強いおなごになると決めて① 予想せぬ訪問者
◇◇
元和元年(一六一五年)六月半ば 大坂城――。
「むふふふ!」
この日も千姫は中庭をのぞむ縁側に座って、にやにやしていた。
それを見かけた侍女の
「ねえ、青柳。千姫様の御機嫌がやたら良いのだけど、何か知らない?」
「ええ、知ってるわよ」
「ちょっと! なんでそれを早く教えてくれないのよ!」
「千姫様からお許しをいただいてからでないと……」
「いいから早く教えなさいな! もったいぶらずに!」
蘭の気迫に負けた青柳は、声を低くして答えた。
「近頃、秀頼様にこう言われたそうなの。
『千代殿と一豊殿のように、お千とわれも立派な『めおと道』を歩いていこう!』
ってね」
蘭は眉をひそめた。
「はあぁ? 立派な『めおと道』だぁ?」
「うん。千姫様は『おしどり夫婦』と知られた見性院様と山内一豊様の御夫婦のようになれるんだって、思い込んでいらっしゃるようで……」
「それ、ぜぇぇったいに秀頼様がだましてるわ! 男ってあれよねぇ。いっつも自分の都合のいいように、おなごを扱おうとするんだから! この前だって幸村様ったら、『うっとうしいからこっち寄るな!』とか言ってたくせに、正室の
「……おい」
明らかに青柳の声よりも低い声が蘭の背中からかけられるが、おしゃべりに夢中の蘭の耳には届いていないようだ。
すでに青柳は蘭の背後に立っている二人の影に、ぷるぷると震えながら怯えていた。
「なによぉ。そんなに顔を青くする必要ないでしょ。ん? 何を指差してるの? 後ろを見ろって。まさか鬼や蛇がいるわけでもあるまいし。おおげさな……。って、げげげげげっ!! ゆ、幸村様! ついでに秀頼様まで!!」
「こらあああああ!!」
「きゃあああああ!! 鬼じゃあああ!!」
………
……
廊下のはしに立たされた蘭に幸村の説教が延々と続いている中……。
俺、豊臣秀頼は千姫の隣に腰をおろした。
「秀頼さまぁ。今日は陽射しが暑うございます」
「ああ、そうだね。痛いくらいだ」
「ふふ、槍や刀でもあるまいし、痛いというのはちと言い過ぎじゃ」
すこぶる上機嫌な千姫の横顔をちらりと見る。
とても幸せそうに笑みを浮かべている姿にチクリと胸が痛んだ。
これからしばらく俺は江戸に滞在せねばならず、もしかしたら年を越してしまうかもしれないのだ。
というのも半月後に、将軍徳川秀忠の名で『
『元和令』とは別名『
その内容は「大名家同士の勝手な婚姻の禁止」や「城の増改築の禁止」といった大名に対するお達しと、「武士は文武に励むべし」や「武士は倹約に励むべし」など武士の生活や姿勢の規範を定めたものだ。
目的は、大名同士が結託して幕府にはむかったり、浪人や武士が武力をもって治安を乱すことのないように、幕府の統制力を強めることである。
全国の大名たちが江戸に集まり、将軍より直接言い渡されることになっているのだが、一部の者たちが面白くない顔をするのは火を見るより明らかだ。
もちろん表立って異を唱えるような命知らずはいないだろうが、裏で暗躍を企む者たちが出てきてもおかしくない。
そして、その者たちが真っ先に近づく相手は誰かと問われれば、いの一番に「豊臣家」と答えるのは、たとえ政治にうとい町民であっても同じだろう。
なぜなら豊臣家は一二〇万石という石高もさることながら、つい数年前までは徳川家と真っ向勝負を挑んでいたのだから。
もちろん今の俺に再び徳川と対立して天下をひっくり返そうという気はさらさらない。そんなことをしたら千姫をはじめ、多くの人たちを不幸にするだけだからだ。
だから俺は幕府にあらぬ疑いをかけられないように振る舞わなくてはならない。
では最良の振る舞いとはなにか。
それは徳川家とともに、しばらくのあいだは過ごすことだと考えている。
そうすれば不穏な者たちを近寄らせないだけでなく、身の潔白も証明できるため、まさに一石二鳥だからだ。
だが、同時に意味するのは目の前で幸せそうに笑っている千姫と離れるということ……。
――彼女も江戸に同行させればいいのではないか?
と幸村に打ち明けたこともあったが、
――未だ徳川家中には当家を敵視している者も少なくありません。もし秀忠殿のお子である千姫様が江戸に長いあいだ滞在するとなれば、なにかと理由をつけて当家から引き離そうとしてくるでしょう。ゆえに千姫様を江戸に同行させてはなりませぬ。
そうきっぱりと言われてしまっている。
だから、この場でどう切り出そうか迷っていると、なんと彼女の方から先にそのことについて話し出してきた。
「秀頼さまがわざわざここにお越しになったということは、そろそろ大坂を発つということですね」
哀愁ただよう口調が、ズキンと胸をうつ。
俺はコクリとうなずいた。
「夫の帰りを待ち、留守をお守りするのが妻の役目と母上からうかがいました。だから千は大坂城で秀頼さまの帰りを待っております」
「お千……」
彼女の浮かべた笑みはぎこちなく、瞳の奥には悲しい色をかもしだしている。
それでも彼女は強がった。
「千はぜんぜん寂しくなんてないのじゃ! 安心して江戸でのお仕事に精を出してくだされ!」
これまでの彼女なら「いやじゃ! いやじゃ! 千を置いてけぼりにするなんて許さないのじゃ!」と手足をばたつかせながら暴れていたことだろう。
しかし、見性院の一件から彼女は変わった。
俺のことをすごく信頼してくれるようになったし、何よりも言動が『大人』になってきたのだ。
それでも甘えん坊の性格だけはそのままのようだ。
「秀頼さま。その代わり。あの、その……」
「ん? どうした?」
もじもじしている千姫に俺は穏やかな目を向けた。
すると彼女はぐっと瞳に力をこめて言った。
「戻ってこられた後に、一緒にお買い物に行きたいのじゃ!」
頬を赤く染めてそう言い切った彼女の頭に、俺は優しく手をのせた。
「ああ、そうしよう。京に行って買い物したり茶屋に入ったりしよう」
花が開いたように千姫の顔がぱぁっと明るくなる。
「うん! 秀頼さまぁ! だいっすきじゃ!!」
弾けるような笑顔でそう告げた彼女は、大きな瞳でじっと顔を覗き込んできた。
どきどきと胸が高鳴る。
それは彼女も同じのようで、赤く染まった頬とわずかに潤んだ瞳から緊張が伝わってきた。
「秀頼さまぁ」
甘い吐息に自然と彼女の肩を掴む手に力がはいる。
そして俺たちは顔と顔を近付けていった。
「お千……」
千姫がそっと目を閉じる。
彼女の小さな唇に自分の唇が重なっていく。
……が、その直前だった。
もはやお約束となった横槍が飛び込んできたのである。
だがそれは予想外の人物からだった――。
「たっちゃん!!」
廊下の向こうから響いてきた声に、俺の動きがピタリと止まってしまった。
――タタタタッ!!
けたたましい足音を立てながらこちらに向かってくるその声の持ち主に、ぱっと顔を向ける。
「伊茶!?」
『外見』は確かに伊茶だ。
そもそも江戸の大坂藩邸にいるはずの彼女がどうしてここにいるのか分からない。
ただそんなことではなく、一番の問題は彼女の『呼び方』であった。
「たっちゃん……だと……?」
『たっちゃん』とは、元いた時代の俺の名前『近藤太一』のあだ名で、この世界で俺をそう呼ぶ人物を俺は一人しか知らない。
すなわち幼馴染の『八木麻里子』だ。
つまり今の伊茶の『中身』は『八木麻里子』ということなのか……。
にわかに混乱していると、彼女はもう一度その名を叫んだ。
「たっちゃん!!」
そして気づけばすぐ目の前までやってきた彼女は俺に向かって飛び込んできたのである。
「うわっ!」
避けられるはずもなく彼女を受け止める。
自然と抱き合う形になった。
そして彼女はぎゅっと俺にしがみついたまま大きな声で宣言したのだった。
「たっちゃんのことは、私が絶対に守るんだから!」
と……。
この瞬間、俺は確信した。
やはり彼女は麻里子であるということを――。
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