ちゃんは、良い高校に行くことはできなかったんですよ。」

「具体的にはどこに行ったんですかね。」

ジョチの質問にブッチャーは、

「ええ、吉永です。文字通り、吉永にあるから吉永というんですかね。」

と答えた。

「ああ、昔は女子高でしたよね。確か、藤高校の次の順位を誇っていたが、近隣に私立高校ができて、今は、下火になっているという。共学になってからの評価は、富士市内ではワーストに近いのではないでしょうか?」

「よ、よく知ってますね!俺、誰にも信じてもらえなくて困ってたんですよ。みんな藤高校の次だからいいじゃないかしか言ってくださらなかったんですよ。姉ちゃん本人も病院の先生に、信じてもらえなくて、先生を殴ったことさえあるんですよ!」

「知ってますよ。そのくらい。酷いところになったのは、うちの従業員から耳にタコができるくらい、聞かされていますし、過去の栄光が大きすぎて、信じてもらえない事だって、聞かされてますから。彼女たちは、控えめに言って最悪と表現されていますよ。」

「ああ、ありがとうございます!其れだったら、俺の姉ちゃんの言っていることを聞いてくれることもできますね!もう、俺たちは学校のことを長々と聞かされるので困っているのです!」

ジョチがブッチャーの話に同調すると、ブッチャーはやっと期待が持てそうだと喜んだ。しかし、

「病院で診察は受けているのですか?」

とジョチに聞かれて、改めて緊張する。でも嘘はいけないと思い、ブッチャーは正直に、

「はい、行ってます。今でも二週間に一度通ってますし、病院の先生も、一度診察するとだらだらと話し出すので、困った患者とみなしているようです。それが姉ちゃんは、さらにつらいらしくて、俺たちに、学校であったことをしゃべって、止まりません。」

と答えた。

「そうですか。で、ご両親は、彼女をどんな風に扱っていらっしゃるのですか?」

「もう、何度も同じ話をするなと、怒鳴りつけるだけです。もう終わったことなんだよとか、過去は忘れて前へ進みなさいとか、そういう話をするだけで。」

「なるほど、そうですか。それでは、うちではちょっと雇うことはできませんね。」

ジョチの発言に、ブッチャーはまた落胆の表情を見せた。

「当たり前じゃないですか。彼女は、ご両親にしてもらいたいことを、まだしてもらってないんですから、完全に過去とは決別できておりませんよ。きっと、何か過去に関連するものを見たり聞いたりしたら、また声を上げることもあるのではないですか?」

「図星だ、、、。」

ブッチャーががっかりしたのが、まさに答えだなと思われた。

「まあ確かに、ご家族の何とかしてほしいという気持ちもわからないわけではないですが、働くにはある程度落ち着いてからではないと、雇えません。それに、こちらも変なところで叫ばれたりされると、非常に困りますから、そういう方は扱えませんよ。」

「やっぱりそう来ちゃいますか、、、。」

ブッチャーは、どうしたらいいのかわからないという顔をした。

「じゃあ、俺たち、どうしたらいいんでしょうか。もうこれ以上姉ちゃんに振り回されたくありませんよ。」

「それなら早くお姉さんが要求することを、叶えてやることじゃありませんか。とにかくそういう人は、望みが叶うまで動くことはありませんから、それを実行させることでしょ。」

「だけど、そんなことを実行なんて、うちの両親、気が付くことはありませんよ。だって両親は、もう、学校でのことは済んだことだと思っているんです。まあ姉ちゃんも、姉ちゃんで、高校のときそんなひどいことをされたなんて、一言も言わなかったのも悪いと思いますが、姉ちゃんのいうことでは、学校で訴えることも、許されなかったということです。うちの両親は日ごろからなんでもいうようにと言い聞かせていたし、辛いことがあれば、すぐに言ってくるはずだと予測していたはずだから、そんなことがあったなんて、全く知らなかったそうなんですよ。何かあれば、泣いて訴えてくるだろうと予測していたが、おかしくなってから言い始めるのも、信ぴょう性が薄いと言って、両親も信じないんですよ。」

「一つ、ヒントを差し上げましょうか。」

と、ジョチが言った。

「精神障碍者の前で、禁止ワードとしてあげられるのが、何々だろう、何々のはずだ、この二つ何ですよ。」

「ちょっと待ってくださいよ。俺、言ってはいけないセリフを言いましたでしょうか?」

「はい。いいましたよ。いいましたもの。今さっきの発言の中で、何々だろうとか、何々のはずだ、と、何度出てきたのか、勘定してごらんなさい。」

ブッチャーはがっくりと肩を落とした。

「そして、態度をあいまいにしないこと。それから、口に出していったことは、必ず実行させること。この二つ。いいですか、精神障碍のある人の前では灰色は存在させてはなりません。それはより、彼女を混乱させることになります。すべて白、或いは黒に統一させること。そこを徹底的に貫くようにしてください。」

ジョチは、ブッチャーにそういったが、

「今の両親では、とてもそんなことはできそうにありません。」

と、ぼそっとつぶやいた。

事実、ブッチャーの自宅では、

「やめて、やめなさい!有希!」

と、母が叫ぶと同時に、お皿ががちゃんと割れる音。

「うるさい!」

と、叫んで、怪獣みたいな声を挙げながら、次々に茶箪笥から、皿を出して、がちゃんと落とす有希。

これでは、紙皿でご飯を食べるしかないじゃないかと、母は言おうとしてやめておいた。そのあと、自殺を企てる可能性もなくはない。

全部の皿を割り終えると、有希は天井を見つめて激しく泣くのだった。というよりそれしかできないのだった。母は、今日は、お皿が十枚割れただけで、直接的にこっちに被害がなかったから、よかったのかなあと呟きながら、黙ってお皿を片付ける。この時も、小言は言えない。それを言ったら、また暴れる可能性があり、刺激を出してはいけない。

でも、有希はまた違う顔をしている。単に暴れてよかったということを表現している顔ではなかった。それだけ暴れたのだから、なにかしてくれと言いたげな顔である。

でも、その顔の意味は、母には理解できないようであった。というよりできない気がした。

「それでも、誰かが変わらないといけませんよ。もちろん、偉い人は、そういいますよ。しかしですね、障碍者本人に、自分が変わらなければどうのこうのと言っても何も意味がないんですよね。それでは余計に彼らを追い詰めるだけの事です。そうではなくて、考えを変えるヒントやきっかけを作る方が大切でしょう。それを提供してやれるのは、やっぱり身近な家族ですよね。」

「そうですね、、、。」

ブッチャーは、そうだなあという気はしたのだが、

「もう無理ですよ。俺の両親は、その場しのぎで精いっぱいじゃないかと思います。これではうちの家族にできることはないと思います。」

と、いうしかなかった。しかしジョチは、

「それではなりませんよ。そうじゃなくて、変えられない人物に託しても無駄ですから、変えられる人がやるんでしょ。それは親がすべてということはありません。誰でも変える役になれます。」

という。偉い人のいうことはやっぱり同じことなんだなあと思うけど、それは真実は一つであるということでもあった。それなら、その通りにするしかない。

「俺は、そう動くしかないのですかねえ。」

と、ブッチャーは、そうつぶやいた。

「もし、成功したら、あなたも少し自信がつくのではないですかね。それが付けば、人間、だれでも成長できますよ。」

「僕も、その手伝いができたら、いいなあ。」

不意にぱくちゃんがつぶやいた。

「僕も、なにか役に立ちたいから、何でも言ってね。」

「よろしくお願いします。」

「まあ、ぱくさんも何か役に立つことがあるかもしれないですからね。」

ブッチャーが一礼すると、ジョチも笑った。

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