空翔ける鷹に想いをのせて④ 意外なお願い
◇◇
松平信綱と言えば、江戸時代に初期に活躍した名将の一人だ。
決して身分の高い出自はではなかったが、天恵の才覚によって幼い頃から頭角を現し、長沢松平家の養子となり徳川家光の小姓に抜擢された。
家光が将軍に即位した後は家老として政権を安定させることに尽力して名声を高め、幕府の筆頭家老までのぼりつめることになるのだ。
まさに江戸初期における成り上がり物語の主人公と言えよう。
なお『知恵伊豆』のあだ名は『知恵出ず』をもじったもので、彼がいかに優れた頭脳の持ち主であったかを示している。このあだ名は彼の官位が伊豆守であったことから由来されているが、史実の通りであればその官位を叙任するのは数年後のこと。だからまだ『知恵伊豆』とは呼ばれていないはずだ。そして名前も『信綱』ではなく『正永』だったと記憶している。
「も、申し訳ございません。それがしはもう行かねばなりませぬゆえ、その手を離してくだされ」
「あ、うん。すまぬ、すまぬ! 変にお引き止めしてしまったのう」
「いえ、では失礼します」
最初は固い表情だったが、俺が屈託のない笑顔を向けたおかげか、ずいぶんと緊張が解けているようだ。しかし手を握られるのに慣れているというか、嫌がる素振りを見せなかったのはなぜだろうか。
とにかく今は時間がなさそうだが、今度じっくりと話をしてみたいな。
「さてと……。じゃあ、何をしようか」
再び一人になり手持ちぶさたになった俺は、部屋の中央で寝転がった。
そうしてしばらくした後だった。
「秀頼殿。よろしいでしょうか?」
なんと於福が戻ってきたのである。
俺は姿勢をただすと、彼女を部屋に入れた。
どうやら彼女一人でやってきたようだ。
そして周囲をちらりと見て、誰もいないのを確認すると、つつと膝を寄せてきた。
「折り入ってお話があるのです」
顔と顔がくっつきそうなくらいに近づいてきた彼女に面食らう。
「な、なんでしょう?」
花のようなお香の甘い匂いにくらりと脳が揺らされた。
「実は……」
彼女の吐息が頬をくすぐると胸の鼓動が高なってきた。
このまま食われてしまうのではないかという錯覚にとらわれたが、彼女のふっくらした唇から目が離れない。
――すまぬ。お千。麻里子。あざみ。
なぜか三人に心のなかで頭をさげた。
そうして彼女のされるがままに身を委ねようとしたのだ。
だが、次に発せられた彼女の言葉は意外なものだった……。
「竹千代様のことで助けて欲しいのです」
「竹千代様のことを?」
パンと頬を張られたかのような衝撃で我に返った俺は目を丸くして問いかけた。
すると於福は人差し指を自分の唇にくっつける仕草をした。
「ご内密にお願いしたいので、声を落としてくださいませ」
「え、は、はぁ……」
いったい何を俺に頼むつもりなのだろうか……。
まさか「竹千代様の暗殺を企てている者を始末してほしい」という無茶な願いを押し付けるつもりではあるまいな。
しかし彼女の願いごとは、そんな俺の予想の斜め上をいくものだった。
「竹千代様が『おなごを好き』になっていただくように助けてほしいのです」
「えええええっ!?」
………
……
竹千代が女性に興味を示そうとない――。
そう話した於福の顔に暗い影が落ちる。
その様子からして冗談ではなさそうだ。
「竹千代様はまだ十一歳。於福殿の思い過ごしではないのか?」
「果たしてそうでしょうか……? 秀頼殿の同じ頃はいかがでしたか? おなごに興味はありませんでしたか?」
俺の十一歳の頃か……。
そう聞かれれば、友達の話題は好きな女の子のことが多かったな。
それにエッチなマンガを親に内緒でスマホで覗いていたっけ。
ある時それが麻里子にバレて大変な目にあったのも小五か小六の時だった気がする……。
「うむ……」
「ほら、やはりおかしいでしょう?」
於福が俺の腹のうちを見透かしたように、苦笑いを浮かべた。
しかし俺の小学校の友達にも「女子なんかに興味ねえよ!」って強がってるヤツはは少なからずいたし、色恋沙汰に興味を示さない男子だっていた。
だからおかしいとは思わない。
そんなことより、こんな大事をなぜいっかいの乳母にすぎない於福が俺に打ち明けてきたのかが不審でならない。
何かの罠か……?
そう勘ぐってしまうのは自然だと思う。
ならば笑い飛ばして受け流すのが一番だ。
「あはは! よもや男にしか興味を示さぬってことでもあるまい! 気にすることはございません!」
「実はその通りなのです。いえ、もっと言えば『おなごのような恰好をした男』にしか興味を示さないのです!」
「…………は?」
「だから、竹千代様は気に入った男に化粧させ、おなごの小袖を着せるのです」
「な、なんだと……!?」
於福が言うには『
『若衆歌舞伎』とは十二歳から十八歳くらいの少年の役者のみで演じられる歌舞伎のことで、大坂でも何度か役者たちの噂を耳にしたことがある。
どうやら竹千代は『若衆歌舞伎』を見た際にとある少年が演じていた女形に惚れ込んでしまったようなのだ。
そして美形の小姓を見つけてはおしろいなどをつけさせて、そばにおき始めるようになった。
そこで於福をはじめとして竹千代の養育係たちは「心」に問題があると考えて、剣や読み書きの稽古を厳しくすることにしたそうだ。俺に剣の稽古を見せたくなかったのは、剣よりも心を鍛える時間が長いため、不審に思われてしまうと懸念したからだそうだ。
だが、まったく効果は上がっていないらしい。
「なんと……」
どう反応してよいかわからないでいる俺に対して、於福は真剣な顔つきで言った。
「このままでは徳川の世継ぎの問題にもかかわりかねませぬ。どうかお助けいただけないでしょうか!?」
助けたいのはやまやまだが、いったい俺に何をせよというつもりなのか。
だがそれを口にしようものなら、ここぞとばかりに無理難題を押し付けてくるかもしれない。
その一方で、あっさり断ろうものなら『口封じ』に走られるとも限らない。
つまり彼女をこの部屋に入れた時点で俺は窮地に立たされていたというわけだ。
理不尽すぎて泣きたくなってくる。
しかし嘆いてばかりもいられない……。
どうしたものか……。
……と、その時、ひとつの考えがひらめいた。
「知恵伊豆……。そうだ! 松平三十郎殿なら何かよい考えを出してくれるのではないか!?」
しかし……。
於福はがっかりした表情で首を横に振ると、「パン」と手をたたいた。
――スッ……。
静かに襖があけられると、一人の『美少女』が部屋に入ってきた。
いったい誰だろうと眉をひそめて顔を覗き込むと……。
「それがしでございます」
「うげっ!? 三十郎殿か!!」
なんと女装した松平三十郎ではないか!
「ふふ……。これでお分かりでしょう……。もはや三十郎ではいかんともしがたいのです」
よもや既に三十郎にまで手を出しているとは……。
どうりで彼の手を握りしめた時に、こなれていたわけだ。
「……秀頼殿。どうかお助けくだされ。このままだとそれがしが竹千代様の『正室』となりかねませぬ」
大きな瞳を潤ませながら上目遣いで俺を見つめる三十郎。
思わずドキッとして竹千代の気持ちが分かる気がしたのは内緒だ。
そして、ついに俺は観念した。
「分かった。……して、われは何をすればよいのだ?」
待ってましたと言わんばかりに、於福はしたり顔で小さな笑みを浮かべた。
この女……。やはり好きになれそうにない。
「ふふ。簡単なことです」
「簡単なこと?」
「駿府の街へ竹千代様を連れ出していただきたいのです」
「は? それだけ?」
「ええ、それだけでよいのです」
いったい於福は何を企んでいるのだろうか……。
しかし俺にはもはや選択の余地はなさそうだ。
「あいわかった。やるだけやってみましょう」
こうして俺は竹千代を連れて駿府の街へ繰り出すことになる。
だがそこで予想もつかぬ展開が待ち受けていようとは……。
この時の俺が知る由もなかったのである――。
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