花咲くめおと道⑤ 道を踏み外してしまった女としてのけじめ
◇◇
そこまで話し終えた見性院の顔は、穏やかで慈愛に満ちたものに変わっていた。
俺、千姫、あざみの三人もまた肩の力が抜けて、一息ついている。
そんな中、高台院がケラケラと笑い声をあげた。
「拾、といえば秀頼殿の幼い頃の名と同じでねえか! ははは!」
「え? そうだったのですか? 千は知りませんでした」
「お千がこっちに来る前のことだからのう。あの頃の秀頼殿といえば、よくおねしょをしてのう。たいへんじゃったのじゃ! ははは!」
「ちょっと! おかかさま!! なんてことをおっしゃいますか!?」
「へぇ! 秀頼様がおねしょを! そしたら今度、おねしょに効く薬草を献上しようかねぇ! ははは!」
「こらっ! あざみまで!」
「まったく……。秀頼さまはいつまでたっても子どもなんですから……。千は妻として恥ずかしゅうございます!」
……と、場がなごんだところで、見性院が再び口を開いたのだった。
◇◇
拾が山内一豊と千代の『子』となってから九年の歳月がたった。
山内一豊は順調に出世を続け、今では掛川城で五万石以上を有している。
拾もまた父に負けじと、すくすくと育ち、その成長ぶりは千代でさえ驚かせることもあるくらいだ。
「母上! 『泰平』という字が書けるようになりました!」
「まあ、お上手なこと。ふふ、拾はきっと立派な侍になるわ」
「本当ですか!? わたしは立派な侍になれるでしょうか!?」
「ええ、この母が保証します」
「やったぁ!」
この頃は背も伸びてきて、言葉づかいも急に大人びてきた。
しかし一方で、母の褒め言葉に対して無邪気に喜ぶ姿は年相応の少年だ。
その差異は、まるで子どもから大人への階段を一段ずつ上がっているように感じられる。
千代はそれが嬉しくて、目を細めながらぴょんぴょんと飛び跳ねる拾を見つめていた。
とその時。廊下の奥の方へ目をやった拾が、ぱあっと顔を明るくさせた。
「あ、国松殿だ!! おーい!!」
廊下を駆けてくる小さな男の子に、ぶんぶんと手を振っている。
国松と呼ばれたその男の子もまた「拾どのぉ!!」と叫びながら、懸命に手足を動かしていた。
「こら、国松。廊下を走ってはなりませんよ」
国松の母、出羽が声をあげるが、すでにじゃれ合っている子どもたちの耳には入ってないようだ。
ちなみに国松は一豊の弟である康豊の長男で三歳になる。
一方の拾は九歳だ。
拾は国松の面倒を良くみて、国松もまた実の兄のように拾を慕っている。
千代と国松の母の二人は、微笑ましい彼らの光景に優しい視線を向けていたのだった。
こうして春のように穏やかな日々が続いていた。
主君、豊臣秀吉によって天下泰平がもたらされ、彼の後継者である豊臣秀次も関白として立派に役目を果たしている。
一豊はその秀次から側近として頼りにされており、山内家の将来は明るいものと誰もが思っていたのだ。
しかし……。
この『道』は本来歩んではならぬ『道』。
進めば進むほど深みにはまり、取り返しのつかない結果をもたらすことになると、彼女は不安でいっぱいだったのだ。
それでもそんな不安から目をそむけていたのは、一人娘を失った哀しみを幸せで上塗りするためだ。
しかしいかに己をごまかそうとも、天をごまかすことはできぬと千代はさとっていた。だがその日は遥か遠い未来のことであると自身に言い聞かせてきたのである。
しかし無情な審判をくだされる時はすぐそこまで迫っていた……。
それは文禄四年(一五九五年)七月。拾がちょうど一〇歳を迎えた時のこと。
――関白秀次様が御切腹された! 太閤殿下の逆鱗に触れてしまったらしい!
京から遠く離れた掛川にも稲妻のごとき一報が駆け巡った。
にわかに騒がしくなった城内を、千代が先頭にたって落ち着かせていく。
この頃、一豊は大坂と京につめたままで、掛川の留守は千代にたくされていたからだ。
「みなのもの。いつもどおり掃除をして、食事をつくって、洗濯をするのです。いつ殿が城に戻ってこられてもよいように、平静を保つのがわれらの務めですよ」
凪の湖面を思わせるように穏やかな口調で、城内を説いてまわる千代。
だが内心では夫のことが心配でならなかった。
なぜなら夫は秀次に寵愛された側近の一人であり、この時代では主君が粛清されたら家臣も同様の処罰をこうむるのが通例だったからだ。
それでも城を守る妻として、彼女は気丈に振舞い続けた。
そのかいもあってか、城内で騒ぎたてる者は誰一人としておらず、出入りを許されていた商人たちですら驚くほどだった。
そして秀次の切腹から一ヶ月ほどたったある日。
ついに一豊と彼の弟の康豊の二人が京から帰ってきたのであった。
「おかえりなさいませ。あなた様。康豊殿」
ゆったりとした口調で彼らを出迎えた千代は、深々と頭を下げる。
一豊と康豊の兄弟は、あまりに普段と変わらぬ様子の彼女を不思議そうに見つめた。
だがそれも束の間、一豊が白い歯を見せながら告げた。
「うむ! 出迎えご苦労様。喜べ、千代! ご加増だ!」
「まあ、そうでしたの!」
「関白殿下の件は残念だったが、これからは太閤殿下のために励むことになった。だから安心せよ。山内は安泰だ!」
夫の言葉に、千代はようやく頬をほころばせる。
そして彼女の背後で控えていた拾と国松の二人を前にやって挨拶をさせた。
「おかえりなさいませ! 父上!」
「おかえりなさいませ!!」
一豊と康豊の二人はちらりと顔を合わせた後、二人の少年の頭をごしごしとなでた。
「よく挨拶できたのう! 母の言いつけを守って、良い子にしておったか?」
「はいっ!」
和気あいあいとした家族のやり取りで、脇にいる侍女や小姓たちの顔にも自然と笑みがこぼれる。
平静を装っていたものの、内心では緊張していた人々の肩の力が抜けて、城内はにわかに賑やかになっていった。
そんな中だ。
康豊がきゅっと口元を引き締めて、一豊に向けて視線を送ったのは……。
その視線に気づいた一豊もまた口を結んで小さくうなずいている。
千代が不思議そうに小首をかしげると、一豊は低い声で言った。
「千代、出羽。今宵の夕げの後、拾と国松を連れて城主の間へくるように」
「はて? どんなご用件でしょう?」
「うむ。世継ぎのことで話がある」
「世継ぎ……」
この日の空のように晴れ渡っていた千代の胸の内に、不安の黒い雲がわきあがっていく。
だがそれでも彼女は信じていた。
一豊なら『捨て子』の拾を邪険にあつかうような非道な真似はしない。
きっと正式に夫婦の子として認めて、山内家の跡継ぎとしてくれるだろう、と。
「では、しばらく政務にとりかかるゆえ、先に失礼する」
一豊はそう言い残すと、康豊を連れて城の奥へと消えていった。
千代は表情を固くしたまま、彼らの背中が見えなくなるまで見送っていたのだった――。
………
……
その日の夕げの後。城主の間で一豊と康豊の二つの家族が集まった。
四歳の国松は母の膝ですやすやと寝息をたてているが、その一方で一〇歳の拾は背筋を伸ばして、真っ直ぐに一豊を見つめている。
そんな中、口を開いたのは康豊であった。
「関白殿下は豊臣家のお世継ぎの問題に巻き込まれたため命を落とされた、と言っても過言ではございませぬ。ついては当家においても、早めに世継ぎを定めておくことが肝要かと存じます」
「うむ。そこで拾を俺と千代の子に迎えようと思うがいかがか?」
間髪をいれずに一豊が場に投げかける。
千代は無言のまま小さくうなずいた。
だが、康豊は首を横に振った。
「拾殿は『捨て子』と世間に広く知られております。もし山内家の世継ぎと決まった後、産みの母や実の父を名乗る者たちが現れたら、それこそお家騒動になりかねませぬ」
「そうか。ならばいかがするのがよいか?」
「はい、畏れながら申し上げれば、我が子、国松を兄上の子とし、世継ぎとしていただくのがよろしいかと思われます」
「なるほど。それは妙案だ」
まるで餅をつくように、さらさらと話を進めていく一豊と康豊に、千代は気持ち悪い違和感を感じていた。
すなわち兄弟はすでに何度も話し合いを重ねてこの結論を導いていたに違いない、ということだ。
彼女に口を挟む隙をまったく作ろうとしない。
千代は目をつむって、激しくなった鼓動を抑えようと必死になった。
――もはや決まったことなのだ。
そしてようやく気づいた。
自分と一豊は、『道』を外れてしまったことを。
否。
それは最初から分かっていたことだ。
踏み入れてはならぬ道なき道を選んだのは、何を隠そう自分であることも。
そしてその道の先にある未来が、明るいものなのか暗いものなのか、まったく見当もつかなかったことも。
しかし彼女は日々の幸せでその事実を覆い隠してきた。
その幕が今、夫によってはがされただけのこと。
それは分かっている。
分かっているが、体は震え、涙は止まらなかった。
だが……。
いつの時代も母が考えている以上に、子は強い――。
「父上……いや、『殿』。わたくしは寺に入りたく存じます。寺に入って学問と心の修行をつみ、いつかは万民のためにこの身を役立てとうございます。それが命を拾っていただいた殿と『奥方様』への報恩だと思っております。どうかわたくしの願いを聞き入れてくだされ。この通りでございます」
千代の目がかっと見開かれた。
――わらわを『母』ではなく『奥方』と申すか!
爆発しそうな感情を視線にのせて、隣に座っている拾に向けた。
だが千代の突き刺すような視線など物ともせずに、拾は微動だにせずに頭を下げている。
――やめよ! 今すぐに撤回し、「我が子にしてくれ」と懇願しなさい!
千代は心の声で叫んだ。
彼女の鬼のごとき形相は、場の空気を凍りつかせていく。
誰も何も言葉を発さず、ただ国松の無垢な寝息だけがこだましていた。
――ギリッ。
千代の歯ぎしりの音が静寂を破った。
一豊と康豊が身構える。
もしも千代が反論しようものなら、なんとしても二人で説き伏せねばならない、そう兄弟で結託しているのは火を見るより明らかだ。
しかし彼女は呼吸を荒くしただけで何も言おうとはしなかった。
言えるはずもない。
息子を奪わないで!
など、言えるはずもないのだ。
夜は更け、空に輝く月のあかりだけが優しい。
千代にとってはそれさえも憎い。
自分のとった選択を後悔し、一豊と歩んだ『めおとの道』を恨んだ。
できることなら拾を抱きかかえて、どこかへ消えてしまいたかった。
……と、次の瞬間だった。
――ススッ。
静かに居住まいを正した拾は千代に向き合った。
そして、鈴の音のように響く声で告げたのだった。
「奥方様。これまで育ててくださった御恩は一生忘れません。奥方様の言いつけどおりに、よく書を読み、よく師の言葉に耳を傾け、いつか立派な僧となることをお約束いたします。だから御心配なさらず、心安らかにお過ごしいただきますよう、どうかお願い申し上げます」
「拾!!」
千代の声が部屋に響く。
だが拾は微笑を浮かべたまま、小さく首を横に振った。
――何も言ってはなりませぬ。
と、彼女をたしなめるように……。
千代の全身が震える。口を開こうものなら絶叫と呪詛の言葉が吐き出されそうだ。
だが彼女はいつまでも『母』でありたかった。
だから爆発しそうになる感情を必死に押しとどめた。
そして、母として子にかけるべき言葉とは何か。
それを必死に探したのだ。
そうしてゆっくりと口を開けると、さざ波のような声をあげたのだった。
「体だけには気をつけるのよ」
これが道を踏み外してしまった女としてのけじめだ。意地だ。
千代は血の涙を流しながら、必死に笑みを浮かべた。
それを見た拾は、にこりと微笑んだ後、千代に対して深々と頭を下げた。
「ありがたきお言葉でございます」
そうして彼は一人で立ちあがり、部屋を去っていったのだった――。
その翌日のことだ。
すでに彼の受け入れ先は、京の『妙心寺』と定められており、すぐにでも出立できる支度ができていると千代がしらされたのは……。
そして拾はその日のうちに、千代と一豊のもとを去った。
その手には千代から送られた『古今和歌集』と、父から送られた『
夾算とは竹でつくられた、後世でいう「しおり」のことだ。
彼はそれらを入れた包みを大事そうに抱えながら東海道を西へと進んでいった。
それから数年後。
彼は京でもその名を轟かせるほどに立派な僧となる。
そうしてあらたな名が与えられることとなったのだ。
『湘南宗化』と――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます