強いおなごになると決めて② 向こう側の世界へ

◇◇


 ところも時も変わって『現代』。

 夏休みが始まったばかりの青空のもと、近藤太一という高校二年生の少年の家に、彼の幼馴染である八木麻里子がたずねてきた。


「こんにちは!」


 インターフォンごしに麻里子は、快活な声で太一の母にあいさつをした。


「麻里子ちゃん。いらっしゃい」


 女子高生が男子高生の家をたずねるというのは、あまり自然なことではないだろう。

 しかし太一の母は何の疑問も持たずに彼女を迎え入れた。


「こちら、母からです」


「まあ、いつもお気づかいいただいちゃってぇ。ありがとね。あの子が目を覚ましたら、ちゃんと礼を言わせにいかなくちゃ」


「いえいえ、いいんです。むしろ毎日のようにおしかけてしまって、ごめんなさい」


「いいのよぉ。きっとあの子も喜んでるだろうから。ささ、あがって。冷たい飲み物を用意するから、あの子の部屋で待っていてちょうだい」


「ありがとうございます。でも、お気づかいなく……」


 そう言いかけた時には、太一の母はすでに台所の方へ消えてしまった。

 麻里子はその背中を見て、小さく微笑んだ。

 いつも真っ直ぐで、誰かのためなら周囲をかえりみずに行動に移す、そんな太一の姿にそっくりだ。

 でもそのことがおかしくて、笑ってしまったのではない。

 彼のことを少しでも思い出すたびに、胸がドキドキと高鳴るのをおさえることができない自分に対して、苦笑いが漏れてしまったのである。

 

 二階の太一の部屋の前までやってきた彼女は、ドアをコンコンとノックした。

 当然のように返事はかえってこない。

 

「たっちゃん。入るね」


 形式的な声をかけた後、ゆっくりとドアを開く。

 すると目に入ってきたのは、いつも通りの光景。

 すなわちベッドに横たわり、すやすやと寝息を立てている太一の姿だった。

 彼女はベッドのへりに腰をかけると、少しだけ頬を赤らめて話し始めた。

 

「たっちゃん。あのね、昨日の映画はすごかったんだよ……」


 他愛もない日常の話を、眠ったままの太一にする。

 これが彼女の日課なのだ。

 

――母さん! 父さん! ごめん!! 二ヶ月間、また寝るから!!


 こう宣言した彼が『向こうの世界』へ旅立ってから四日になる。

 『向こうの世界』とは、彼が豊臣秀頼として生きている世界のことだ。

 秀頼として過ごし、役目を終えてからこちらの世界に戻ってきた彼だったが、豊臣家と千姫に不幸がおとずれると知り、再び向こうの世界へと旅立っていった。

 今度は豊臣秀頼として天寿をまっとうしてから現代に戻ってくるつもりなのだろう。

 こちらの『一日』は、向こうの世界では『一年』であり、二ヶ月というと、およそ六十年を向こうの世界で過ごすことになるからだ。

 

 麻里子もかつては『伊茶』という名の秀頼の側室として、向こうの世界で過ごしたことはあった。

 だから彼のしたいことは理解している。

 でも、こうして手の届く場所にいるのに会話することすらできないのは、ちょっぴり寂しい。

 

 しかし……。

 

――戻ってきたら買い物でも遊園地でも付き合ってやるから!!


 太一が意識を失う間際に残してくれたこの言葉が、いつも彼女を励ましていたのである。

 

「ううっ……」


 彼の顔が苦痛に歪んだ。

 しかしそれも束の間、すぐに穏やかになる。

 

「ふふ、きっと千姫様とけんかでもしたのね」


 麻里子は微笑ましい気持ちで太一を見つめていた。

 しかしふと気付くと、胸が苦しくなった。

 

「今頃、たっちゃんは千姫様と仲良く暮らしてるんだろうな」


 千姫の太陽のような笑顔と、それを愛おしそうに見つめる秀頼こと太一の姿が思い出される。

 伊茶だった頃は、秀頼に近付くことに必死で何も感じられなかったが、こうして一歩だけひいた立場になると、認めたくない感情がむくむくとわいてきた。

 

 それは……。

 千姫への嫉妬心だ……。

 

「ダメね……。私」


 彼女はぶるぶると首を振ると、少しでも気を紛らわせようと、太一から目を離した。

 きちんと整理された部屋だ。こんなところにも彼の性格が表れているようだ。

 本棚にはびっちりと彼の好きな歴史小説が並んでいる。

 そして机の上に目を移した直後、彼女は目を丸くした。

 

「歴史の教科書?」


 すでに夏休みに入っているため、しばらく開いていないその教科書が、どうにも気になって仕方ない。

 彼女は机のそばまで近寄ると、それを手に取ってパラパラとめくった。

 無論、豊臣秀頼のことが書かれた部分に目を通すためだ。

 だが次の瞬間だった――。

 

「なにこれ……。うそでしょ……」


 彼女の顔が真っ青になり、


――バサッ……。


 手から教科書が落ちた。

 そして無意識のうちに『石』が握られる。

 それは『時を越える石』……。すなわち麻里子を『向こうの世界』へ運ぶことができる石だ。

 

「たっちゃんを助けなきゃ……!」


 その一心で頭の中はいっぱいだった。


「お願い! 私をたっちゃんのそばに行かせて!」


 ぐっと表情を引き締めた彼女は、『時を越える石』に願いをかけた。

 すると部屋の中が白い光に包まれていく。

 そして彼女は、台所でクリームソーダを作っているであろう太一の母に聞こえるような大声をあげた。

 

「おかあさん!! 私もたっちゃんと一緒に寝ます!! 必ず戻りますから!!」


 そう言い終えた直後、彼女は太一のベッドの脇で寝息をたてはじめたのだった――。

 

………

……


 こうして八木麻里子もまた『向こう側の世界』へ旅立っていった。

 だが、果たして彼女を突き動かしたものはなんだったのか。

 その答えは、開きっぱなしの教科書に書かれていた、次のような記述であった。

 

『第二代将軍、徳川秀忠の治世の頃。

 第三代の将軍の座を巡り徳川家中で騒動が勃発する。

 既に次代の将軍には徳川家光に決まっていたが、大坂藩の豊臣秀頼を中心として家光の弟である徳川忠長を推す声が強まる。

 豊臣秀頼は、若い忠長を将軍にすることで、その後見人として政権を握ろうと画策したと言われている。


 そうしてついに家光派と忠長派は互いに兵を出して衝突した。

 幕府を味方につけた家光派は圧倒的な兵力で忠長派を鎮圧する。

 反乱の中心にいた豊臣秀頼は、妻の千姫と離縁させられたうえで国を追放された。

 こうして将軍の後継者争いが収まり、豊臣家が取り潰しとなったことで、幕府の支配力は盤石なものとなった。


 これら一連のできごとを【元和の乱】という。

 なお豊臣秀頼は失意のうちに寒村で自刃したと伝えられている』




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