強いおなごになると決めて④ ふたつの強さ 

◇◇


 秀頼の出立前夜に話は戻る。

 

 淀殿の一喝にすっかり気落ちした千姫は、秀頼送別の宴にも出ず部屋にこもっていた。

 宴の後、翌朝に備えて城内の誰もが床につく中、台所でぎゅっぎゅっと米を握る音がこだましている。見れば一人の美女が一心不乱に握り飯をこしらえているではないか。


 彼女の名は青柳。

 千姫の侍女である。


 千姫が五歳の頃から奉公しているため、侍女になってからもう十年以上もたつ。

 長い奉公で芽生えた情によって、彼女は千姫のことを主人というよりは可愛い妹のようにしか思えてならない。

 だから千姫が悲しみにくれているとなれば、いてもたってもいられなかったのだ。


 そしてもう一人。台所に姿を現した女性がいた。

 それは蘭だった。

 彼女は青柳を見るなり、きょとんとした顔で問いかけた。

 

「ねえ、青柳。それは誰のために作ったのかしら?」

「あら、それを聞くなら、蘭が持っているお茶は誰が飲むのかしら?」


 二人は顔を合わせると、ニコリと笑いあう。


「では、いきましょうか」

「うん!」


 彼女たちが向かう先は口に出さずとも一つ……千姫の部屋だ。


「ねえ、蘭。千姫様は泣き疲れて寝ちゃってるかしら?」

「ふふ、そうかもね。秀頼さまぁ、って寝言をもらしてるかもしれないわね」

「まあ! でも幸せな夢をご覧になられていたら、それはそれで嬉しいわ」

 

 そんな風に軽い調子で話していた彼女たちだったが、襖を開けたとたんに眉をひそめてしまった。

 

「ううっ。ひっく。秀頼さまのばかぁ……」


 千姫が真っ暗な部屋の隅でしくしくとすすり泣いていたのだ……。

 部屋の空気は重苦しく、まるで背中に大きな岩石を背負わされたように気分が滅入ってしまう。

 蘭と青柳は顔を見合わせると、小さくうなずき合った。

 

「千姫様。こちらを」


 青柳が千姫の横に座って握り飯を差し出したが、千姫はぶんぶんと首を横に振って拒絶した。

 すると今度は蘭が彼女の目の前に正座して言った。

 

「千姫様。おうかがいしたいことがございます」


 その次の瞬間……。


「まあ!」


 と、青柳は目を丸くした。

 なんと蘭が千姫のために持ってきたお茶をぐびっと自分で飲んでしまったからだ。

 しかし蘭はなんでもないように、真っ直ぐに千姫を見つめている。

 彼女の刺すような視線を感じた千姫は、おそるおそる顔を上げると彼女と目を合わせた。

 

「なんじゃ?」

「ではおうかがいいたします。千姫様は強くなりたいでしょうか?」

「強く?」

「ええ。淀様は『もっと強くなりなさい』とおっしゃってましたが、千姫様はいかがでしょうか、とうかがっているのです」

「ちょっと! 蘭! 無礼にもほどがあるわ!」

「青柳は黙ってなさい!」


 千姫は小さくうなずく。

 すると蘭は問いかけを再開した。

 

「では、強さとはなんでしょう?」


 とっさに答えられずに顔をしかめた千姫に対して、蘭はさらさらと言葉を並べた。

 

「いつも夫の帰りを待っているだけ。どんなに夫が他のおなごと仲良くなろうとも、文句の一つも言わずに、ただひたすら耐え忍ぶ。それが強さだとお思いでしょうか?」


 千姫は今度は大きくうなずいた。


「……そうせよ、とみなは言うではないか。耐えることが美しいと千は聞かされてるのじゃ」


 千姫の消え入りそうな声が部屋に響く。

 いたたまれなくなった青柳は千姫の背中をさすった。

 しかし……。


「ふふ……。ふはははは!!」


 蘭は大笑いをはじめたではないか……。

 千姫と青柳の二人は目を大きく見開いた。

 二人の視線など物ともせずに、しばらく腹を抱えながら笑っていた蘭は、ひーひーと呼吸を整えた後、はっきりとした口調で言い切ったのだった。

 


「そんなのくそったれです」



 ドンと胸をうつように衝撃的な一言に、千姫の口がポカンと口を開く。


「は……?」

「だから『耐えるのが美しい』というのは『くそったれ』と申し上げたのです」

「ど、どういうこと?」


 青柳が横から口を挟んだが、蘭は千姫から視線をそらすことなく続けた。

 

「もちろん『耐え忍ぶ』ことが美しい時だってたくさんあります。でも今の千姫様と秀頼様の御関係はちょっと違う……いえ、まったく違うと思うのです」


「今の千と秀頼さまの関係は違う……。なぜじゃ?」


「だって千姫様だけがお辛い想いをされているだけではありませんか。それを幸村様に言おうものなら、何かにつけて『これも豊臣家のためだ』ですって。お家のためなら一人のおなごに悲しい想いをさせてもいいっていうの? そんなのくそったれだわ」


「蘭……」


「秀頼様にしたっていつもこうおっしゃってるではありませんか。万民を笑顔にするのだって。でももっとも笑顔にしなくてはならない御方を放っておいて、そんなことを掲げたって説得力のかけらもないと思うの」


「ちょっと蘭! また秀頼様と真田様に聞かれたらたいへんなことになるよ!」


「止めないで、青柳。この件に関しては、私はいっさい譲る気なんてないんだから! いいですか、千姫様。強いおなごについて、今からお話しすることを聞いていただけますか?」


 蘭は強い視線を千姫に向けた。

 千姫はぴしっと背筋を伸ばしてから、大きくうなずいた。

 すると蘭は一人の女性の話を始めたのだった――。

 

◇◇


 時はさかのぼることおよそ百年。

 永正一四年(一五一七年)十月のこと。

 

 西国で大きな戦乱が起こった。

 中国地方で権力を持っていた武田家と、当時はまだ小さな戦国大名にすぎなかった毛利家が激突したのだ。


 西の勇将として知られた熊谷元直くまがいもとなおは、武田軍の一員として参戦することになっていたのだった。

 

――では、いってくる。

――いってらっしゃいませ、あなたさま。


 居城を出ようとした彼を見送りにきたのは、元直の若い妻だ。

 彼らは周囲もうらやむほどに仲が良く、愛し合っていた夫婦だった。

 しかし妻は元直と違ってひ弱なところがあり、いつも彼のことを心配していたのである。

 今にも泣きそうな顔で自分を見つめる妻に対して、元直は穏やかに声をかけた。

 

――かような顔をするでない。わしは必ずや戻ってくる。


 彼の右手が妻の頬に優しく触れる。

 彼女はその手を強く握りしめた。

 わずかに覗いた彼の太い右腕には、特徴的なあざが見えた。

 彼女にとっては、そのあざすら愛おしい。

 

――約束でございます。必ずわらわのもとにお戻りくだされ。

――ああ、約束だ。わしは常におまえとともにある。だから強くなれ、よいな。


 そう言い残して、元直は城を去っていった。

 涙を流して夫の背中を見送る彼女だが、周囲の人は不思議がっていた。

 なぜなら戦の行方は誰が見ても明らかだからだ。

 というのも味方である武田軍が五〇〇〇に対して、毛利軍は一〇〇〇にも満たぬ。

 しかも毛利家の命運を託されたのは当時まだ二十一の毛利元就もうりもとなりで、これが初陣だ。

 

 元直は絶対に城に戻ってくる、誰もが確信していた。

 しかし……。

 

――求めるは勝利のみ!


 そう高らかと宣言した元就は奇策を練った。

 それは熊谷元直の本陣に奇襲をかけて元直だけを討つというものだ。

 元直を討ち取れば武田軍の士気は大いに乱れ、戦況を打開できると元就は確信していた。

 そして巧みに元直の軍団を孤立させた元就は、


――かかれ!


 と号令をかけた。

 

 元直が率いているのはわずか一〇〇程度の軍団だ。

 対して毛利軍は小勢と言えども八〇〇はいる。

 八倍の敵が一斉に襲いかかってくれば、いかに勇将といえどもひとたまりもない。

 だが、元直は鬼のような形相でほえた。

 

――おのれ、こわっぱ!! わしを誰だと思っておる! 源平合戦より主君を助けて数多の戦場を駆け抜けた熊谷直実くまがいなおざねの子孫よ! ご先祖の名にかけて、名も知れぬこわっぱに負けるわけにはいかぬ!!


 不利な戦況にも関わらず、一歩たりとも引かぬ元直は、最前線に躍り出た。

 そして馬上から槍をふるい、ばったばったと毛利兵たちを斬り落としていく。

 奇襲をしかけた毛利軍であったが、元直一人の無双の働きに尻ごみしはじめた。

 しかし元就だけは冷静だった。

 彼は元直がじゅうぶんに前へ出てきたと見るや、一斉に兵を引いた。

 

――弓隊、前へ!! 射かけよ! 狙うは元直ただ一人!!


 矢の雨が元直一人目がけて降り注ぐ。

 一本、二本と自慢の槍で矢を弾くが、彼もしょせんは人の子。

 馬が暴れて姿勢をくずしたところで、一本の矢が彼のひたいに突き刺さった。

 

――うぐっ……。


 うめき声とともに、元直はどうと馬から落ちる。

 そこに短刀を携えた毛利兵たちが殺到した。

 そして、

 

――熊谷元直、討ちとったり!!


 兵の一人が天に向かって吠えた瞬間から、戦の流れは変わった。

 勇将を討たれたことによって混乱をきたした武田軍を毛利軍は容赦なく蹂躙し、終わってみれば毛利軍の完勝で幕を閉じたのだった。

 



 だが、話はここで終わらなかった。



 熊谷元直の妻が、最愛の夫の帰りを城で待っていたのである。

 そして無情にも元直の死は、彼女の耳にも届けられた。

 しかし彼女は首を横に振った。

 

――殿は約束してくださいました。必ずや戻ると。


 健気に夫の帰りを待とうとする彼女に、誰もが涙を禁じ得なかった。

 しかし帰ってこぬものは帰ってこぬ。

 非情に徹した家老の一人が、彼女に声をかけた。

 

――奥方様。こればかりはどうにもなりませぬ。


 だが彼女は頑として譲らなかった。

 そして髪を束ね、近くにあった甲冑に身を包んだのである。


――いったい何をなさるおつもりか。


――わらわは殿の亡骸を見るまでは、殿が死んだとは信じぬ! 殿は必ず約束を守ってくださるはずだからだ! だからわらわの方から殿に会いにいくのだ!

 

 普段の弱々しい彼女からは考えられないほどの気迫に、誰も何も口を挟めない。

 そうして彼女は夜叉のような顔つきのまま、一人で城を出ていった。

 

 城から戦場までは距離がある。

 落ち武者狩りが徘徊する中、女一人で歩くには危険すぎる道のりでも、彼女はいっさい躊躇しなかった。

 そのあまりに堂々とした威容に、誰も近付くことすらできなかった。

 彼女をはばむのは、うっそうと茂る木々だけだ。

 頬や腕に小さな傷をつけながら、彼女は前へ前へと進んでいく。

 そうしてついに戦場にたどりついた。

 

 だが……。

 

――これは……。


 さしもの彼女ですら茫然としてしまったのも無理はない。

 なぜなら目の前には無数の遺体が転がっていたのだから……。

 それでも彼女はパンと頬を張ると、気合いを入れ直した。

 

――元直様! わらわが必ずや会いにいきます!


 名のある将だけが首を取られる。

 ならば元直ほどの人物であれば必ず首がないはずだ。

 その上、彼の右腕には特徴的なあざがある。

 彼女は無数の亡骸をかきわけながら夫を探した。

 血やはらわたで甲冑も服も、そして彼女の顔さえも黒く染まる。

 はたから見れば地獄をさまよう亡者のようであった。

 だが彼女にとっては地獄も極楽も関係ない。

 

――わらわはただ元直様にお会いしたいだけなのだ! ずっと一緒にいたいだけなのだ!


 真っ黒な戦場跡に、どこまでも透き通った純粋な愛が輝く。


 いつの間にか夜は更けていった。

 転がる亡骸はただの黒い塊と化し、わずかな月明かりだけをたよりにして彼女は夫を探し続けた。

 晩秋の安芸は夜になるとよく冷え、彼女の体はみるみるうちに体温を失っていく。

 

 だが彼女はくじけなかった。

 

 負けなかった。

 

 そして星の光が降り注ぐ首なき亡骸に、彼女の目は釘付けになったのだった。

 

 

――見つけた……。



 間違いない。

 あざなど見ずとも、その背中だけで分かる。

 夫、元直だ。

 

――あなたさま! うあああああ!!


 彼女は冷たくなったその背中に抱きついた。

 慟哭が月夜に響く。

 いつもなら「泣くな、大丈夫だから」と優しくさとしてくれるその声は、もう聞こえることはない。

 それでも彼女は待った。

 涙が枯れるまで泣き続けながら待ったのだ。


 しかしついにその声は彼女の耳には届かなかった……。


 そうして空が白み始めた頃。

 彼女はふらふらと立ちあがった。

 

――一緒に帰りましょう。


 亡骸にそう声をかけた彼女は、腕を首に回してかつごうとする。

 しかし彼女の細い体では一寸たりとも動かすことはできなかった。

 どんなに歯を食いしばってもまったく動かない。

 こればかりは気持ちだけではいかんともしがたかった。

 

 しかし……。

 

――あきらめるものですか!


 夫の腰に差しっぱなしになっていた短刀をすらりと抜くと、あざのある右腕だけを引きちぎろうと、渾身の力をこめて何度も刀を打ちつけたのである。

 

――一緒に帰るのだ! 元直様と一緒に帰るのだ!


 固くなった肉、さらに固い骨。

 どれだけ切っても切っても切り離せない。

 だが彼女は負けなかった。

 夫への愛を貫くために、負けられるはずがなかったのだ。

 

――わらわは決めたのだ!! 元直様とともにあると! そのために強くなると!!

 

 そうしてついに、ぶつっと鈍い音がこだました。同時に地平線から顔をのぞかせた太陽がまぶしく彼女を照らす。

 その朝日に向かって、彼女は高々と右手をかかげたのだった。

 

 夫の右腕を手にして――。

 

◇◇


「そうして元直様の妻は生涯にわたってその右腕をそばに置いたそうです」

「すごい……」

「ふふ、千姫様。いかがでしたか? 『強さ』とはなにか、お分かりになりましたか?」


 千姫は口を真一文字に結んだままうつむいている。

 そこで蘭は質問を変えた。

 

「では、千姫様はこれからいかがなさいますか?」

「いかがするとはどういう意味じゃ?」

「このまま『耐え忍ぶ強さ』を身につけるか……」


 そこで言葉をきった蘭は、ぐいっと顔を千姫に近付けた。

 そうして鼻と鼻がくっつきそうな距離で、力強く言ったのだった。


「それとも『貫き通す強さ』を身につけるか!」

「貫き通す強さ……じゃと……」


 千姫がはっとして顔を上げた。

 その瞳の奥に煌々と小さな火が灯っている。

 それを見た蘭はニコリと微笑んだ後、ぴぃと口笛を鳴らした。

 

 すると黒い影が部屋に伸びてきたかと思うと、いつの間にか忍び装束に身を包んだ女性がひざまずいているではないか。

 千姫は思わずのけぞって問いかけた。

 

「な、なにものじゃ?」


 すると忍びはねっとりとした声をあげたのだった。


「私はあかね。よろしくねぇ。千姫様」

「誰じゃ? お主は」

「ふふふ。才蔵様のめかけってところかしら。毎晩のようにかわいがってもらっているのよぉ」

「か、か、かわいがってもらってる……! ど、ど、ど、どういう意味じゃ!?」

「あらぁ。ご存じのくせにぃ。それとも聞きたいのかしら? 私たちのひめごとを」

「……っ!」

「千姫様には刺激が強すぎちゃったかしらぁ。ふふふ」

「冗談はそこまでにして、あなたがなぜここに呼ばれたか言いなさい」


 茜は蘭に視線を移して「だって千姫様ってば可愛いんだもん」と舌を出している。

 しかし蘭の冷たい視線に観念したのか、姿勢をただした彼女は相変わらずねっとりとした口調で続けた。

 その内容は驚くべきものだった――。

 

 

「千姫様を城の外へお連れする手伝いをしにきたのよ。ふふ」




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