第一部・第二章 巨星の祈り

空翔ける鷹に想いをのせて① 阿茶と於福

◇◇


 豊臣秀頼が大坂城を発った頃。

 駿府城では脇息に寄りかかった老人が渋い顔をしていた。

 よく肥えた体と大きな耳たぶが特徴的なこの人こそ、大御所、徳川家康だ。

 御年、七十四歳。

 数年前までのぎらぎらとした真夏の太陽のような瞳に比べれば、今の彼のそれはさながら秋の斜陽のように優しい。

 彼はしわだらけの顔をさらにしわくちゃにしながら口をへの字に曲げた。

 

「うげぇ……。お主の出す『薬』は、苦味が増したのではないか?」


 彼の文句の矛先は目の前に座る御寮人に向けられている。

 彼女の名は阿茶あちゃつぼね

 家康の側室だ。

 しかし他の側室とは別格の扱いをされているのは、こうして毎日家康の部屋を訪れては彼の顔を歪ませていることからもうかがい知れよう。

 健康そうなふっくらした丸顔の彼女は、頬に小さなえくぼを作りながら返した。

 

「ほほ。良薬は口に苦し、と申します。これも殿のためを思ってのことです」

「ふん! かような目にあってまで長生きしたいとは思わぬわ」


 家康の言葉に目を細めた彼女は変わらぬ笑みを浮かべて言った。

 

「まだまだ元気でいてもらわねば困ります。せめて竹千代たけちよ殿が立派に成人されるまでは」


 彼女の言う『竹千代』とは後の『徳川家光』だ。

 史実通りならば『第三代将軍』として君臨するその人も、今はまだ十一歳。

 成人……すなわち元服までは歳も背丈もまだまだ足りない。

 そのことを知っている家康はしみじみとした口調で問いかけた。

 

「そうじゃのう……。して、竹千代はいつ元服するのじゃ?」

「崇伝殿によれば再来年あたりがよかろう、とのことです」

「再来年……か」


 家康の口調にかすかなかげりが感じられる。

 それを吹き飛ばすように阿茶は声を張り上げた。

 

「再来年なんてあっという間ですよ! 孫の晴れ姿を見るためにも、明日からはより薬を苦くしましょうかね! ふふふ!」


「ふん! 相変わらず口が減らぬおなごじゃ! もうよい。下がれ」


「かしこまりました。ではおかじ殿とふり姫をここにお呼びいたしましょう」


 お梶殿とは家康の側室で今年三十七、振姫とはお梶殿の養女で八歳だ。


――若いおなごに囲まれれば気持ちから若返りましょう。


 そう口に出さずとも阿茶の心にくい配慮であることは、家康も見通している。

 しかし家康は、あえてそのことを指摘せずに、ただ顔をそむけただけ。


――いつもありがとう。


 素直に感謝を口にするには少しばかり歳を取りすぎたと家康は自覚している。


 だが阿茶も長年連れ添った妻だ。


 そんな彼の気持ちなどとうに気づいている。

 だから言葉などいらぬ。

 ただこうして二人きりで穏やかな時を過ごせるだけでじゅうぶんなのだ。


――悠久の時をこうしてふたりで……。


 それは阿茶の健気なわがままでもあったのである。


 そして襖の外に二人の気配を感じたところで、阿茶は静かに退出したのだった。

 


………

……


 部屋から出た阿茶は背筋を伸ばしたまま、早足で廊下を進んでいった。

 だが向かい先は彼女の部屋のある奥の間ではなく、家老たちが政務をおこなっている部屋だ。

 さらに先ほどまでの春のような穏やかな顔つきは、まるで冬の日本海を映したかのように厳しい。

 そうしてとある部屋の前までやってきた彼女は、凛とした声を響かせた。

 

「阿茶でございます」


 声と同時に襖が乾いた音を立てて開けられる。

 すると彼女の目に映ったのは、四人の人々だった。

 その中でも、まず声をあげたのは本多正信ほんだまさのぶという老いた男であった。

 

「おお、阿茶殿。ご苦労であった。ささ、まずは席に座ってお茶でもどうぞ」


 彼は家康と苦楽を共にしてきた親友であり、側近の一人だ。

 阿茶の局とも付き合いが長い。それを示すように彼の口調からは親しみを感じさせる。

 

「ふふ。正信殿。いつもお気づかいいただき、ありがとうございます。席には座らせていただきますが、お茶は御遠慮いたします」


「さようであったか。うむ、まあよい。ではこちらに」


 阿茶は促されるまま席についた。

 上座が空いているのは、本来座るべき人物……すなわち家康がこの場にいないからである。

 阿茶の局が通されたのは上座に次ぐ、二番目の席であった。

 そして正面の席……すなわち三番目の席には正信がいて、四番目と五番目の席には揃って頭を剃った男たちが座っている。

 彼らは僧侶であるのは見た目からして明らかだ。

 そのうち五番目の男がしゃがれた声をあげた。

 

「ではさっそくうかがおう。大御所様の御様子はいかがであったか?」


 背は丸く、体の小さなこの老人の名は天海てんかいという。

 開けているかすら定かではないほどに目が細く、表情は綿毛のように柔らかい。

 家康の側近であり、心を支えていた人物だ。


「いつもとお変わりありませぬ」

「阿茶殿の見立てなどいりませぬ。医者の宗哲そうてつ殿はなんと申しておるのでしょう?」


 阿茶の言葉を遮るように口を挟んだのは、四番目に座っている僧侶だ。

 背はぴんと伸び、体は熊を思わせるほどに大きくがっちりしている。

 ばっちり開いた瞳はこうこうと輝き、表情は仁王像を思わせるほどに固い。

 同じ僧侶の天海と比べるとまるで正反対の容姿だ。

 彼の名は以心崇伝いしんすうでんという。

 彼もまた家康の側近であり、家康が政治の第一線から引いた後は秀忠のそばで仕えている。『黒衣の宰相』と周囲からはおそれられており、幕府のあらゆる重要事項は彼抜きで決まることはなかった。


 すなわち正信、天海、崇伝はいずれも家康を支えてきた腹心たちなのだ。

 そして彼らの関心は『家康の体調』であり、家康の主治医と懇意にしている阿茶から容態を聞こうと集まっているのである。


 だが、いつもは阿茶を含めた四人しかいない部屋に、この日ばかりは五人目の人物がいた。

 その人物へちらりと視線をやった阿茶は口を結んだ。

 言わずもがな「この者に漏らせぬ」というしるしだ。

 そこに口を挟んだのは天海であった。

 

「カカカ! そう固くならんでおくれ、阿茶殿」


 阿茶は天海に合わせるように口元を緩めたが言葉は出そうとしない。

 すると『五番目の人』は末席からつつと膝を進めて口を開いた。

 

「大御所の一大事は、竹千代様の一大事。もしそのお体に何かあると分かれば、それなりの支度をせねばなりませぬ」


 すらすらと立て板に水を流すような口調でそう言い放った女は、於福おふくという。

 丸顔に細い目と決して華やかではないが、一度見たら二度と忘れられぬ何かをもっている彼女は、竹千代の乳母であり養育係として、常に彼のそばにいる。

 普段は江戸で過ごしているが、この日は竹千代とともに駿府を訪れていたのだ。

 

「ふふ。それではまるで大御所の体に何か一大事でもありそうな物言いではありませんか」


 阿茶は重い口を開けると思いきや、ちくりと刺すようないやみを於福に浴びせた。

 だが於福は表情をまったく変えずに、あっさりと返した。

 

「一大事がなければ当家の頭脳とも言える御方たちが膝をつきあわせましょうか?」


 阿茶はぴくりと頬を引きつらせた。

 

――やはり於福殿とは合わぬ。


 微笑みは菩薩を、瞳の奥にはおぞましい悪魔を感じさせる二面性と、歯に衣着せぬ物言いは、確かに苦手だ。

 だが於福に瓜二つの性格だった者を阿茶は知っている。

 今は亡き、本多正純ほんだまさずみだ。

 彼は家康の覇業を裏に表に助けるために、手段を選ばなかった。俗に言えば『汚い手』を平気な顔で打つような男だったのだ。

 しかし彼女は彼を苦手としておらず、むしろその危うさを可愛がり愛していた。

 それは本多正純という男が「徳川家康」を心の底から愛しており、家康のためならあらゆる泥をかぶることをいとわなかったからである。

 その『愛』がいきすぎて彼が自滅してしまったのは、本当に残念でならなかったと阿茶は思っている。

 

 だが目の前で澄まし顔をしている女はどうか?

 

――於福殿が本当に望んでいるのは竹千代様の明るい未来か。それとも自分の立身か……。

 

 明智光秀の重臣、斎藤利三さいとうとしみつの娘である於福。

 『裏切り者の血を引く女』という烙印を押され、不遇の時を過ごしてきた彼女が望むのは果たしてなんなのか……。

 稀代の賢妻と称えられた阿茶であっても見当がつかなかったのである。

 

 互いの腹を探り合うように視線をからめ合う阿茶と於福。

 ……とそこに横槍をいれたのは崇伝であった。

 

「もうよい。おなご同士のいらぬ探り合いなどに付き合っている暇はないのだ。もしこの場のことが誰かに漏れようものなら、於福殿の首をはねればよいではないか。もったいぶらずにおっしゃってくだされ」


 あまりに直接的な言葉に全員の目が丸くなったが、いち早く肩の力を抜いたのは阿茶だった。

 彼女は於福が反論させるいとまを与えずに口を開いたのだった。

 

 

「医者の見立てによると、大御所様のお命はあと半年ほどではあるまいか、とのことです」


 

――もしこのことが外に漏れれば、その時は於福殿を葬り去る時よ。


 大事を告げられても表情ひとつ変えぬ於福を見つめながら、腹のうちでニタリと不敵な笑みを浮かべている。

 阿茶はそんなもう一人の自分が気づかぬうちに生まれていたことに対して、驚きを禁じ得なかったのだった――。


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