動き出す歴史の歯車

◇◇


 大御所、徳川家康と豊臣家一行が駿府を発つ日を迎えた。

 俺、豊臣秀頼は家康のお供として江戸に入る予定だった。

 そうすることで、「豊臣家は徳川家に恭順している」と世に知らしめることができると考えていたからだ。

 しかし家康からの指示は異なるものだった。

 

――秀頼殿は竹千代のお供として江戸に入ってほしい。


 なるほど。

 これで江戸にいるはずの竹千代が駿府に滞在していた理由が、よく分かった。

 つまり俺が駿府に入るという情報が事前に伝わっていたからだ。

 さらに俺が竹千代のお供として江戸に入れば、江戸の人々はこう思うだろう。

 

――豊臣家は『竹千代』に恭順している。


 と。

 ではなぜ『豊臣家は徳川家に恭順している』ではなく、『豊臣家は竹千代に恭順している』としたかったのか。

 答えは一つしかない。

 

――徳川家内に『後継者争い』が起こっている。


 昨晩、伊茶が必死に俺へ伝えようとしていたのは、このことなのかもしれない。

 だが彼女はかつての俺がそうであったように、『未来で起こることをしゃべることができない』という制約を抱えている。だから結局は何も分からずじまいだった。

 それでも「豊臣秀頼が不幸になる」ということまでは教えてくれた。

 120万石の領地に加え、譜代大名扱いという、まさに別格の豊臣家が窮地に陥るとすれば、徳川家内のいざこざに巻き込まれる以外に考えられない。

 

 では仮に、俺が徳川家の後継者争いに巻き込まれたとして、俺はどう振る舞うべきだろうか。

 俺が知る史実でも、徳川家光と徳川忠長の兄弟による将軍の後継者争いはあったとされていた。

 つまり『家光(竹千代)派』と『忠長派』の二つに分かれるということになる。

 

 さて、俺はどうする?

 

 『家光派』か。

 『忠長派』か。

 『中立』を貫くか。

 それとも、どちらも敵に回すか。

 

 俺の知る史実の通りに歴史が動くならば『家光派』に回るのが正しい選択だろう。

 しかし豊臣家が残った今、徳川家光が第三代将軍に任命されるとは限らない。

 もしかしたら徳川忠長かもしれない。

 伊茶、つまり麻里子はその答えを知っているのだろうが、彼女の口からは聞くことができないのが非常に惜しい。

 だが嘆いてばかりもいられない。

 もはや『歴史の歯車』は動き出したのだ。

 いよいよ腹を決める時だろう。

 

 俺が豊臣秀頼としてこの時代にやってきたばかりの時は『豊臣家の滅亡』という『結末』が分かっていた。

 よってその結末を変えるように動けばよかった。

 しかし今は違う。

 『結末』がまったく分からない。

 だから『歴史を変える』という概念はまったく通用しない。

 

 すなわち俺がしなくてはならないことは、

 

 

『歴史を作る』



 ということだ――。


◇◇


 徳川家康と豊臣秀頼が駿府を発った日。

 富士山のふもとにある吉原という地が宿に選ばれた。

 吉原宿と言えば東海道五十三次で第十四番目の宿場として知られており、そこそこ栄えた町だ。

 しかし大御所と豊臣家の当主が一度にやってくるなんて知らされたものだから、町の人は大慌てになった。


――とにかく立派な宿をこさえなくてはなんねえ。


 裕福な町民たちが中心となって、豪勢な本陣が構えられた。

 これには大御所も秀頼も大満足だったようだ。

 つつがなく夕げも終わり、一行は旅の疲れを癒やすため、富士を左に見ながらぐっすりと眠りについたのである。


 しかしたった二人だけ、一向に寝る気配を見せない。

 於福と天海だ。

 彼女らは本陣からわずかに離れた神社の一室で、何やら話し合いを始めたのだった。

 

「ここは阿幸地あこうじ様が祀られているようですね」


「火の神様じゃ。富士の噴火を鎮めるお役目を担っておる。火をもって火を制すとは、ずいぶんと大胆だのう」


「ふふ。こうして日ノ本が千代に続いているのは昔の人々の知恵のおかげというもの。『大胆』と揶揄するのは、いかがなものでしょう」


「カカカ。では太古の知恵にあやかるつもりかのう?」


「はて……? おっしゃっている意味が分かりかねます」


「では、はっきりと申そう。秀頼公をもってごう様を制す、と考えておるのではないか?」


 天海の言う『江』とは、将軍徳川秀忠の正室、江姫のことである。

 彼は於福が豊臣秀頼と江姫を対立させようとしているのではないか、とふんでいるようだ。

 問われた於福は微動だにせず、静かに微笑んでいる。

 それは「是」とも「否」とも取れる表情だ。

 天海は是として続けた。

 

「じゃが、一つの火を制しても、片方の火は残る。どうするつもりなのじゃ」


 於福の細い目がさらに細くなる。

 天海は黙って彼女の様子をうかがった。

 どうやら最後の答えくらいは、彼女に言わせるつもりらしい。

 そんな彼の意図をさとった於福は、ゆったりとした口調で答えたのだった――。

 

「江戸の火消しに聞いたのですが。煙があがれば周囲を壊すそうです」


「ふむ。つまりどういうことじゃ」


「ふふ。お意地悪な御方。……つまり、火の回りにあるものを取り除けば、自然と火は消えましょう」


「まさか……。お主……」


 天海の顔から血の気が引いていく。

 一方の於福は能面のような表情から、みるみるうちに夜叉のような険しい顔に変えた。

 そして地響きのするような低い声で言った。

 

「絶対に忘れぬ。わが父、斎藤利三の無念を。わが主、明智光秀様の怨念を」


「於福……。やめよ……。光秀を討った太閤はもうこの世にはおらぬ。息子の秀頼殿に罪はない」


 くわっと目を見開いた於福は、普段の彼女からは考えられないほどに取り乱し始めた。


「やめぬ。やめぬ。やめぬ!! 豊臣が憎い! 豊臣が憎い! 大御所様が果たせぬなら私が果たすまで! この身と心は復讐に捧げると誓ったのだから!」


 あまりにどす黒い呪いの念に、天海ですらめまいを覚える。

 しかし彼はここで引くわけにはいかなかった。

 なぜなら彼こそが、彼女の中で燃えたぎる憎悪の炎を知っていながら、彼女を竹千代の乳母に推薦した張本人なのだから。

 彼は信じていたのだ。


――うぶな赤子を育てることで、彼女の魂は浄化され、彼女の秘めた炎は徳川を導く光となるだろう。


 と。

 果たして彼の思惑通りに事は進んでいた。

 於福は一所懸命に奉公し、その働きぶりは大御所も将軍も認めるまでであった。


 しかしある時を境に彼女は変わった。

 否。

 むしろ何も変わっていなかった。

 巧みに隠していた邪悪な牙をあらわにし始めたのだ。


 そのきっかけになったのは『大坂の陣』であった。


――馬鹿な……。豊臣が残っただと……!?


 あの時に彼女が見せた絶望と憤怒が混じった恐ろしい顔を天海は忘れることはないだろう。


 そして彼はようやく気づいたのである。

 彼女の生きる目的を。


 それは……。


 豊臣をこの世から消し去ること。


 だが天海はあきらめるつもりはなかった。

 彼女を正道に導き、徳川を照らす光となるように変えることを。


「於福! 出過ぎた真似を考えてはならぬ! お主は乳母。一番に考えるべきは竹千代様が立派な徳川の跡継ぎになることであろう。豊臣も含め、天下の仕置きを考えるのは上様じゃ」


 ばしゃりと冷水を浴びせるような天海の言葉に、於福の顔色が元に戻っていった。

 天海はほっと胸をなでおろした。

 ……しかし。


「くくく……。はははは!!」


 なんと於福が大笑いを始めたではないか。

 部屋を灯す火が、彼女の笑い声に合わせて揺れる。

 異様な空間に天海は奇妙な浮遊感をおぼえていた。

 

――取り込まれてはならぬ。


 自分に言い聞かせるのが精いっぱいで、彼女の高笑いを止められない。

 しばらくしてようやく笑い終えた於福は、見たものを凍り付かせるような冷たい表情で言った。

 

「火を持って、火を制す……。おっしゃる通りです。秀頼公を持って、相手を制する。でも、その相手が江様では力不足ですわ」


「な……に……。於福! 馬鹿な考えはやめよ!!」


「ふふ。要は一刻も早く竹千代様が将軍を継がれればよいのです。だってそうでしょう? 天下の仕置きは将軍様が考えるべきこと。すなわち竹千代様が将軍となれば、竹千代様が考えるべきことですもの」


 天海はもはや出すべき言葉を失ってしまった。

 それは、すべてを食らうヤマタノオロチを前にした、ただの人に等しかったのである。

 ただし於福の狙いは天海をもてあそぶことではないようだ。

 彼女は二コリを微笑むと、軽やかな声をあげた。


「では阿幸地様をお参りいたしましょうか」

 

 とたんに空気が元に戻り、天海はうつつに引き戻された。

 だが汗に濡れた体はしびれたままで、簡単には動きそうにない。

 そんな彼をよそに、於福は跳ねるような足取りでその場を去っていったのだった。



 ……しかし。

 彼女が気づかなかったことが一つだけある。

 それは、もう一つの黒い影。



「頼んだぞ」



 そして天海が部屋の外に声をかけていたこと――。


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将軍を継ぐ者 順風満帆にならない豊臣秀頼への転生ライフ 友理 潤 @jichiro16

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