第一部・第一章 進め! 夫婦の道!

花咲くめおと道① 千姫のほっぺは今日もふくらんでいる

◇◇


 元和元年(一六一五年)四月某日 大坂城某所――

 

「これより、評定を始めます。皆のもの、よいですね」


「はい、淀様」


大蔵卿おおくらきょう。まずは重成しげなり治徳はるとく氏久うじひさ、レジーナの四人に気をつけねばならぬことをお話しなさい」


「かしこまりました。四人とも。ここでの会話は一切外に漏らしてはなりませぬよ」


「はい」


「ふふ。それでよい。次に宗應そうおう殿。進行を頼みますよ」


「かしこまりました。では申し上げます。ここで話し合うのは『豊臣家のお世継ぎ問題』についてでございます。すなわち秀頼様と千姫様のお二人の『距離』について皆に力を貸していただきたいのです」


「はい!」


「ではまずはじめに、加賀国の珠姫たまひめ殿と京の高台院こうだいいん様にご協力をあおいだ件ですが……」



◇◇


 西暦で言えば一六一五年。和暦では元和げんわ元年。

 俺、豊臣秀頼は二十二歳となった。

 史実ではこの年に起こった『大坂の陣』によって、短い生涯を閉じることになるのだが、もはやその心配はない。

 なぜなら『大坂の陣』はすでに終結し、豊臣家は一二〇万石の大坂藩として存続しているからだ。

 しかも『譜代大名』のあつかいで、大御所徳川家康からも、将軍秀忠からも絶大な信頼を寄せられており取り潰しになる恐れもない。


 ついに俺の夢であった『戦国時代でスローライフを送る!』が実現するものとばかり思っていた。


 ……が、現実はそう甘くはなかったんだ……。


◇◇


 今は梅雨が明けたばかりの旧暦六月。

 うだるような蒸し暑さは大坂城の中も変わらない。

 そんな中、俺は冷たい汗で背中を濡らしながら、とある部屋の前までやってきた。

 

「よろしいですか?」


 かたわらで腰を低くしているのは真田幸村さなだゆきむらだ。

 『日本一ひのもといちのつわもの』とあだ名された名将は、俺の側近でもあり親友でもあるのだ。

 いつもなら笑顔で返すところだが、虫のいどころが悪かった俺の口からは毒々しい言葉が出てきた。

 

「よくない、と言ったら、代わってくれるのか?」

「いえ、それは……」


 幸村は渋い顔をして首を横に振っている。

 彼が俺の身代わりになれないことはじゅうぶんに理解している。

 なぜなら俺はこれから『三者会談』という三人だけで行う会談に臨むからだ。そしてその内容がどんなものになるのか……ここに着く前から容易に想像がついている。

 幸村が本気で申し訳なさそうにしている様子を見た俺は、小さなため息をついた。


「意地悪な質問をして、すまなかった」

「いえ、それがしも代わりたいのは山々なのですが……」

「はぁ……。もうよい」

「御武運を」


 俺はついに観念して、くいっとあごを引いた。

 言うまでもなく「襖をあけよ」という合図だ。

 幸村の襖にかける手がぐっと強まる。

 俺もきゅっと表情を引き締めた。

 

 さあ、いよいよ始まるんだ。

 あの徳川家康とも対等に渡り合ったんだ。

 俺に怖いものなどない!

 なんでもかかってこい!

 

――スッ!


 静かに開けられる襖。

 その直後……。

 甲高い声が、俺の耳をつんざいた。

 

 

「秀頼さまなんて、だいっきらいじゃ!!」



 その声の持ち主は、今日の会談の主役であり、俺の正室『千姫せんひめ』だ。

 今年で十八になるが、あどけなさの残る顔は子犬のようで可愛らしい。

 そんな彼女は今日も小さなほっぺをぷくりと膨らませていたのだった――。

 


◇◇


 部屋に入るなり彼女から罵声を浴びせられた理由を紐解くために、時間を一ヶ月前の長雨の季節に戻す。

 この日、千姫が旅行へ出かけることになった。


 行き先は加賀国。


 そう、あの『加賀百万石』の加賀だ。

 藩主は前田利光まえだとしみつで、彼の正妻は千姫の妹の珠姫たまひめ

 

「妹に会えるのが楽しみじゃ!」


 大阪城を出る前の彼女は、そりゃあ上機嫌だったさ。

 まるで羽が生えて飛んでいってしまいそうなくらいに。

 

「秀頼さま! いってまいります!」

「うむ。気をつけていってくるんだぞ」


 そう言って送り出したわけだが、俺は俺ですぐに江戸へ向かった。

 義理の父である将軍、徳川秀忠の仕事を手伝うためだ。


………

……


 太閤、豊臣秀吉が亡くなった後、天下は徳川家に移った。

 しかし天下は手に入れれば終わりではない。

 政権を安定させて天下泰平の世を保たねばならないのだ。

 そのためには様々な政策や法律を整備させる必要があるのは、政治にあまり詳しくない俺でも想像はつく。

 しかしその量まで正しく推し測ることがどうしてできようか……。

 この頃の義父ちち、徳川秀忠は首も回らないほどに忙しい毎日を送っていた。

 

 大名たちの統制。

 江戸の城と町の整備。

 風紀の乱れた宮中の立て直し。

 幕府の財政と天下の経済の安定化。

 外国との交易およびキリスト教への対処……。



 年始の挨拶に秀忠をたずねた際に、天井まで届くのではないかと思われるほどの書類の山を目の当たりにしたとたんに、めまいがしたのを今でも覚えている。


――近頃は大御所も政務から離れられてしまってな……。われを手伝ってくれる者はおらぬのだ……。


 義父からしょぼんと肩を落としながら言われれば、

 

――いつでもこの秀頼を頼ってくだされ。父上の頼みとあれば大坂からも飛んでまいりましょう。


 と、返すのは婿として自然なことだと思う。

 むろん形式的な言葉だから、


――その言葉だけでじゅうぶんである。お主は大坂藩の藩主として立派につとめてくれればよいのだ!


 そう声をかけてくれるものだと思っていた。

 ……が、俺はすっかり忘れていたのだ。


 わが義父、徳川秀忠は『空気の読めない人』であることを……。

 

――おお! そうか! ははは! 頼りになるのう!! ではさっそく頼む!


 目を潤ませながらこう言われてしまえば「今のは冗談でした」なんて返せるはずもなく……。


――ま、ま、まかせてくだされ! われが立派に父のお役にたってみせましょう!


 せめて徳川家の家老たちの前で、見栄を張ることくらいしかできなかった。

 こうして俺は江戸幕府の仕事を手伝うことになったわけだ。

 当然、大坂に戻る足は鈍くなっていた。

 もっと噛み砕いて言えば、千姫と過ごす時間は『ゼロ』に等しかった。

 言わずもがな『子作り』などする暇も体力もなかったわけで……。

 

 ……と、ここまで話せば、この後の展開は想像にかたくないと思う。

 

『秀頼ちゃん、即刻、大坂に戻ってきなさい』


 字面を見ただけで凍りつきそうな母、淀殿よどどのからの手紙が届けられたのは、千姫が加賀へ発ってからわずか五日後。

 俺がまだ名古屋城に滞在していた時のことだ。

 何事かと手紙の続きを開いた瞬間に、恐怖に震えてしまった。

 

松平筑前まつだいらちくぜん殿(前田利光のこと)とお珠殿との間にはすでに二人の子がいるようですね。このことについて、お千がおまえに話したいことがあるようです。かわいそうに。目を真っ赤に腫らしたお千を見ているだけで、わらわの身も焼かれるようです。かくなるうえは、母とお千と秀頼ちゃんの三者で会談を開くことにします。もし帰りが一日でも遅れれば、『お仕置き部屋』で待っておりますゆえ。ゆめゆめお忘れなきよう』


 俺がこの手紙を読み終えた次の瞬間には東海道を西に急いでいったのは言うまでもないだろう。

 

◇◇


 そして今……。

 燃え盛る炎のように真っ赤な顔をした千姫と、氷点下を遥かに下回る冷酷な目をした淀殿の前に俺は座っている。

 

「では、お千や。加賀で起こった『事件』について、秀頼ちゃんに聞かせてあげなさい」


「はい! 母上!」


 こうしてすくりと立ち上がった千姫は、身振り手振りを交えて、加賀での『事件』を再現し始めたのだった。


………

……

 

 加賀の城についた千姫が通された部屋でひと休みしていたところにやってきたのは、珠姫と彼女の子、亀鶴かめつるだった。


「ようこそいらっしゃいましたぁ」

「まあ、よく言えました! ふふ、お亀鶴殿はとってもお利口さんね」

「ははうえー! 千さまがほめてくださいましたぁ!」

「あら! それはよかったわね! お姉さま、ありがとうございます」

「きゃははは!」


 まだ二歳になったばかりの亀鶴は部屋を走りまわって喜びをあらわにしている。


「これ、亀鶴。ちょっとはおとなしくなさいな」

「はぁい!」


 母の言うことを守って、千姫の隣にちょこんと座る亀鶴。

 千姫は姪が可愛くて仕方なくて、彼女の頭を優しくなでた。


「ふふ、お姉さまはきっと良い母になるでしょうね」

「え、なぜそう思うのじゃ?」

「だって初めて会った亀鶴がこんなにも慕っているのですから。とても珍しいことなのよ」

「そうだったのか……」

「ふふ、それに秀頼殿とのお子なら絶対に可愛い子が生まれてくるに違いありません!」

「秀頼さまとの子ども!?」

「ふふ、お姉さまったら、顔が真っ赤ですよ」


 ……と今度は赤子を抱えた侍女らしき女性が部屋までやってきた。


「おぎゃあああ!」

「まあ、犬千代や。どうしたの?」

「どうやら奥方様に抱っこして欲しいご様子でして……」

「あらあら、ではこっちへいらっしゃい。そぉれ。泣かないでもよい」


 珠姫が愛おしそうに赤子をあやす。

 その様子を見つめているうちに、むくむくと浮かんできたのは一抹の不安だった。


――妹にはもう二人も子がいるのに、なぜ千には一人もおらぬのか……。


 そんな中、『空気の読めない人』秀忠の血を正しく受け継いだ珠姫が、屈託のない笑顔で強烈な一言を言い放ったのだった。

 

「早くお姉さまのお子が見とうございます!」

「え、あ、うん……」


 肩を落とした千姫に、珠姫は首をかしげた。


「秀頼殿はなぜお姉さまとのお子を作ろうとしないのかのう。もしかして他のおなごにうつつを抜かしているとか?」

「えっ!?」

「気をつけなさいませ、お姉さま。男はすぐに他のおなごを求めますから。一度心が離れたら最後。顔を合わすことすら少なくなります」

「めったに顔を合わせなくなる……ということか?」

「……もしかしてお姉さま。秀頼殿とあまり顔を合わせておられないとか?」

「え、あ、いや……」

「お姉さま! のんびりしている暇などございませぬ! 今すぐに秀頼殿に問いただすのです! なぜお子を作ろうとしないのか。もしすぐに答えられぬようなら、絶対に他のおなごにうつつを抜かしているに違いありませぬ!」


 こうさとされて、その日のうちに加賀を発って大坂に戻ってきたそうだ。

 その道中で不安がどんどん大きくなり、城に着く頃には爆発してしまった。

 そして淀殿に泣きながら訴えた、というわけである。

 

「なるほど……」


「秀頼ちゃん。『なるほど……』ではありません。秀頼ちゃんはお千との『夫婦めおとの道』についてどう思うのですか?」


「夫婦の道をどう、と言われましても……」


「いつまでたっても子ども同士では困ります。世継ぎのことも二人でしっかりと決めていかねばなりません。それが『夫婦の道』というものです。いいですね?」


 正直なことを言えば、『世継ぎ』をもう少し後になってから考えたいというのが本音だ。

 将軍の信頼を勝ち得て、領土の安泰を約束してもらったものの、まだ天下の情勢がどう転がるとも限らない。

 ここで将軍の子である千姫とのあいだに男子が生まれた場合、『豊臣家の安泰』を世にしらしめることになる。

 

 それが各大名たちにどのような心境の変化をもたらすのか……。

 

 特にこれから避けて通れない道は、『大御所、徳川家康の死』だ。

 俺が知る未来では来年、つまり元和二年がそれにあたる。

 政治の場に姿を現さなくなったとはいえ、家康の存在は絶大なものだ。

 彼がどこかで目を光らせているという『見えない威圧』が大名たちを抑えつけているのは否めない。

 そんな彼の死の直後に『豊臣家の安泰』が約束されていたなら、再び『天下を豊臣家へ戻そう』という機運が高まる可能性は大いにある。それだけは絶対に許してはならないと俺は考えているのだ。

 なぜなら豊臣家の天下とりよりも大事なのは、天下万民が『笑顔』で過ごす世を作ることなのだから……。

 

 そしてもし史実の通りなら、徳川家光が秀忠から『将軍を継ぐ』のはこれから八年後。

 俺が三十一歳で、千姫は二十六歳だ。

 そのタイミングで『子作り』に励んでも、遅くないように思えるのは、俺がこの時代で生まれた人間ではないからだろうか。

 

 だがなにはともあれ、まだ子どもを作らないのも豊臣家と千姫のためなんだ。

 意を決っした俺はきゅっと表情を引き締めた。

 

「お千。すまなかった。辛い思いをさせてしまって。われはお千を愛しておる。だから安心してくれ」

 

 俺の真剣な視線を真っ直ぐに受け止めた千姫は、小さく口を開けて頬を桃色に変えた。

 

「秀頼さま……」


 彼女は大きな瞳を潤ませながら小さくつぶやく。

 近頃の彼女は可愛らしさに加えて、大人の女性としての魅力も兼ね始めている。

 ぎゅうっと抱きしめたくなる衝動にかられたが、どうにか抑えた。

 そして彼女の両肩をつかんだ俺は、ぐっと腹に力を込めて言ったのだった。

 

「けど、子作りはもう少し我慢してくれ!」


 ちなみに俺は『未来』について何も口にできないという『制約』を抱えている。

 だからついさきほどまで回想していたことは、何も言えないのである。

 だが、そんな事情を知るはずもない千姫は、まるで沸騰したやかんのように顔を真っ赤にした。


「言いたいことはそれだけですか?」

「へ? ああ、うん」

「つまり甘い言葉をかけて、ごまかすおつもりですか?」

「ややっ! お千、ちょっと待て! それは違う! 勘違いだ!」


 しかしもう遅かった。彼女は右の拳にありったけの力をこめながら、すさまじい音量の声で叫んだのだった。

 

「秀頼さまなんて、だいっきらいじゃあぁぁ!!」


 同時に振り上げられた鉄拳が俺の左の頬に吸い込まれていく。


――ドゴオオオオオン!!


 歳を重ねるにつれて破壊力を増した必殺の一撃は、いとも簡単に俺の意識を飛ばしたのだった――。

 





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