強いおなごになると決めて【終幕】 つないだ手は離さぬ

◇◇


 俺、豊臣秀頼が城を発つ時刻を迎えた。

 しかしあたりを見回しても千姫の姿はない。

 

「心配だな……」


 だからといって出立を遅らせるわけにもいかず、俺はゆっくりと城を離れていった。

 徒歩で一行の中ほどを進んでいると、隣に並んできたのは端正な顔立ちの青年だった。

 

「秀頼様!」

「おお、重成か。いかがした?」


 彼は木村重成きむらしげなりという名の重臣。

 俺と同い年で二十三になる。

 すれ違った女性なら誰もが振り返るほどの美男子で、妻は千姫の侍女である青柳だ。

 

「幼い頃、ここらを一緒に駆け巡りましたなぁとなつかしく思ったので」

「ああ、そう言われれば……」


 重成とは俺がこの世界にやってきたころからの付き合いだ。

 彼の他にも幼馴染は何人かいる。


 腕白で怪力が自慢の、大野治徳おおのはるとく

 城のことならなんでも知ってる、堀内氏久ほりうちうじひさ

 物静かで常に冷静な、明石あかしレジーナ。

 そして、千姫。


 幼い頃の俺たちは大人たちの目を盗んでは、城の外に出ようと『秘密の抜け道』を探して走り回っていた。

 

「なつかしいな」

「ええ、なつかしゅうございます」

「ふふっ……」

「秀頼様、いかがしたのです?」


 突然俺が笑いを漏らしたものだから、重成は目を丸くしている。

 俺は手をひらひらさせながら答えた。

 

「小さい頃のお千を思い出しておかしくなってしまったのだ」

 

――みんなで城から脱出するんだ!

――おおっ!


 あの頃はみんな背も低くて、俺たちより五つ年下の千姫は特に小さかった。

 みなで一斉に駆け出すと、

 

――まってぇ! 秀頼さまぁ!


 千姫はすぐに俺たちから遅れそうになるんだ。

 その時、いつも俺は彼女の小さな手をぎゅっと握って引っ張っていた。

 

――お千! 心配するでない! われがずっと一緒にいるから!


 そう声をかけると、彼女は決まってこう叫んだ。

 

――うん! ありがと! ぜったいにこの手をはなさないのじゃ!


 向日葵のような彼女の笑顔を見るたびに胸の内側がぽかぽかと温かくなったのを覚えている。

 それは今でも変わらない。

 だからこそ昨日の寂しい彼女の背中を思い出すと、胸がぎゅっと痛むのだ。

 

「秀頼様……。本当にこのままでよろしいのですか?」


 重成が顔を覗き込んできた。

 彼が何を言いたいのかは分かっている。

 俺は再び手をひらひらさせて答えた。

 

「答えるまでもなかろう」

「さようでしたか……」


 長い付き合いの彼なら俺の苦しい胸のうちを正しく理解してくれているだろう。

 俺だって本当は……。

 いや、やめておこう。

 願望を思い浮かべてしまえば、余計に苦しくなるだけだ。


「ではそれがしは見回りにいってまいります」

「ああ、頼む」


 重成が俺よりも前の方へと離れていった。

 

 ……と、その時だった。

 

――タタタタッ!


 軽い足音がどんどん近付いてきたのだ。

 自然と目が大きく見開かれ、音が聞こえてくる方へ体を向けた。


「まさか……」


 にわかには信じられない。

 しかしその足音だけで誰かはすぐに分かるのだ。

 何回も、何十回も、何百回も耳にしたその足音。

 耳にしただけで胸が高鳴っていく感覚。


 間違いない!

 千姫だ!!

 

「お千!!」

 

「秀頼さまぁぁぁ!!」


 千姫が通った道には、人々がひざまずいていく。

 そして俺の目の前に立っていた小姓が脇にそれた瞬間……。

 黄色の小袖に身を包んだ千姫が俺の胸に飛び込んできたのだった――。

 

「秀頼さま! 千も江戸にいく! もう秀頼さまから離れないと決めたのじゃ!!」


 俺を見つめる大きな瞳がぎらぎらと輝いている。

 きっと強い覚悟を決めてここまで駆けてきたのだろう。


 しかし俺は……。

 彼女を江戸に連れていくわけにはいかないんだ……。


 俺は彼女をゆっくりと引き離す。

 だが俺が何か言い出す前に、家老の片桐且元の声が後方から響いてきた。

 

「千姫様を捕まえるのだ!! 城から絶対に出してはならぬ!!」


 同時に多くの侍女や小姓たちがこちらに向かって駆けてくる様子が目に入る。

 千姫は顔を青くした。

 このまま俺が説得しなくても、且元たちが彼女をつかまえてくれればそれで終わりだ。

 昨日と同じように寂しそうに背を向けて部屋へ帰っていくだろう。

 

 それでいいんだ……。

 そうするのが千姫のためでもあるんだ……。

 そう自分に言い聞かせ続けた。

 

 だが千姫はきゅっと表情を引き締めた後、頬を赤く染めながら叫んだのだった。


「秀頼さま! 千は決めたのです! 強いおなごになると!」


「強いおなご……?」


「千はもう待つのはこりごりじゃ!! ずぅーっと秀頼さまと一緒にいたい! そのためなら追いかけてくる者たちなど怖くはないのじゃ!」


 そう宣言した彼女は俺の手を強く握って駆け出した。

 まるで幼い頃とは逆になったように……。

 そして二歩、三歩と足を踏み出したところで、彼女は声を天空へとどろかせた。

 


「つないだこの手は絶対に離さぬ!!」



 だが無情にも後ろから迫ってくる人々の足音はみるみるうちに大きくなっていく。


 どんなに彼女が足掻こうとも、決められたことは覆せない……。

 それは『歴史の歯車』に逆らうことができないのとまったく同じなのだ。


 しかし彼女の手から伝わってくる高い体温は、彼女が一寸たりともあきらめていないことを示していた。

 

 なぜだ……。

 なぜ彼女はあきらめないんだ……?

 

 そんな疑問が胸によぎった時、彼女は苦しそうに顔をゆがめながら吠えた。

 

「千は負けぬ! 絶対に負けたくないのじゃ!」


「お千……」



「千は秀頼さまが大好きなのじゃあああ!!」



 その一言が鼓膜を震わせた瞬間だった……。

 

――ドックン……。


 大きく脈打った鼓動で、胸の内側を覆っていた殻が弾け飛ぶ。

 そこから芽吹いたのは『小さな願望』だったのだ。

 

 彼女を連れていきたい――。

 

 

――ギュッ!



 おのずと握った手の力が強くなる。

 

「えっ?」


 目を丸くして振り返ってきた千姫に対して、俺はぐっと瞳に力を込めた。

 

「お千! われも負けぬ!」

「秀頼さま……」


――グンッ!!


 力いっぱい地面を蹴り、一気に加速した。

 千姫のことを今度は俺が引っ張りだした。

 

「何があっても離れるんじゃないぞ!!」

「秀頼さま……!」


 自分でも自分でしていることが正しいのか分かっていない。

 しかしたった一つだけはっきりしていることがある。

 俺はそれを叫んだ。

 

「お千!! 一緒に江戸へいこう!!」

「はいっ!!」


 不思議なことに人々は脇にそれ、目の前の道は綺麗に開けられている。

 いったいなぜ……と前方に目をこらすと、重成が彼らをどかして道を作ってくれているのが見えた。


「秀頼様と千姫様がお通りだ!! 皆の者! 道を開けよ!!」


 俺は彼とすれ違いざまに声をかけた。


「ありがとな」


 すると彼はこう返してきたのだ。


「こうなると信じておりました」


 と。


 ならば最初から「千姫様を連れていきましょう」と言ってくれればいいのに……。


 もっとも俺自身もそれを言えなくて、もどかしかったわけだが……。


 何はともあれ、重成が作ってくれた道をぐんぐんと加速していく。

 ついに先頭を行く幸村の横を通り過ぎた。

 

「ややっ!? 秀頼様! それに千姫様まで!?」

「幸村どのぉぉぉ! 千姫様をお引き留めくだされぇぇ!! このままではわしが淀様に殺されてしまうぅぅぅ!!」


 はるか後方から聞こえてくる且元の悲痛な叫び声に弾かれるようにして、幸村が俺たちを追いかけてきた。

 

「お待ちください! 千姫様をお連れするわけにはいきませぬ! これも豊臣家のためなのです!」


 彼がすぐ背後まで迫ってくる。


 もはやここまでか……。

 そう観念した瞬間……。

 

――ガシッ!


「な、なにをする!?」


 幸村が何者かに背後からつかまれて足を止めたではないか。

 

「秀頼様!! ここは俺がなんとかする! 今のうちに行ってくれ!!」


 大野治徳おおのはるとくの声だ!

 

 先の大坂の陣で片腕を不自由にしてしまったが、自慢の怪力は変わらないらしい。


「ありがとな!!」


 大きな声で礼だけ言って先を急ぐ。

 だが目の前の門では事情を知った門番たちが待ち構えているのが見えた。


「くっ! どうすればいいんだ?」


 すると今度は俺たちの真横に背の低い侍が並んできたのである。

 

「秀頼様! ここから右にずっとお進みください。そこに小さな門がございます。そこから外に出た後は、街道を北へ進むのです!」


 事細かに道を教えてくれたのも幼馴染の一人。

 堀内氏久ほりうちうじひさだ。

 昔から城や道をよく知っているのは変わらないようだ。

 

「ありがとう! 恩に着るぜ!」

「いえ! 御武運を!」

「はは! 武運とは言いすぎだ!」

「……いえ。まだ大将が残っておりますゆえ……」

「大将?」


 そう聞き返した直後……。

 

――ドドッ! ドドッ! ドドッ!


 馬の地面を蹴る音が後方から聞こえてきた。

 

「秀頼殿! わらわから逃げ切れると思うな!! はっ!!」

「げげっ! 大将とは鬼のことであったか!!」

「誰が鬼だ! 絶対に許さぬ! 神妙につかまれ!!」


 鬼の形相で迫ってくる美女の名は『甲斐姫かいひめ』。

 俺の養育係にして『鬼』だ。

 

「まずい! お千! 急ぐぞ!」

「は、はいっ!」

 

 しかししょせんは人の足。

 馬で追ってくる相手にかなうはずもない。

 今度の今度こそつかまってしまう……。

 自然と顔がうつむいていった。

 だが『仲間の絆』はまだ終わってなどいなかったのだ――。

 

「……秀頼様。こっち」


 消え入りそうな細い声が斜め前から聞こえてきたのである。

 俺ははっと顔を上げてその声の方へ顔を向けた。

 するとそこには黒い洋服に身を包み、首から十字架のネックレスをかけた女性が立っていた。

 

「レジーナ!」


 千姫の声が弾けると、それまで無表情だった女性は小さな笑みを浮かべた。

 彼女は『明石あかしレジーナ』だ。

 どんな状況でも冷静沈着な彼女は、淡々とした声で言った。

 

「……この馬を使って」

「馬!? どうしてレジーナが馬を?」

「……いいから。早く!」


 有無を言わせないレジーナの視線にぐいっと背中を押され、彼女が用意した白馬にまたがった。

 そして……。

 

「お千! さあ、こい!!」


 千姫に向かって右手を大きく差し出した。

 馬の背に乗ったことのない千姫はわずかに戸惑っている。

 

「お千、迷うな! われを信じるのだ!」


 彼女はきゅっと口元を引き締め、コクリとうなずいた。


――ガシッ!

 

「しっかりつかまっているんだぞ!」

「はい、秀頼さま!」


 千姫が背中から手を回してきたのを確認して、俺は馬の腹を蹴った。

 

「はっ!!」


 景色が流れ始め、俺たちは風となって進んでいった。

 千姫のしがみつく腕の力がぎゅっと強くなる。

 俺は顔を前方に向けたまま優しく声をかけた。

 

「大丈夫だ。安心してくれ」

「うん……」


 今さらになって怖くなってしまったのだろうか。

 千姫の声が小さい。

 俺は手綱から左手だけを離して、腹の上にある彼女の小さな手にそっと手を重ねた。

 

「秀頼さま……?」

「ありがとう、お千」

「え……?」

「お千のおかげで気づいたのだ。本当の自分の気持ちを」

「秀頼さま……」


 俺はぎゅっと彼女の手をつかんだ。

 そして強い口調で告げた。

 

「どんなことがあっても一緒にいたい。つないだ手は離さぬ!」


 この世界で生きるなら、彼女なしには考えられない。

 それは今までもずっとそうだったし、これからも変わらない。

 

 だからこの先に何が待ち受けているかなんて関係ない。

 俺たちを引き離そうとする者が現れれば、たとえ将軍が相手であろうとも再び立ち向かうだけだ。

 

「うん! 千もずっとそばにおります! そのために強くなる!」

「ああ、一緒に強くなろう!」


 ようやく千姫の心と自分の心がひとつになれた気がした。

 気づけば城の外へ出る門がすぐそこまで迫っている。

 

「はっ!!」


 俺はもう一度馬の腹を強く蹴って加速させた。

 

 このまま走るんだ!

 

 俺と千姫の『夫婦の道』を!


 そう決意を固くして――。

 



 強いおなごになると決めて(完)

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