空翔ける鷹に想いをのせて⑧ 生かしているのではない

◇◇


 さかのぼること十年前。

 関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が将軍として伏見城で過ごしていた頃。

 彼は自分の地位を確固たるものにするために反乱の芽をことごとく摘んでいた。

 俗に言う『改易』である。

 そうやって天下の勢力図を自分の思い通りに作り直したのであった。

 そのおかげで徳川家に逆らおうという者たちは影をひそめた。

 そしていよいよ彼は将軍の座を息子の秀忠に譲り、自分は一線を引く決意を固めたのだった。

 

………

……


 伏見城の南に流れる宇治川。

 その宇治川を渡ったところに鷹場がある。

 鷹場とは鷹狩を行う場所のことだ。

 家康は鷹狩の時期である冬を迎えると、決まって鷹匠を連れてここを訪れていた。

 鷹狩は家康にとって気分転換の時であり、気心の知れた鷹匠とのおしゃべりの時でもあったのだ。

 そして家康が将軍職を譲ることになる年の正月明け。

 彼は鷹狩に出て鷹匠に話しかけた。

 

「今年の春。伏見を出ることにした」

 

 年老いた鷹匠はさして驚きもせずに問いかけた。

 

「ほう。……して、どちらでお過ごしに?」


「駿府じゃ」


「なぜ駿府に?」


「ははは! 一に富士の絶景が拝める! 二に鷹場が良い! 三に旨い茄子が食えるからのう!」


「茄子……ですか」


「そうじゃ! 折戸で取れる茄子は絶品なのじゃ! 今度お主にも食わせてやろう!」


 鷹匠はしばらく黙った後、重い口を開いた。

 

「……つまりわしも殿に従って駿府に行けと、そうおっしゃるおつもりか」


 家康はわずかに目を見開いた。

 

「なんじゃ? 当たり前であろう。お主は鷹匠頭なのだから」


 鷹匠頭とは鷹匠を統括する役職のことだ。

 決して「おしゃべりの相手がいなくなるのは寂しい」と言わぬのが家康らしい。

 そう思いながら鷹匠は苦笑いを浮かべた。

 だが次の瞬間。彼の目がギラリと光った。

 

「殿。獲物ですぞ」


 見れば宇治川のほとりに一羽の鴨が羽を休めている。

 家康はコクリとうなずくと、鷹を乗せたぐいっと前に突き出した。

 いわゆる『羽合せ』である。

 鷹は勢いよく家康の腕から飛び出していく。

 しかし残念ながら獲物には逃げられてしまった。

 それを見た鷹匠がニヤリと笑みを浮かべた。

 

「殿はまだまだ分かっておられぬようじゃ」


 家康の眉間にしわがよる。だが彼が口を尖らせる前に、鷹匠の老人は続けた。

 

「殿は鷹を生かそうとしておる。しかし勘違いしてはならぬ。鷹が殿を生かすのじゃ。鷹の息遣いを感じ、鷹と殿の気持ちが一つになった時に鷹を放つ。決して殿が鷹に自分の意志を押し付けてはなりませぬ。鷹の意志に殿が合わせるのです。それが鷹狩の極意ですぞ」


「なるほどのう」


 家康が感心して大きく息を吐くと、それに合わせるように鷹匠はため息をついた。

 

「わしという人を生かすのは、いったい誰であろうか」


「なんじゃ? いきなり」


「殿。一つお願いがございます」


 鷹匠があらたまったので、家康も姿勢をただす。

 

「駿府にはお供させていただきます。しかし鷹匠としてではなく、一人の『人』として移りたく存じます」


「一人の『人』じゃと? どういう意味じゃ」


「殿もご存知であろう。戦乱の世が終わり、殿が新たな世づくりをしたことで、『あぶれた人』が出てしまったことを」


 家康は言葉につまった。

 鷹匠の言う『あぶれた人』とは言うまでもなく、改易されて国を失った大名と家臣、その家族たちのことだ。

 

「伏見には多くのおなごたちで溢れかえっておる。彼女たちは国を失い、家族を失い、そして銭も失って食うのも困っておる。飢え死にした者は路傍に屍をさらし、そうでないものも似たような末路をたどる」


「ああ、しかしそれは……」


「分かっておる。殿が天下に泰平をもたらすために行ったことにケチをつけるつもりはありませぬ」


「ではお主がおなごらを生かしたい、そう言いたいのか?」


「かようなたいそうなことは申せませぬ。わしは殿ではないからのう。しかし人生の最後くらい、鷹ではなく人と向き合ってもよかろうと思いましてな。どうかこの願いを聞き入れてはくれませぬか」


「ふむ……。もう少し具体的に申せ。お主は何がしたいのじゃ?」


「駿府の一角に彼女たちの居場所を作ることをお許し願いたい」


「居場所? そこで何をさせるつもりなのだ? まさかただ集めて施しを与えるというつもりではなかろう」


 家康の問いに鷹匠は一呼吸おいた。

 そして一層声を低くして答えた。

 

「無論、自分の食い扶持くらいは自分で稼いでいただくより他あるまい」


「ならば何をさせるつもりだ?」


「春を売ることになるでしょうな」


「すなわち遊郭か……」


「殿としても都合が良いのではございませぬか?」


 それは鷹匠の言う通りだった。

 家康は春を売る女……つまり遊女の存在をよく思っていなかった。

 それは彼女たちから梅毒という死病が伝染しているのを知っていたからというのもある。

 しかしそれ以上に風紀の乱れのもとになると危ぶんでいたからだ。

 女は男を狂わせるものであり、狂った男が武士ならばどんな事件を起こすとも限らない。

 しかもその武士が徳川家の者だとしたらお家を揺るがす恐れさえある。

 その遊女を一箇所に集めておけば、多少なりとも風紀の乱れを防ぐことはできる。

 しかし……。


「なぜじゃ? なぜお主がそれをせねばならぬ?」


 その言葉は表向きにとらえてしまえば「民の仕置きは幕府の仕事。一介の鷹匠の考えることではない」となるだろう。しかし鷹匠には裏の意味がしっかり分かっていた。


――お主が鷹匠をやめれば、いったい誰がわしの話し相手になれるのじゃ……。


「理由などなんでもよいではございませんか。それよりも優れた鷹匠はいくらでもおる。しかし遊女たちをたばねる者など天下広しと言えどもそうそう見つかるまい」

 

「うむ。そうか……」


 家康はそこで口を閉ざした。

 鷹匠もまた気持ちを切り替えて次の獲物を探し始めている。

 二人の会話はそれでよかった。

 最後まで言い切る必要などないのだ。

 そのことを示すように、鷹狩の後、その日のうちに家康からお達しが届けられた。


――伊部勘右衛門。鷹匠としての長年の功績をたたえ、駿府に一辺二町の土地を与える。


 こうして家康の鷹匠、伊部勘右衛門は駿府に巨大な遊郭をかまえた。

 その名も『伏見屋』。

 そして一辺二町の街角には多くの遊郭が建てられ、『二丁目』と呼ばれるようになったのだった。

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