空翔ける鷹に想いをのせて③ 悪魔と天才との出会い
◇◇
元和元年(一六一五年)六月二〇日 昼過ぎ――
ついに俺、豊臣秀頼ら一行は、駿府城の本丸御殿に到着した。
ちなみにこの本丸御殿も以前の火災で一度は全焼してしまったらしく、家康は「火に負けぬ御殿にせよ」と命じたそうだ。
そうして完成したのが「
つまり鉛でできた御殿というわけだ。
それを風の噂で聞いていたため、黒光りするかっこいい館を想像していたのだが……。
見事に期待は裏切られてしまった。
廊下も柱もすべて木でできているではないか……。
「ここは鉛御殿と呼ばれているようだが、なんだか普通だのう」
思わずぼそりとつぶやくと、前を歩く徳川家の小姓がくすりと笑いながらこちらを振り返った。
「ふふ。秀頼様。それは無茶なお話です」
「そうであったか……。しかしではなぜここは鉛御殿と呼ばれているのだ?」
「はい。実は瓦がすべて鉛でふいてあるのです」
「なんと……!」
そんな話をしているうちに、今夜寝泊まりする部屋に通された。
千姫と別室なのは「わしの目の届くところで可愛い孫娘といちゃつくのは断じて許さぬ」という家康の強い意向があったからだそうだ、とこっそり幸村が教えてくれた。
なぜ彼がそんなことを知っているのか、については口をつぐんでいたが、きっと俺の知らぬところで忍を使った情報網は張り巡らされているのだろう。
となると豊臣家のことも徳川には筒抜けということになる。
千姫の鉄拳を食らっては、のびてしまっていることも誰かの耳には届いているのだろうか……。それは恥ずかしいな。
「大御所様はおやすみ中のため、夕げまではこの部屋でごゆっくりお過ごしくださいとのことです」
目のくりっとした小姓の少年が見た目と同じように可愛らしい声で教えてくれた。
「そうか。ありがとう」
「いえ、ではお時間になりましたらまたまいります」
小姓が下がっていくと、俺は一人でぽつんと部屋に残されたのだった。
「さて、どうしたものか……」
まだ昼を回ったばかり。
夕げまでは三刻(約六時間)はあるだろう。
広い部屋に一人でいると、なんだか秋の終わりのような哀愁がただよってくる。
だからと言って、城の中を勝手に出歩こうものなら、
――秀頼公があやしい動きをしておる!
と妙な噂を立てられかねない。
「困ったものだ」
そうつぶやいた時だった。
意外な人たちが俺をたずねてきたのである。
「申し上げます。竹千代様のお越しにございます」
竹千代といえば徳川家の嫡男に与えられる名前ではないか。
そして今の竹千代は……史実の通りなら第三代将軍となる徳川家光だ。
なんと徳川家の嫡男が自らたずねてきたというのか!?
ありえない……。
なぜなら形式的には俺は徳川家の家臣であり、本来であれば俺から出向いて挨拶するべき相手なのだから。
ただ竹千代は普段江戸で暮らしているはずであり、駿府にきていることは知らされていない。
となると竹千代はお忍びで駿府にやってきたということか?
いったいなんのために?
しかし今はあれこれと考えを巡らせている隙はなさそうだ。
「かしこまりました!」
俺は大きな声で答え、姿勢を正した。
そして襖の開く音が聞こえたところで深々と頭を下げたのである。
――スタスタスタ……。
――スススッ……。
足音が二つある。
ひとつはいかにも少年のそれだが、もうひとつは女性か……?
そうしてすぐ目の前で足音が止まると、少年特有の高い声が聞こえてきた。
「お、お、おもてを……。おもてを……」
竹千代が言葉を発しているのは間違いない。
しかしつっかえて上手く言えていない。
――ポタッ……。
目の前の畳に汗が落ちてきた。
ちょっとだけ視線を前に移すと、細い足がかすかに震えている。
極度の緊張状態にあるようだが、なぜそこまで固くなる必要があるのか。
「あげ……。あげ……」
――ポタ、ポタ、ポタ。
畳に落ちる汗の量が増す。
何か異常なことが起こっているのか?
彼の緊張が伝染したのか、俺の胸の鼓動も高まってきた。
ところが俺の緊張と反して、女の方から穏やかな声が聞こえてきたのだった。
「竹千代様。かように怖がらなくてもよい。秀頼様は鬼ではござらぬゆえ。ほほほ」
軽やかな笑い声と同時に竹千代の足の震えが止まった。
「秀頼どの。お、おもてを、あ、あげて、くだされ」
決してなめらかとは言えぬが、それでも聞きとれぬほどでもない。
俺はほっと胸をなでおろして彼の言葉に従って顔を上げた。
だが……。
――ゾクッ……!
真っ先に目に入ってきた女に背筋が凍ってしまった。
見た目だけならどこにでもいそうな平凡な顔立ちだ。
しかし瞳に宿しているのは、尋常ならざるモノなのだ。
言うなれば『冷酷な悪魔』か……。
「お久しぶりでございます。秀頼殿」
「お、お久しぶりでございます……。於福殿……」
「ふふ。覚えていてくださったのですね。たった一度しかお会いしたことがありませんのに……」
そう、彼女の名は『於福』。
竹千代の乳母だ。後に『春日局』と呼ばれ、権勢をふるった人物である。
かつて俺たちはたった一度だけ顔を合わせたことがあった。
しかし、忘れるものか。
そのドス黒い瞳の色を。
数年前に将軍秀忠と会談した時に部屋にいたのが彼女だった。
その会談で俺は大坂の陣を阻止するための根回しをするはずだった。
だが俺の思惑は彼女に看破されて、失敗に終わってしまったのだ。
あの時から数年たつが、彼女はまったく変わらない。
むしろドス黒さに磨きがかかったように感じられる。
「ひ、秀頼殿!」
竹千代の甲高い声にはっとした俺は彼に目を移した。
彼を見た俺は再びはっと息を飲んだ。
「竹千代様……」
背は高くないし、細すぎでもなく太りすぎてもいない。
いわゆる普通の少年だ。
しかし……。
瞳が死んでいるではないか……。
少年らしい好奇心と野心に富んだ輝きはいっさい見られない。
何かにおびえているようにも見える。
「こ、こ、これから、これから……」
「これからよろしく頼む、でしょう」
「こ、こ、これから、よ、よろしく、た、頼む!」
「ふふ。よくできました。竹千代様」
於福がほめると竹千代の顔がぱあっと明るくなった。
一見するとほのぼのしている二人の様子だが、俺には違った風に映っていた。
――まるで『奴隷と主人』だ。
だから竹千代の瞳に光が感じられなかったのか。
「いかがしたのでしょう? 秀頼殿」
そよ風のような声が鼓膜を震わせたとたんに、思考の世界から現実に引き戻される。
「え、あ、いや。なんでもござらぬ。竹千代様。こちらこそよろしくお願い申し上げます。徳川家の家臣として、竹千代様のことをしっかりとお守りいたします」
「うん!」
彼が見せた無邪気な笑顔にようやく彼に『人』を見た気がした。
だがほっとしたのも束の間、於福の言葉によって彼は再び『人形』と化してしまった。
「では竹千代様。剣の稽古にまいりましょう」
「ひっ! ……は、はい」
ひどく怯えた表情だ。それに膝も震えている。
眉をひそめた俺にかまわず二人は部屋をあとにしようとしている。
とっさに俺は彼らを呼び止めた。
「ちょっとお待ちくだされ」
俺は於福の方にじろりと眼光を飛ばした。
「竹千代様のお顔が優れぬようですが……」
「ふふ。お気づかい、ありがたく存じます。しかし秀頼殿の心配にはおよびませぬ」
あっさりと受け流してきたか。
俺の第六感が「逃がすな!」と訴えてくる。
そこで俺は一つ提案を投げかけた。
「ではわれも剣の稽古におともいたしましょう」
「いえ、それにはおよびませぬ」
「そういうわけにはいかぬ。つい先ほど、竹千代様を守るとお約束したばかりだ。われ自らそれを破るような真似はいたしたくありませぬゆえ」
「ふふ。秀頼様に守っていただくような危険はここ駿府にはございませぬ」
かたくなに拒むのはなぜだ?
俺は竹千代に目を向けた。
「では竹千代様に直接おうかがいいたしましょう。この豊臣秀頼が竹千代様の稽古にお供さしあげてもよろしいでしょうか?」
俺の問いかけと同時に於福と俺の視線が竹千代に集まった。
彼はどうしてよいか分からずに顔を青くして震えている。
取り越し苦労であれば、それに越したことはない。だから俺の申し出をあっさりと断ってくれてもよい。
しかし、もし剣術の稽古に彼の瞳の光を失わせる何かが隠されているのなら……。
そして彼が救いの手を求めるのなら……。
――俺は竹千代を救いたいんだ。
強い願いをこめて彼の瞳を見つめた。
すると彼の目尻に光るものが浮かんできたのだ。
――やはり彼は……。
見えぬ手を俺に向かって懸命に伸ばしてくるのを感じていた。
俺もその手をつかもうと視線を彼からそらさずにいる。
すると彼は何かを言おうと口を半開きにしたのだ。
――もう少しだ。がんばれ!
だがその時、部屋の隅で控えていた小姓の透き通った声が空気を切り裂いたのである。
「竹千代様。お時間でございます。稽古場にて柳生殿がお待ちです」
びくりと体を震わせて、口を真一文字に結んだ竹千代。
途端に見えぬ手は引かれ、彼の瞳に灯りかけた光は消えうせた。
――なにやつだ!?
俺は声には出さず、鋭い視線を小姓に向ける。
しかし彼は表情一つ変えずに微笑み返してきた。
その涼しげな顔を見たとたんに、俺は愕然とした。
――何者なんだ? この少年は……?
見た目は十七か十八。
色白の肌に整った顔立ちは女性を思わせるが、ぴんと伸びた背筋と大きな瞳に宿した知性は稀有の勇将を感じさせる。
――ただものではない……。
一目見ただけでそう感じるのは、決して俺だけではないはずだ。
そして彼は俺の驚愕に応えるように、すらすらと言葉を並べたのだった。
「大御所様と上様によって世に平和がもたらされたとはいえ、まだまだ安泰とは言い難い時勢でございます。ゆえに、竹千代様にとって義兄といえども血のつながらぬ他家の大名である秀頼様に、戦術の要を学ぶ剣術指南の様子をご覧いただくのは御遠慮いただきたたく存じます」
世を説き理を明らかにした見事な口上だ。
口を挟む隙が見当たらず、俺は言葉を失ってしまった。
そのあいだに、竹千代と於福の二人は部屋をあとにしていった。
そして小姓も立ち去ろうしたところで、俺は慌てて声をかけた。
「お待ちくだされ! お主の名を聞かせて欲しい!」
彼は足を止めると振り返って頭を下げた。
「これは失礼いたしました。それがしは
「松平……三十郎だと……」
その名前は元いた時代で何度か目にしたことのあるものだ。
もっと言えば、俺の憧れの偉人の一人でもあったのである。
――
俺はぴょんと跳ねあがると彼の手をがっしり握った。
突然のことに目を大きく見開いている彼に対して、俺は嬉々として大きな声をあげた。
「あははは! 知恵伊豆であるか!! おお! こんなところでお主と会えるなんて!! なんてラッキーなんだ!!」
「ちえいず? らっきぃ? いったい何をおっしゃっているのですか!?」
ちなみに彼が『知恵伊豆』と呼ばれるようになるのはもっと先のことだ。
だから彼がにわかに混乱するのは当然と言えよう。
しかし興奮のるつぼにあった俺は、彼の困惑などおかまいなしに彼の手を握り続けたのだった。
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