空翔ける鷹に想いをのせて【終幕】 人に生かされるということ

◇◇


 竹千代たちが去り、次いで勘右衛門が去った後、七重は遠い過去に想いを馳せていた。

 

 もう十五年も前の在りし日のことだ。

 

 遠い故郷で尊敬する殿と奥方に奉公していた日々。

 殿が鷹狩に出るときはいつも皐月を連れていた。

 ふと耳をすませば家老たちとの問答が聞こえてくる。

 

――殿。なぜ皐月を連れていかれるのですか? 鷹狩にくま鷹は向いておりませぬ。大鷹の方が小さく、扱いやすいですぞ。それに頭の形が黒頭巾のようで恰好が悪いではありませんか。


――ははは! 恰好や大きさなど気にせぬ! お主は人を見るときに姿恰好でえり好みをするのか?


――いえ、それは……。


――それに鷹狩は人が鷹を扱うのではない。鷹が人を扱うのだ。もし鷹と息が合わぬということであれば、それは人の鍛錬が足りぬということ。ゆえに大鷹もくま鷹もわれには関係ない。


――これは、したり。殿の深いお考えも知らずに余計なことを申しました。


――よい、よい! 皐月はわれらの家族だ。常にともにありたいと願うのは当たり前であろう! ははは!


 「皐月はわれらの家族」という言葉が七重は好きだ。

 とても幸せな気分になれる。

 殿の分け隔てなく誰にでも優しく接する姿に憧れ、自分もそうなりたくて努力してきた。

 どんなに過酷な毎日でも笑顔を振りまいてきた。

 振り返ってみれば、決して幸せとは言えぬ一生だったかもしれない。

 それでも彼女は伏見屋を離れるさいに、多くの同僚たちから涙で見送られたことを誇りに思っていた。

 そして今、恩人の勘右衛門に手あつく看病されている。

 だからなんの不平などない。

 しかしもしわがままを一つだけ言えるなら、もう一度だけ皐月に会いたい。

 それは極めて純粋な望郷の思い。

 でもそれは決して口に出してはならぬことだと彼女は思っていたのだ。

 

 それを今日。

 見知らぬ少年が口にした。

 

――あ、あ、あいたく、ないのか? さつきに!

――え、えんりょ、するな。き、きっと、皐月も、お主に、会いたがって、いる。


 決して聞こえやすいとは言えぬが、とても不思議な力を持つ声だった。

 消えかかった命の火がもう一度燃えたぎり、抑え込んでいた欲求が胸の鼓動を早くした。

 

「ああ……。会いたい」


 思わず本音が漏れる。

 ……とその時だった。

 

「な、ならば、会いに、いこう」


 なんと先の少年の声が間近に聞こえてきたではないか。

 彼女はにわかには信じられなかった。

 ついに幻聴が聞こえてくるまで病が悪くなってしまったのか、と自分の耳を疑う。

 しかし背中にそっと添えられた女の手に、それが幻聴などではないと察した。

 

「肩をお貸しいたします。お外に出れますか?」


 こちらも先ほどまでこの部屋にいた女の声だった。

 七重は小さくうなずいた。

 

「われ、も、か、肩を貸す」


 少年と女の二人に担がれて床を出る。

 正直言って歩くことはできないほど弱りきっていた。

 今だって立っている感覚すらない。

 しかし彼女の心だけは、まるで少女の頃のように踊り、飛び跳ねるように長屋の外へと出て行った。

 

――早く皐月に会いたい。

 

 長屋の外に出ると真夏の太陽が彼女の干からびた体に容赦なく照り付けた。

 しかし体が熱くなる感覚はむしろ心地よく、生きている実感を思い起こさせた。

 自然と足に力が入る。

 

「無理しないでくださいね」


 女の優しい声が耳元でささやかれた。

 彼女は笑顔を見せる。

 無理なんてしていない。否、もっと無理がしたい。

 体を置いてけぼりにした彼女の心は野を越え、山を越えて、もう故郷へたどり着いたかしら。

 

――早く皐月に会いたい。

 

 懐かしい故郷の風景が光のない瞼の裏いっぱいに広がっていた。

 そこには笑顔の殿と奥方もいる。

 そして多くの友人や家族の姿もあった。

 ただそこにいないのは皐月だ。

 

――早く皐月に会いたい。


 心の風景に欠けた最後の一つは皐月だ。

 

 何も求めぬ人生だったが、最期の最期で求めたのは一羽の鷹の姿とは。

 

 人は聞いて笑うだろうか。

 それとも泣いてくれるだろうか。

 

 できれば笑い飛ばしてほしい。

 なぜなら自分も笑顔でいたいから――。

 

 そして、それはとある橋の手前だった。

 

――ピイィィィィッ。


 甲高い鳴き声が天空からこだましてきたではないか。

 

「ああ、ああ!! 皐月!!」


 腹の底から声を飛ばす。

 見えぬと分かっていても顔は上を向いていた。

 皐月の影が彼女を覆った。

 自然と口角があがる。

 

「皐月!!」


――ピイィィィィッ。


 その時、奇跡が起こった――。

 

――ザッ……。


 なんと七重が自分だけで歩き出したのだ。

 その場にいる全員が目を見開いていた。

 しかしそんな周囲の注目など気にとめることなく、彼女は橋の真ん中に立ち右手を高くかざした。

 

――ピイィィィィッ。


 皐月は喜びの声をあげながら七重の腕に止まった。

 まさに人鷹一体じんよういったいと言える神々しい姿だ。

 

 みなが言葉を失っている中、彼女はまぶしい笑顔を少年に向けた。

 

「ありがとうございます。この御恩。冥土でも決して忘れはいたしません。ならばせめてお名前だけでもお聞かせくださいませ」


 少年は戸惑っているのだろうか。

 しばらくしてから透き通った少年の声が聞こえてきた。


「た、竹千代……。徳川竹千代と申す!!」


 七重はその名を耳にした瞬間にひっくり返ってしまうのではないかと思うくらいの衝撃を受けた。

 どんなに世の中に疎い彼女と言えども、徳川竹千代という名くらいは知っている。

 決して交わることがないと思っていた雲の上の人なのだから……。

 だが彼女が何かを口に出す前に青年の声が辺りに響き渡ったのだった。

 

「ははは!! あっぱれ! あっぱれ! 天下一の仕置きだ! さすがは上様のお世継ぎである! ははは!!」


 同時に「わあっ!」と街が沸いた。

 中心には幼い竹千代がいることだろう。

 その様子が彼女は自分のことのように嬉しい。

 

「これぞ人の上に立つ者の極意。『人に生かされる』ということじゃのう。ついにわしにはできんかったが、あの御方は若くして身につけておられるようじゃ。実にあっぱれだのう」


 聞きなれた勘右衛門の声が聞こえてくると同時に彼女の背中に手が添えられた。

 彼女はすぐにその意味が分からなかった。

 しかしいつになく弾んでいる勘右衛門の声に彼女はうなずいた。

 

「さあ、戻るとするかのう」


「はい!」


 彼女は小さく右腕を動かした。

 

――ピイィィィィッ。


 皐月が再び大空を翔けていく。

 彼女は瞼の裏で完成した風景に皐月を重ねながら想いを乗せた。

 

「ありがとうございます! 大変幸せな人生でございました!」


 と――。

 

 

◇◇


 戦国から江戸時代初頭にかけて、鷹狩は大名たちの間で大いに流行した。

 そして彼らが好んで用いたのはオオタカだったと言われている。

 それは飛翔する姿が美しく、大きさもちょうどいいからだ。

 

 そんな中、駿府でクマタカが飼われていたという。

 その証に駿府には「くま鷹橋」という橋があったそうだ。

 

 しかしクマタカは頭の形が不恰好で、扱いにくいため、大名の鷹狩に使われることはなかった。

 ではなぜクマタカが駿府で飼われていたのか。

 それを知る者はもうこの時代にはいない。

 

 それでもクマタカは大きな翼を目いっぱい広げて駿府の空を翔けていたに違いない。


 駿府で暮らす誰かの想いを乗せて――。

 



 空翔ける鷹に想いをのせて (了)


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