空翔ける鷹に想いをのせて⑨ くま鷹

………

……


 伊部勘右衛門が『伏見屋』を開いてからしばらくたった。

 店を軌道に乗せるために忙しい日々を送っていた彼は、『人と向き合うこと』をできないでいたのだ。


 そんな冬のある日。


 ちょっとした空き時間ができた彼はふと空を見上げた。

 雲一つない綺麗な青空だ。

 しかし彼の目をくぎ付けにしたのは空の青さではなく、一羽の鷹だった。

 大きな翼を広げ、悠々と飛翔するその様はまさに絵になるほど美しい。

 だが元は鷹匠だった彼の心を奪ったのは、その鷹が彼のよく知るそれとは少々異なっていたからだ。

 

「大きい……。まさか、くま鷹か?」


 くま鷹とは熊鷹とも表されることからも分かる通り、とても大きな鷹だ。

 山奥で見られるが、港町である駿府で目にすることはまずない。

 

「いったい誰が……」


 勘右衛門は無意識のうちに鷹を追って走っていた。

 途中、人にぶつかる。

 

「おい! じじい! いってえな!」

「うるせえ! てめえがそこに突っ立てるのがいけねえんだ!」

「なんだとぉ! ここはうちの店の前でえ! 突っ立てて何が悪いんだ! あ、こら! 待て!」


 どんなに罵声を浴びせられようとも、彼は一直線に街を駆けていった。

 あの鷹の持ち主に会わねばならぬ、と理由なき使命感にかられていたからだ。

 そしてついに鷹が降り立ったところへ出た。

 そこには一人の女性がたたずんでいたのだった。

 

「お主は……」


 可憐な若い女性だ。

 だが着ている服は色あせて汚れているし、ろくに物を食べていないのか、頬はこけて手は骨と皮だけだ。

 それでも春を思わせる柔らかな微笑みと、右手に乗せたくま鷹に勘右衛門は目も心も奪われた。

 

「私は七重と申します。あなたさまはどちらさまでしょう?」


「あ、ああ、すまぬ。わしは伊部勘右衛門と申す」


「伊部様、でございますね」


 彼女の声を耳にしただけで、老体に鞭を打って走ってきた疲れが飛んでいった。

 この時点で勘右衛門は年甲斐もなく彼女に惚れていたのかもしれない。

 ただしそれは単なる男女の色恋を越えた、もっと根の深い部分でのつながりを感じていたのだ。

 それをつなぐものは言わずもがな、羽を休めている大きな鷹であった。

 

「この鷹は亡き殿からいただいたのです。名を皐月さつきと申します」


 聞けば彼女は家康によって改易に処された大名の侍女だったという。

 国を失ったその大名は失意の中、腹を切ったらしい。多くの家臣や奉公人が彼の後を追って死んでいった。

 食い扶持を失い、忠誠を尽くす相手がいなくなれば死にたくなる気持ちも分からないでもない。

 しかし七重は生きることを選んだ。

 元来あまり体の強くない彼女は、ここで死んでも、このまま生きてもさして変わらぬくらいに考えていたらしい。

 そこで死んだ大名の家族は、よくお家に尽くした彼女に餞別として鷹を贈ったのだそうだ。

 

「鷹の意のおもむくままに諸国を回り、ついに大御所様のおひざ元まで参りました。駿府は賑やかでとても心が躍る街でございますね」


 彼女はまぶしい笑顔を見せる。しかし隠し切れぬ疲れは目の下のくまと膝の震えから見て取れる。

 幾日もろくに食べておらず、もはや立っているのも辛いに違いない。

 勘右衛門は無意識のうちに口を開いた。

 

「袖振り合うも他生の縁という。いらぬ世話とは分かっちゃいるが、わしにできることがあれば何なりと申し付けるがいい」


 七重は目を丸くした。

 そしてしばらくした後、大粒の涙を流しながら勘右衛門に頭を下げた。

 

「この鷹を……。皐月をどうかお助けくだされ。私はこのまま野垂れ死にしてもかまいません。しかし皐月は大事な大事な殿の忘れ形見でございます。皐月がこれからも無事に過ごせると知らずして、どうしてこの世を去れましょうか。どうか、どうかお願いいたします」


 勘右衛門は迷うことなく首を縦に振った。


「ご安心なされよ。こう見えても昔は鷹をあつかうお役目を担っておったのだ。皐月の無事はわしが保証いたそう」


「ああ、私はなんて幸せ者なのでしょう。これで何に気兼ねすることなく殿と奥方様のもとへとうかがうことができます」


「いや、わしはそれを許さんぞ」


「え?」


「わしが預かるのは皐月だけではない。七重よ。お主の命も預からせていただきたい」


「伊部様……」


「わしが営んでおるのは遊郭。ゆえにわしがお主を預かれば店の女として働かねばならぬ。しかしそれでもわしはお主に生きて欲しいと思うておる。会ったばかりの老人の戯言と聞こえるかもしれぬが、これはまことの心から出た言葉じゃ。せっかく鷹に導かれた命じゃ。わしにその輝きを見せてはくれまいか。この通りじゃ」


 今度は勘右衛門が深々と頭を下げた。

 

「そんな私なぞに頭を下げるなど……! おやめくだされ」


 七重が慌てて勘右衛門の肩をつかむ。

 しかし彼は七重が「はい」と言うまで頭を上げるつもりはなかった。

 彼自身、なぜ自分がそこまでして彼女を連れて帰りたいかわかっていなかった。

 先の通りに「惚れた」という理由であろうか。

 それとも身寄りのない可憐な美女を前にして、卑しい商売根性が芽を出したからであろうか。

 白とも黒ともつかぬが、一つだけはっきりしているのは、彼女の消えかかっている命を救いたいということだ。

 そしてようやく七重が

「分かりました。朽ちかけの身なれど、何かのお役に立てるなら、これほどうれしいことはございません」

 と言ったところで、彼は顔を上げた。

 その目じりには数十年ぶりに光るものが浮かんでいた。

 

………

……


 遊女の生活は過酷なものだ。

 早朝、前夜に相手した客の見送りを終えた後、ほんのわずかな間だけ仮眠をとる。

 昼前には眠い目をこすりながら店開きの支度をし、正午すぎからは客の相手を始める。

 言わずもがな良い客ばかりではない。

 酒に酔って暴れる者もいれば、女に乱暴を働く者もいた。

 遊女たちは文字通りに身も心も削って働いていたのだ。

 

 そんな中にあって七重はよく働き、よく笑った。

 心身ともに疲弊しきった女たちが多い伏見屋で、彼女の周りだけは乾いた春の風が吹いているようだった。

 

「七重ねえさんがお餅を持ってきてくださったのですよ」

「七重ねえさんはいつもおかしくてね」


 二丁目の整備に忙しく、めったに店に顔を出さぬ勘右衛門であったが、たまに店に顔を出せば、決まって七重のことが耳に入ってきたものだ。

 実際に顔を合わせる機会がなくとも、彼はそれだけで気をよくしていた。

 一方の皐月も城で丁寧に飼われているらしい。

 

 しかし……。

 穏やかな春は短い――。

 

 ある時、店を訪れた彼が聞かされたのは七重の体調のことだった。

 梅毒を患った、と。

 しかし梅毒の症状は現れてから一度おさまる。

 その後は数年たたねば表に出てくることはない。

 だから死病と言われても、すぐに死に至るような病ではないのだ。

 そう彼は油断していた。

 

 だがもとより体の弱い七重の病状はすぐに悪化してしまった。

 当然店に出ることはかなわない。

 伏見屋を任せていた番頭から「これ以上七重を店においておくのは忍びない」と相談を受けたのだ。

 そこで彼は七重を店の外へ連れ出し、近くの長屋に住まわせることにした。

 

 そうして七重がいよいよ店を出る日を迎えた。

 多くの遊女たちが彼女を見送り、華やかな店は悲しみの色に染まった。

 そんな中にあっても七重だけは気丈に笑顔を振りまいていたのが、勘右衛門には印象的であった。

 しかし店を出て勘右衛門と二人きりになったところで、彼女は嗚咽を漏らしながら頭を下げた。

 

「申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ」


 と――。

 

………

……


 勘右衛門はそこまで一息に話したところで、鍋を火をから外した。

 そして粥をかき混ぜながら締めくくった。

 

「わしはひたすら謝る七重に何も言えなかった。大御所殿に『今後は人と向き合う』と大見得を切っておきながら、自分が連れてきたおなご一人のことも分からぬ自分が恥ずかしくてならなかったのだ」


「だからこうして毎日のように七重殿をたずねてらっしゃるのですね」


 三十郎がしんみりとした声をあげると、勘右衛門は小さな笑みを浮かべた。

 

「まあな。……ところで、そこのちっこいのは『女が嫌い』とわめいておったな」


 竹千代の顔が引きつった。

 しかし勘右衛門は責めるような口調ではなく、穏やかに続けた。

 

「お主がなぜそう思ってしまったのかは知らぬ。しかしのう。これだけは分かってほしいのだ。男であろうと女であろうと、身分が高かろうと、低かろうと、『人』はその時代を必死に生きておる。男だけが特別でなければ、女が特別なのでもない。だから『女が嫌い』と言わずに、どんな人にも愛を持って接してほしいのだ。愛が鷹を生かすように、愛は人を生かす。……それはわし自身へのいましめでもあるのだがのう……」


 ちらりと竹千代を見ると、彼は口を真一文字に結んで、どうしたらいいのか戸惑っているようだ。

 俺は重くなりかけた空気を切り替えようと試みた。

 

「これを七重殿のもとへもっていけばよいのか?」


「ああ、そうしてくれると助かるのう」


「承知した」


 俺は粥の入った鍋を持って台所を出た。

 体を起こすことすら苦しんでいるにも関わらず、どこか幸せそうな表情の七重が目に入る。

 蘭が優しく彼女の体を起こした。

 すると驚くべきことが起こったのだ。

 

「こ、これ、を!」


 なんと竹千代が自分からおたまを手に取って、彼女の口元へ粥を差し出したではないか。

 

「ああ、おいしゅうございます。どなたか存じ上げませんが、ありがとうございます」


 竹千代は七重に微笑みかけられたとたんに顔を真っ赤にして固まってしまった。

 それを見た勘右衛門が低い声でたしなめる。

 

「ほれ、手が止まってるぞ」


 竹千代は慌てておたまで粥をすくって、再び七重の口元へと運んだ。

 その後、竹千代の手が止まることはなかった。

 俺はその様子を見ながら、彼のことを考えていた。


 彼の心根が、彼の手を動かしているに違いない。

 なぜなら本来の彼は心優しい少年だからだ。

 そのことに彼の目を見た時から気付いていた。

 しかし生まれながらにして『将軍を継ぐ者』という重荷を背負わされてきた彼に対する、周囲からの威圧はどれほどのものか。きっと誰も理解はできまい。

 だから奴隷のような目をしていたのも、自分を守るための逃げだと思う。

 そして『女嫌い』もそういったところが由縁なのだろう。

 まだ十にも満たぬうちから「将来は誰々を正室に迎えましょう」とか「立派なお世継ぎを作らねばなりません」とか言われ続けていたら、俺でも女嫌いになってしまうかもしれない。

 

 それでも彼はそれらを乗り越えていかねばならぬ。

 それが『将軍を継ぐ者』としての宿命なのだから。

 そして俺はそんな彼を支えられる存在になりたいと願っている。

 だが歴史の歯車は俺にどんな運命を用意しているのだろうか。

 

 もし竹千代と敵対する未来となったら、俺は……。


「ごちそうさまでした」


 七重の声ではっと我に返った。

 いつの間にか鍋はすっかり空になっている。

 そして彼女は再び頭を下げた。

 

「まことにありがとうございました」


「あとのことはわしがやる。お主らはもう帰るがいい。今後は無断で人の家に押し入ってはならぬぞ」


 勘右衛門に促されて、俺たちはその場を後にしようとした。

 しかし再び問題が起こった。

 何を思ったのか竹千代が座ったまま動こうとしないのだ。

 

「竹千代様? いかがなさったのですか?」


 三十郎が優しく問いかけると、竹千代の顔が真っ赤に染まる。

 どうしたのだろうと、皆が顔を見合わせていると竹千代は甲高い声をあげた。

 

「さ、さ、さつき!!」


 それは七重が故郷から連れてきた鷹の名だった。

 七重が驚いたように口を半開きにする中、竹千代は彼女に問いかけた。

 

「あ、あ、あいたく、ないのか? さつきに!」


「え? しかしそれは……」


「え、えんりょ、するな。き、きっと、皐月も、お主に、会いたがって、いる」


 戸惑っている七重に竹千代はさらに言葉をかけようとしている。

 だがそこに勘右衛門が横やりを入れた。


「そこまでじゃ」


 彼の鋭い声に皆の視線が集まる。

 すると勘右衛門は首を横に振りながらつぶやくように続けた。

 

「無理なのじゃ。皐月を七重に会わせることは」


 さながら奈落の底へ落とすような彼の言葉に、皆の目が大きく見開かれたのだった。


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