花咲くめおと道④ この道は踏み外さぬと誓った冬の寒空
◇◇
天正一三年(一五八五年)、春うららかなある日――
山内家に笑顔の花が咲いた。
これまで苦労に苦労を重ねてきた一豊と千代。
ついにその苦労が報われ、一豊が一城のあるじとなったのである。
一豊が四〇歳、千代は二八歳となっていた。
主君である羽柴秀吉に与えられたのは、かつて秀吉も居城としていた名城、長浜城。
雄大な琵琶湖の中を浮くようにそびえ立つその城を見つめながら、一豊は感慨深げにつぶやいた。
「ようやく俺も城持ちか……」
そんな夫に千代は微笑みながら返した。
「まだまだこれからですよ。おまえさま。奉公の道に終わりはございませぬ」
一豊は手厳しい妻の言葉に目を丸くする。
しかしそれもつかの間、大手門から手招きをする少女に向かって大きな声をあげた。
「
すると少女はぴょんぴょんと跳ねながら言葉を返した。
「ちちうえ! ははうえ! 早く、早くぅ!」
赤色の小袖がよく似合う可愛らしいこの少女は、与祢という。
一豊と千代のあいだに生まれた一人娘で、歳は六歳。
彼らには他に子はおらず、とてもかわいがって育てていた。
与祢もまた両親の愛情を一身に受けて、すくすくと活発な女の子に成長していたのだ。
「千代! さあ、いこうか!」
一豊はよく日焼けした精悍な顔を千代に向けると、白い歯を見せながら千代に右手を差し出した。
話をそらされたかっこうとなった千代。
だが、小さなため息をついただけで、穏やかな表情を浮かべながら夫の手をとった。
――ガシッ!
ゴツゴツとした一豊の手は、喜びと興奮でうっすら汗ばんでいる。
千代はそんな夫の手をしっかりと握り返した。
そして娘のもとに駆け寄ったところで、今度は彼女を中心として三人で手をつないだ。
「ちちうえ! わらわに釣りを教えてくださいな!」
「これっ、与祢! 母と一緒に字のお稽古をすると約束したではありませんか」
「ははは! よいよい! 釣りもお稽古も、全部やったらよかろう!」
再び小さなため息をついた千代だったが、小言をもらすつもりはなかった。
幸せな気分にひたりながら、夫と娘から目をそらして琵琶湖を見る。
春の陽射しをうつした水面がキラキラと輝いていて眩しく、思わず目を細めた。
そして腹の内から湧きあがってくる想いをつぶやいたのだった。
「この道に間違いはございません」
「ん? なにか申したか?」
「ふふ、なんでもございません。それっ! かけっこです!」
「ああ! ははうえ! 待ってくだされ!」
「おいっ! 千代! 抜け駆けはずるいぞ!」
夫婦の目の前に広がる道は明るく幸せに満ちていた。
きっとこの後もその道は延々と続いていくに違いない。
この時の千代はそう信じてやまなかったのだ。
しかし彼らの進む道は、これよりわずか半年後には『行き止まり』を迎えることになろうとは……。
………
……
天正一三年(一五八六年)一一月二九日。
雪がちらついてもおかしくない寒い夜のことだった。
――ズガアァァァァン!!
天が割れんばかりの轟音とともに大地が揺れた。
未曾有の巨大地震が長浜を襲ったのだ。
町は湖に沈み、建物は崩壊した。
「与祢……。与祢……」
命からがら本丸御殿から脱出した千代であったが、いくら名を呼んでもかわいいわが子の姿が見当たらない。
ふらふらしながら抜け出した屋敷の方へ戻っていく。
そこに駆けつけた侍女が彼女の体を押しとどめた。
「千代様! 戻ってはいけませぬ!!」
「いやだ……。与祢を。与祢を!!」
「なりませぬ!! そこの方! 奥方様を安全な場所へ!!」
「いやあああああ!!」
二人の武人たちに羽交い絞めにされた千代は髪を乱しながら暴れる。泣き叫ぶ。
わが子が崩れゆく建物の中にいるのは分かっている。
しかし徐々に引き離されていく。
「はなせ!! はなせ!! はなせええええええ!!」
これまでの彼女からは考えられないほどに、おどろおどろしい声が長浜の夜空を震わせた。
そしてここまでだった……。
千代の記憶が残っていたのは……。
突如として現れた『行き止まり』に、彼女は絶望の彼方へと意識を飛ばしてしまったのであった――。
◇◇
そこで一度、話を止めた見性院。
辛いことを思い出したせいか、白い顔はさらに白くなり、頬には一筋の涙が伝っている。
俺と千姫、あざみの三人は出すべき言葉を忘れ、ただ小刻みに震えるより他なかった。
ただ一人、高台院だけは口を真一文字に引き締めたまま、強い瞳で見性院を見つめていた。
そうしてしばらく沈黙が続く中、見性院が再び口を開いた。
「目を覚ましたわらわの視界に入ったのは、夫一豊でございました。彼は町を駆け巡って人々を落ち着かせる一方で、三日三晩も寝ずにわらわを看病してくださったのです。それはもう、ありがたくてもったいのうございました。しかし、この時のわらわの気持ちは与祢のことだけでいっぱいでございました。そうして、与祢がかえらぬ人と知った時の絶望たるや……。今でも言葉にできませぬ」
………
……
与祢の供養が終わり、時は無情にも流れていった。
時は哀しみを癒し、生きる活力を与えるものだ。
沈んだ長浜の町も同じで、人々の不屈の営みによって徐々に活気を取り戻していった。
しかし、千代と一豊の『めおとの道』は依然として行き止まりのままだった。
心の空洞はなにをしても埋まらず、気付けばはらはらと涙をこぼす千代。
そんな彼女を一豊が折を見ては外へと連れ出したが、心ここにあらずといった様子だったのである。
――このままではならぬ。
そう感じていたのは一豊も千代も同じだった。
なぜなら時代は激動し、主君である羽柴秀吉がその主役に躍り出ていたからだ。
横を見れば一豊と同じ立場の武将たちが激しい競争を繰り広げている。
このままでは一豊は取り残されてしまう。
今や山内家は二万石を有した大名だ。
もし競争に敗れるようなことがあれば、多くの家臣や奉公人たちを路頭に迷わせてしまう。
それだけは千代と一豊の矜持にかけて許されるものではない。
だが心にしこりを残した状態で時代の激流に身を投じるのは危うすぎる、夫婦はそう感じていた。
――哀しみを越える道を探すよりない。
もはやなりふり構っている場合ではなかった。
たとえ踏み出してはならぬ『道』であったとしても……。
それは与祢の墓に手を合わせた帰りのこと。
門のかたわらに目をやった千代の瞳が大きく見開かれた。
「あれは……?」
なんとそこに置かれていたのは、まだ生まれて間もない赤子だったのである。
おぎゃあと泣きじゃくる子を千代はそっと抱きあげた。
「かわいそうに。捨て子であろう」
一豊が眉をひそめる一方で、千代の瞳の奥から失われたはずの光がこうこうと灯りだした。
長年連れ添った夫婦だ。
夫の一豊がそれに気付かぬはずもない。
そして妻が抱き始めた感情の芽をつまねばならぬと、とっさにさとった。
「幸いなことにここは寺の敷地だ。この寺にその子を預けよう」
「一豊殿。あれを御覧くだされ」
赤子が置かれていた場所には一本の脇差。
武家の子であろうか……。
もしそうだとしたら勝手に寺に預けるわけにもいかない。
なぜならその武家のお家に関わることだからだ。
「千代……。お主もしやその子を連れて帰る気ではあるまいな?」
そう問うたが、一豊はもはや妻を止められぬと感じていた。
すなわち「覚悟を決めたのか」と問いかけているも同然だったのだ。
「この寒空の下では他の誰かが見つける前に凍えて死んでしまうでしょう。小さな命であっても、民を救うのが武士のお役目でございます」
理路整然と理屈を並べ、はっきりと「はい」を言わぬところが千代らしい。
そして頬をかすかに染め、白い息を吐きながら熱く語る妻の姿に、一豊の心も固まっていった。
「後悔はせぬな?」
「むしろここに放り出せば、後悔で夜も眠れませぬ」
「うむ……。では『拾』だ」
ずんと響く一豊の低い声に、千代の顔が引き締まった。
「拾……」
「ああ、われらは拾ったのだ。新たな幸運の種を。だからこの子を拾と名付けよう」
もう後戻りは許されぬ。
親の顔も分からぬ子を我が子として育てることがどれほどに重い決断であるか、さらに言えば赤子にどんな未来が待っているのか、いかに『良妻』と称えられた千代であっても知る由もなかった。
しかしそれでも彼女と一豊は踏み出さねばならなかったのだ。
新たな『めおとの道』を……。
気付けば拾と名付けられた赤子は千代の腕の中ですやすやと寝息を立てている。
千代はその無垢な寝顔を見て誓った。
「この道は絶対に踏み外さぬ。この命をかけてでも」
と――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます