空翔ける鷹に想いをのせて⑦ 天下泰平など夢のまた夢
「竹千代様! お待ちください!」
突然逃げ出した竹千代を俺、豊臣秀頼たち三人は追いかけ始めた。
竹千代は脱兎のように駆けていくが、さほど足は速くない。
みるみるうちに俺たちとの距離はつまっていく。
そうしてもうあと二歩で手が届くというところで、竹千代は目の前の長屋の中へと消えていった。
「竹千代様!!」
そこは民家だがためっている暇はない。
俺たちは開きっぱなしになっている引き戸の中へ飛び込んだ。
家の中は真っ暗で人の気配は感じられない。
暗闇にしり込みをしたのか、玄関で立ち止まっている竹千代を、俺はつかまえた。
「い、い、いやだ! い、行きたく、な、ない!」
体を揺らしながら激しく抵抗する竹千代。
俺はつとめて穏やかな口調で問いかけた。
「竹千代様。なぜそこまでして拒まれるのか?」
「お、お、おなご、な、など、き、き、嫌い、じゃああ!! うわああああ!!」
感情を爆発させた竹千代は俺に抱きついた。
人目もはばからず泣きじゃくっている。
「竹千代様……」
理由は分からない。
でも彼が苦しんでいるのはまぎれもない事実だ。
ならば俺は彼を苦しみから解放できるのだろうか。
そして笑顔にすることがきるのだろうか。
疑問というよりは願望や祈りに近い感情が胸を締め付けてきた。
「き、き、嫌い、なのじゃ!!」
いずれにせよ、今の竹千代を遊郭である伏見屋に連れていくのは酷だ。
俺は三十郎を見た。
彼もまた同じ考えのようだ。
俺たちはうなずきあった後、城に戻ろうときびすを返した。
……とその時、玄関の外から太い声がかけられたのだった。
「なんだ? お主らは? ひとの家に何の用だ?」
すごみのある声に竹千代がピタリと泣き止み、俺たちは四人とも声の持ち主に視線を向ける。
そこに立っていたのは背の低い老人だった。
真っ白な髪にしわだらけの顔からしてかなり高齢のようだが、がっちりとした体と鋭く光る瞳が若々しい。
彼はちらりと俺たちの腰のあたりに目をやると鼻を鳴らした。
「お主ら侍か。そこのちっこいのはまだ奉公する前か? 断りもなく他人の家に押し入るとはのう。ふん! 何が天下泰平だ。町を歩く侍のしつけもなっとらん世の中を泰平と称するなど笑止千万。上様も大御所殿も目が節穴と言わざるをえん」
「無礼者! 何を申すか!!」
三十郎が一歩前に出て老人に詰め寄る。
しかし彼は怯むどころかますます険しい顔をして三十郎を一喝した。
「無礼者は貴様らの方ではないか!! 腰に刀を差したお主らに家に押し入れられたら、そこに住む者はどれだけ怖い思いをするか! 少し考えれば分かるであろう! だがそれを考えぬのはお主らの資質ではない。ひとえにお主ら若い侍の棟梁たる上様や大御所殿がしつけを怠ったからだ! それを節穴とあらわして何が悪い!!」
「ぐぬ……」
なんて老人なんだ……。
あの『知恵伊豆』が完全に丸め込まれている。
三十郎が一歩引きさがったところで、今度は俺が前に出た。
「お主の申す通りである。火急の時とは言え、無断で家屋に立ち入ったのはわれらの落ち度である。ついては謝罪させていただきたい。この通りだ」
俺は素直に頭を下げた。俺の隣に立った蘭も同じように頭を下げる。
しかし老人は首を横に振った。
「わしに頭を下げられても困る」
「え?」
「わしはこの家の住人ではないからのう」
「は?」
驚きのあまり言葉を失っていると家の奥から女性の声が聞こえてきた。
「
今にも消えてしまいそうな細い女の声だ。
まさかこの家に人がいただなんて……。
ではなぜ昼なのに部屋の中を真っ暗にしていたのだろう。
疑問に思っているうちに老人の声が響き渡った。
「
「ああ、
「そういうわけにはいかぬ! 入ってよいか?」
「はい……」
女の返事とともに
そうして俺たちの横を通り過ぎたところで低い声で言った。
「家人に頭を下げたいのだろう。ならついてまいれ」
有無を言わさぬ雰囲気にのまれた俺たちは彼の背中を追っていったのだった――。
………
……
梅毒――。
この時代の代表的な性病で、江戸時代には実に二人に一人はこの病気にかかっていたとも言われている。
しかし抗生物質による治療法がないこの時代では、一度かかればもはや完治させることはかなわなかった。
特に遊女の間では大いに流行し多くの女性たちが若くして命を落としたという。
「七重よ。どうじゃ? 加減は?」
「……はい。今日はだいぶよろしゅうございます」
奥の部屋で横たわっていたのは一人の女性だった。
顔にはいくつもあざがあり、鼻がわずかに欠けている。
梅毒にかかっているのは火を見るより明らかだ。
そして既に目に光を失っているのが分かった。
痛々しいその姿に俺たち四人は一様に息を飲み、言葉を失っていた。
すると七重と呼ばれた女がかすれた声をあげた。
「今日は伊部様の他に誰かおられるのでしょうか?」
「ああ、おるぞ。無礼にもお主に許しもえずにこの家に足を踏み入れた三人の侍と一人の女がのう」
「まあ……。お侍様が……。ろくなお迎えもせずに申し訳ございません」
七重が寝かしていた体を一生懸命に起こす。
「無茶をするでない。それに謝れねばならぬのはお主ではなく、こやつらの方なのだ」
勘右衛門が目配せをしてきたのを合図に俺たちは頭を下げた。
「こたびはまことに申し訳なかった」
「まあ。卑しきこの身にお侍様が頭を下げるなど、あってはなりませぬ。おやめくだされ。どうか伊部様からもそうおっしゃってくださいな」
「ふん! 周りがそうやって甘やかすからろくな侍にならないんじゃ。……ったく。それにお主もお主だ。自分のことを『卑しい』などと口にするでない。お主は立派なおなごなのだからのう」
「国を追われ、帰る家も、住む家もなかった私が立派なわけございません。伊部様に拾っていただけねば、今頃伏見の道ばたで屍をさらしていたことでしょう。それなのにろくにお役にも立てず、むしろこうして伊部様の厄介になってばかり……。本当に申し訳ないことです」
彼女の口元がかすかに緩んだのは、己を卑下する苦笑いだろう。
勘右衛門はゆっくりと彼女を寝かせた後、俺たちに口を開いた。
「お主ら詫びの代わりに手伝っていけ」
「え? いや、われらは……」
「ふん! どうせ伏見屋にでも行って馬鹿騒ぎでもするつもりだったのだろ? そんな暇があるなら、目の前で病に苦しむおなごの世話を手伝えと言っておるのだ」
こう言われてしまったら断れるはずもなく小さくうなずいた。
「では七重。台所を借りるぞ」
「はい」
「うむ、ではお主ら、ついてまいれ」
何かを口に挟む余裕すら与えられず、俺たちは勘右衛門に従って台所へと移った。
「まずは火を起こす。そしてこれを火にかけるのだ」
勘右衛門は手荷物から粥が入った小さな鍋を取り出す。
俺たちは彼の指示で火を起こし、食器や湯呑を用意する。
そうしてあとは粥が温まるのを待つだけとなったところで勘右衛門がぼそりとつぶやいた。
「……天下泰平など夢のまた夢にすぎぬ」
思いのほか湿り気のある声色に俺たちは四人とも顔を見合わせた。
そして俺が代表して問いかけた。
「その心を教えていただけぬか?」
勘右衛門はぎろりと俺を見ると、小さなため息をついた。
「侍同士の争いがなくなったからといって天下泰平など戯言にすぎぬということじゃ」
「ほう。なぜそう言い切れるのであろうか」
少しだけ間が空く。
俺たちが黙っていると、勘右衛門に乾いた微笑が浮かんだ。
「……ちょうど良い機会じゃ。ちょっとばかりじじいの昔話に付き合ってもらうぞ」
そうしてぽつりぽつりと勘右衛門は自分のことを話しはじめたのだった――。
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