セイリング・デイ
闇世ケルネ
第1話
嵐の夜だった。
窓越しに見える海は暗く、時折起こる稲妻が荒れる水面を照らし出す。激しい雨は
「……大丈夫かなぁ」
「不安か?」
窓際、少年を膝に乗せた老人が問う。禿げた頭と、豊かに蓄えられた白い
「だって、あんな嵐来たら町吹っ飛ばない? 船とかも流されちゃったりしてさ……」
「大丈夫だ。こんなことは昔にも何度かあった。嵐で飛ぶほど、俺達の町はヤワじゃねえ」
「ほんとかなぁ……」
少年は再び窓に向き直る。老人も竜巻を見つつ、パイプを吹かす。
「ま、俺も初めて見た時ゃそう思ったがな。最初の時は信じられなかったぜ。昼間はカラッと晴れてやがったのに、ちょっと強い風吹いたら船乗り共が騒ぎ出してよ」
「うん……お昼、すごい良い天気だったのに。ジョン
「俺が経験したのは三回。大体十五年から三十年ぐらいの間で来やがるな。前から……大体二十年ぐらい経つのか。お前が生まれる、遥か昔の事だ」
「ふうん……」
少年が曖昧に相槌を打ち、背後を振り返った。小さな木造のログハウスに、簡素な食器棚と酒瓶を並べた棚。部屋の中央に置かれた食卓を挟んで少年の向かい、玄関口には靴が四足。
「父さん、遅いな」
「心配か」
頷く少年。ジョン老人は
「大丈夫だ。アイツを誰だと思ってやがる。お前の親父で、俺の息子だ。なに、夜の作業は苦労するからな。大方、手間取ってる間抜けの手伝いでもしてんだろ。船失くすわけにはいかねえからよ」
少年が不安げな目で老人を見る。
「でもさ、すごい風だよ? 父さん、ふっ飛ばされたりしない?」
「しねえよ。人間は葉っぱなんかとは違うんだ。どこにも行きや……」
不意にジョン老人が押し黙る。少年はきょとんとして首を傾げた。
「ジョン爺? どうしたの?」
「…………いや」
ジョン老人は首を振り、白髭を撫でつける。口ごもる彼に少年が不安を募らせた直後、家のドアが開かれた。吹き込む暴風と雨。そして全身濡れ鼠と化した中年の男。男がドアを閉じて嵐を遮り、一息つきながら家に上がった。
「戻ったぜー」
「父さん!」
老人の膝を降りた少年が、男の下へ走り寄る。勢いよく飛びつかれた男は、少年を抱いて回りながら笑った。
「おいおいどうした。はは、くっついたら濡れるぞ」
「だって……ジョン爺が……」
「ん?」
回るのを止めた男が、ジョン老人の方を見やった。しがみついて離れない少年の頭をわしわし撫でつつ、苦笑気味に問いかける。
「なんだよ親父。何吹き込んだんだ?」
「勘違いすんじゃねえ。お前が風にふっ飛ばされる訳はねえって言っただけだ」
「本当かぁー? あ、すまん」
男が少年の頭をぽんぽん叩く。
「拭くもの取って来てくれ。風邪引いちまう。あと、お前も濡れたろうから着替えて来い」
男を見上げた少年は頷き、部屋横の階段を駆け上がっていく。それを見送った男は、老人におどけて肩を竦めた。
「実は、俺が帰ってこなくて、嵐ン中海に出たとか思ってたんじゃねえだろうなー?」
ジョン老人は答えない。ただ紫煙を吹かし、窓の外に視線を向ける。男は苦笑気味に頭を掻いた。
「……なんだよ。おいおい、まさかマジで思ってたのか?」
「ンなわけあるか、お前に限って。ただな……」
パイプを胸いっぱいに吸い込んだジョン老人は、溜め息めいて煙を吐き出す。
「一人、知ってるからよ。こんな嵐ン中飛び出してって、帰って来なかった奴」
「はぁ?」
男が脱いだ一張羅を絞りながら怪訝そうな顔をした。
「嘘言うなよ、親父。こんな海に出たら誰だって死ぬ。ガキでもわかるぜ」
「そうだろうよ。ウチのチビでさえわかってら。だが、そうじゃねえ奴も居た。百年に一度の、大馬鹿野郎がな……」
「父さん!」
「おっ!」
その時、階段を下りてきた少年が男に駆け寄り、布を差し出す。男は布を受け取ると、少年の頭を荒っぽく撫でた。
「ありがとなぁ。酷ぇ雨でびしょ濡れだったんだ。……さ、もう寝る時間だぜ。明日ンなったら、嵐もどっか行ってるからよ」
「はーい」
男に背中を叩かれ、少年は階段を登り去っていく。濡れ髪を
「なぁ親父。一杯やらねえか」
「ハッ、見え透いてるぜ。聞きたいんだろ? 嵐の日に船を出す、イカレ野郎の話をよ」
「おっと、バレバレだったか。…………ダメか?」
「フッ。酒持って来い。強いヤツをな」
「はいよ」
吹き布を肩にかけ、男は食器棚の下段を開いて酒瓶を出す。上の段からグラスを二個取って食卓に戻ると、ジョン老人は既に席についていた。男が老人の対面に座り、置いたグラスに酒瓶を傾ける。透明な杯を満たすクリアブラウンの液体を眺めたジョン老人は、乾杯と共に語り始めた。
「そうだな。俺がー……チビよりデカくて、お前よりも若かった頃の話なんだが」
●
四十年前、港町。
中天に輝く太陽が、活気溢れる港を照らす。桟橋を行き来する屈強な体つきの男達。手に手に大量の魚を入れた網をぶら下げ、港の端で露店を構える商人達に持っていく。騒々しい
筋骨隆々の男達が昼から笑って酒を飲み、ひっきりなしにジョッキの打ち合いが起こる。酒場を横切るジョン少年を、酒を飲んでいた髭面の男が呼び止めた。
「おーい坊主ー! 儲けは順調かァ!」
ジョン少年はそちらを向いて片手を上げる。
「まあまあだよ、オッサン! おかみさんはいるかい」
「おう居るぜ」
髭面は身を反らし、背後の台所に大音声を響かせた。
「おおい! ジョン坊が来たぜぇ! 大漁だ大漁!」
「はいはい、今行くよー!」
直後、厨房奥から恰幅の良い初老の女が忙しそうに現れる。やや不機嫌そうな表情が、ジョンを見るなり明るくなった。
「あら坊や! いらっしゃい!」
「こんちは、マギラスさん。これ、今日の取り分です」
ジョン少年が差し出す網を受け取り、マギラスは中の魚を検分。そして力強く頷いた。
「うん、ありがとねえ。座って待ってな。すぐ測って金にするから。ちょっとあんた!」
マギラスが髭面の頭を叩く。
「痛ぇ!」
「ジョン坊に酒ついでやんな! どうせ飲んだくれてるだけなんだから!」
「酒つげってお前……」
髭面が文句を言う前に、マギラスは厨房の奥に消えていく。ジョン少年は、不満顔で叩かれた頭を擦る髭面の隣に座った。その表情は冷やかすような笑み。
「相変わらず尻に敷かれてんのな」
「うるっせえ。……ま、お前も嫁は選ぶこったな」
嘆息した髭面が、ジョンが手にしたジョッキに酒瓶を傾ける。なみなみと注がれた酒を、ジョン少年は一息に
「ぷはぁーっ!」
「ハハハハハハ! 良い飲みっぷりじゃあねえか!」
「ああ! やっぱ仕事終わりはこうじゃなくちゃな!」
「わかるようになってきたじゃねえか!」
豪快に笑いながら、髭面はジョン少年の背中を強打する。むせ返る少年に、髭面は自分の酒を飲みながら問うた。
「もう一年ぐらい経つか。仕事にもだいぶ慣れたか?」
「ゲホッ、ゲホッ! ……まあな。一人でやると、案外キツいもんだ」
「ッたりめぇよぉ。それ乗り越えて、みんな一人前の海の男になるんだからよ。何年も何十年もかけて……なぁ?」
髭面が近くのテーブルに目をやると、そちらで食事していた男達がジョッキを掲げて返事する。
「おうよー! オレらもお前の親父さんも、そうやって生きて来たんだからよぉ!」
「気張れよジョン坊! こっからが長ぇんだから! 嫁さんもらって、ガキ作って、船引き渡すまで育てんのが俺達の役目だ!」
「何立派なこと言ってんだいチンピラ共ォ!」
厨房から戻って来たマギラスが小さな革袋を手に叫ぶ。
「デカくなったのは態度と図体だけじゃないのさ! 取る魚もデカくしてみな!」
「無理に決まってンだろぉ、おかみさん! オレ達が魚育ててんじゃーねえんだからよ!」
「そうだそうだァ! 取ってやってんだから感謝しろォ!」
「うっさい! ったく、男共はこれだから……ジョン坊、あんな風になったら駄目だよ?」
マギラスは肩を竦め、ジョンに革袋を投げ渡す。キャッチしたジョンは袋の口を緩めて中を覗いた。多数の銅貨といくらかの銀貨。中身を軽く漁って適当に硬貨を数え、ジョンは銅貨を六枚取り出した。手の平に並べて数を確かめ、マギラスに渡す。
「香草焼きと黒エール」
「はいよ。アンタが獲って来たので作ってやろうじゃないのさ」
ニッと笑い、マギラスは再び厨房奥に消えていく。ジョンが酒瓶を差し出す髭面にジョッキを渡すと、半分ほど残っていた酒がすぐに満タンになった。
「そういえば、ウィルは? まだ来てないのか?」
「アイツか……そういえばまだだな」
髭面が呟き、別テーブルの船乗り達が茶々を入れる。
「またぞろ本にかじりついてんじゃねえのぉ? 魚腐んのもお構いなしでよ」
「アイツなら有りえるなぁ。十四過ぎて、船もらったってのに、まーだ本にご執心と来てやがる。しかも同じ本だぜ? 海の果てから来たフロプト」
「あー……」
茶々を入れた船乗りと同じテーブルで、
「オレもガキの頃読んでもらったけどよぉ、そんなハマるかね?」
「所詮おとぎ話さ。あいつ、まだママの寝物語無しじゃ寝られないのかもな」
その時、冷やかし笑いをする船乗りの頭が叩かれた。
「痛ってぇ! なんだッ、この……」
頭を押さえて振り返った船乗りの文句が止まる。彼の後ろに立っていたのは、
「誰がママの寝物語無しじゃ寝られないって?」
ばつの悪そうな愛想笑いを浮かべる船乗りを余所に、青年はジョンの隣の椅子に座った。
「よう、ジョン。昨日ぶりだな」
「遅かったな、ウィル。どうしたのかと思ったぜ」
「ま、ちょっとな……」
言葉を濁し、ウィルは持っていた本を食卓に放る。タイトルは『海の果てからプロフト』。ジョンは表紙を横目に酒を飲んだ。
「言い返してたわりにゃあ持ってんだな、それ」
「別に良いだろ。俺が何を好きになったってさ。マギラスさんは?」
「オレの香草焼き作ってるよ」
「じゃ、待つか。ギャバン、
気安く呼ばれた髭面のギャバンが、不敵に笑った。
「ほう、テメェから
「海の男だからな」
「何が海の男だヒヨコ野郎のママっ子野郎が」
「本が好きなだけだって。ほら、いいから注いでくれよ」
ジョッキを差し出され、ギャバンは呆れ笑いして首を振る。直後、ジョンの前に平皿が滑り込んだ。香草を添えた焼き魚。合わせて黒い酒瓶を置いたマギラスは、ウィルを見る。
「いらっしゃい、ウィル坊。大漁かい」
「まぁまぁですよ。はい」
ウィルから渡された網を受け取り、マギラスは中身を
「確かに。何にする?」
「塩焼きと
「わかった、待ってな。追加の麦酒も出すからさ」
マギラスが背を向けるなり、ウィルがさっとジョンの酒瓶を奪う。そのまま手近なジョッキに注ぐ彼を横目に、ジョンはややムッとしながら魚の香草焼きに齧りついた。返却された酒瓶を余所に、魚を咀嚼しながら顎で本を指し示す。
「ウィル。その本、どんな話だっけ」
「ん? なんだ、覚えてないのか?」
きょとんとしたウィルに、ジョンは皮肉めいた笑みを返した。
「最後に読んだの、チビの頃だし。ていうか、この歳で読んでんのお前ぐらいだよ」
「ま、そりゃそうか」
ウィルは小さく肩を竦める。傍の卓についていた船乗りがニヤニヤ笑いながら茶々を入れた。
「お、ウィル坊ちゃんの読み聞かせかァ?」
「酒の
ウィルが船乗り達に不敵な微笑みを返す。
「なんだよ、いい歳こいてママが恋しくなったのか?」
「ンなわけあるかよ!」
「むしろ、お前がママ恋しいんじゃねえか? 読み聞かせしてもらえなくってよ! ハハハハハハハ!」
「言ってくれるじゃん! お捻りは用意してるんだろうな!?」
船乗り達が投げた干し芋や干し魚を、ウィルは手近な皿を取って受け止めていく。つまみの投擲が終わったのを確かめたウィルは、皿をテーブルに置いて話し始めた。
「昔々、この島に船なんてものが無かった時代。人々が、海という名を知らずに海を見ていた頃のお話です。島に、大きな嵐が吹き荒れました」
空は割れ、雷が落ち、風が大地をひっくり返す。恐るべき災いの前に村の家々が飛ばされ、多くの人が多くのものを失いました。嵐に遭った人々は、ただ祈ることしかできません。雨を浴びて冷え切った手で、隣人達と身を寄せ合って風に耐え、稲妻走る天に必死で願います。
『天よ、天よ、どうか怒りをお鎮め下さい。我らはただ慎ましく過ごしていただけなのです。なのに何故、このような仕打ちをなさるのですか』
しかし嵐は止みません。むしろ勢いを増して、人々に襲いかかります。祈るしか出来ない人の子は、とにかく必死でお願いしました。そうして嵐はいつしか過ぎ去り、夜が明けて朝が来た時、人々は祈りの姿勢のまま突っ伏していました。草はひっくり返った土に潰され、木々は殆ど倒れています、鳥の声すら聞こえません。村人達は悲しみました。彼らは山と共に生きていたからです。
今や、彼らと共に生きた山は崩れてしまってありません。食べ物も家も残っていません。そんな時、海の向こうから小舟がひとつやってきました。小さな船には、黒く大きな布を被った、片目の老人が乗っています。島に降りた老人は、悲しむ村人達に言いました。
『何故、この地には何もなく、あなた方は泣いているのか』
村人の一人が言いました。
『神がお怒りになったからです。大きな嵐がやってきて、全てを吹き飛ばしてしまったのです。祈りは届き、嵐は去ってくれましたが、島はこの有様です。私達はどうすれば良いのでしょう』
老人は返します。
『いくら祈り、拝んでも、嵐は止んでくれません。嵐が来るのは、嵐が来たから。嵐が止むのは、嵐が止むから。人の言葉など聞き入れるはずもありません。あなた方がやるべきは、嵐に負けずに立つことです』
村人は泣きながら言いました。こんなことは初めてで、自分達にはどうしようもないと。そこで老人が申し出ます。
『では私が教えましょう。嵐を耐え忍ぶ家を、嵐から身を守る
男はそう言い、プロフトと名乗って村人達に手を差し伸べます。
それからといもの、プロフトの教えの下で村は次第に元の姿に戻っていきます。草葉の束で出来ていた家は、大木や石を組み合わせたものに。倒れた木を使って船を作り、海へと繰り出していきます。この時、プロフトは海を海と呼ぶのだと人々に伝え、海は嵐ではなく恵みをくれるものだと説きました。
村人達は魚を取るようになり、海の水を塩に変え、僅かに残った植物を育てます。プロフトは物知りでした。どうすれば良い村になるのかがわかっていました。村の取り決めも彼が作って、様々な知識を伝えていきます。村はどんどん豊かになっていきました。
そしてプロフトが来てから四つの年が過ぎたある時、一人の若者が、プロフトにこう問いかけます。
『偉大なるプロフトよ。貴方は何故、こうも沢山のことを知っているのか?』
プロフトは言いました。
『海の果てで学んだからです。この水の世界の遥か向こうには、様々な知識があるのです』
そう言って、プロフトはあらゆる物語を話して聞かせます。空へ星を放つ湖のこと、火が点いた雲のこと、海の底を飛ぶ鳥のこと、空の上のそのまた上を駆ける馬のこと。海の果てにはその全てがあると言います。若者は一話一話に胸を躍らせ、夢中で聞き入っていましたが、はたと気づいて問いました。
『貴方はどうして、そんな素晴らしい世界から抜け出したのか? 我々も、海の果てに行けるのか?』
プロフトは笑って。
『海の遥か彼方に、輝く
次の日の夜、プロフトは姿を消しました。村人達は偉大なプロフトとの別れを深く悲しみましたが、若者は言いました。
彼は星に呼ばれて行ったのだ。きっと星に呼ばれれば、また彼は来るはずだ。そのうち嵐が来るように、彼もそのうちまた来るのだ、と。
その後。ジョンが酔ったウィルに肩を貸して酒場を出ると、空は既に夕焼けだった。ジョンに引きずられるようにして歩くウィルは、青い顔で
「ゴホッ! 飲み過ぎたか……」
「ギャバンの奴と飲み比べなんてするからだ。あいつザルなんだぞ?」
「すっかり忘れてたよ、ちっくしょうめ……」
口元に手を当て、喉をゴクンと鳴らすウィル。彼はそのまま本を取り出し、ふらふら歩きながら読み出した。ジョンは呆れ顔で溜め息を吐く。
「こんな状況でも読むのかよ」
「こんな状況だから、だな。酔った頭で読む本ってのも悪くないぜ」
「お前、ホンットにそれ好きだよな……そんなにいいか?」
「ああ」
海風にページをめくらせ、ウィルが続ける。
「……まあ、本自体っつーより、プロフトの話が好きなんだ」
「プロフトの?」
「そう。海の果てには、オレ達の知らない色んなものがあるってやつ」
ジョンは再度溜め息を吐いた。
「どうせ作り話だろ。真に受けてんのか?」
「どうだかな。オレもお前も、海の果てなんて見たことないだろ。もしかしたら、本当にあるのかもしれないぜ。プロフトの言ってた、色んなものがさ」
ジョンが横目でウィルを見る。本にページを落とした彼の瞳は輝いていた。ジョンは目を逸らして吐き捨てる。
「……くっだらねー」
「ははっ! そう言うなよ」
ウィルはジョンに肩に回していた手を戻し、自分の足で歩き出した。千鳥足をやめて立ち止まり、
「……なぁジョン。オレさ、夢があるんだ」
先行くジョンは足を止め、ウィルの方を振り返る。
「なんだいきなり」
「まぁ聞けよ。……オレ、今の船を引き渡したらさ、稼いだ金で船買うんだ。せがれに渡すものじゃない、オレだけの船。それで、海の果てに行くんだよ」
「はあ?」
ジョンは思わず眉を
「何言ってんだ。……さては酔い潰れてんな? お前」
「まだ潰れてねえって。それに、本気だ」
ウィルは震える足を
「いつかきっと、プロフトが言ってたみたいに、オレにも果てに輝く星が見えると思う。オレを呼ぶ、オレだけの星が。そしたら、オレはオレの船を出す。そんで、空に星を放つ湖とか、火が点いた雲とか、海の底を飛ぶ鳥とか、空の上のそのまた上を駆ける馬とか探す。それ以外のもっと沢山の物もだ。きっと、海の果てには全部ある」
ジョンの頬が固く強張る。
「……不満なのか? 今の生活」
「いいや。朝早くに海出て、網下ろして、魚取って、お前とかギャバンとかと酒飲んで……そんな生活、嫌いじゃないぜ。むしろ好きだ。楽しいよ」
「じゃあ、別にいいだろ。海の果てなんかに行かなくたって」
「それとこれとは話が別だ」
ウィルは肩をすくめて笑い、ジョンの方に視線を合わせた。
「なぁ、ジョン。一緒に行かねえか?」
「あ?」
ウィルは照れ臭そうに後ろ頭を掻く。
「いや、お前だけじゃないな。ギャバンも、マギラスさんも、他の連中も、みんな誘おう。オレは海の果てが見たい。プロフトの言ったもの全部見て、そいつを肴にお前らと酒飲むんだ。絶対楽しい」
「…………無かったら、どうするんだよ」
「それならそれで別にいいだろ。みんなで
「くだらねえ……」
ジョンは耐えかねたように背を向け、足早に歩き始めた。
「俺は行かねえからな。たかが作り話のために、命なんざかけられねえ」
ウィルは、立ち去っていくジョンの背中を黙って見送る。ややあって、彼はジョンに背中を向けた。
●
「……そして次の日、奴は消えた」
「消えた?」
ジョン老人に、男は聞き返した。濡れた髪はいつしか乾き、酒瓶は二本と一本半がカラ。ジョン老人は自分のグラスをゆっくり回した。
「いなくなっちまったんだよ。自分の船と一緒にな。俺が奴と最後に呑んだ日の夜は、今日見たいな大嵐だった。……みんな騒いだ。ウィルと、ウィルの船が流されちまったって。けど、俺だけは見た。いきなり風が強くなってきて、船飛ばされねえようにしようって外に出た時……。……あいつは、自分の船に乗って海に出てやがった。帆を張って、雨ん中笑って……空でも海でもねえ、どっか遠くを見てやがったんだ」
瞳に寂しげな色を浮かべて、ジョン老人は酒瓶をつかむ。残った半分をラッパ飲みして流し込み、勢いよくテーブルに叩きつけた。
「あの馬鹿は、テメェの星とやらを見つけたんだろうよ。それを追って、海に出た。嵐が来んのは明らかだった。そんな時にでたら沈むだろうってこともな。だが、奴は出た。そんで、帰って来なかった……」
重い溜め息を吐くジョン老人。男が顎を撫で、小さく頷く。
「はーん……。それで、俺が同じようになったらどうしようって思ったわけか?」
「ああ。馬鹿な話だろ」
「まぁな」
男は笑った。テーブルの下に置いた四本目の酒瓶を拾い上げ、栓を開けてジョン老人のグラスに
「海の果てのプロフト、か。覚えてるぜ。みんな読んでもらってんのに、うちだけ読んでもらってねえから恥かいてさ。おふくろに読んでって言ったら、親父が怒って止めたこと」
「ふ……あったな」
「ま、俺は俺で読んだんだけどよ。ダチに頼んで、貸してもらった」
「隠れて読んでやがったか」
「そりゃ、気になるさ。みんな読んでもらってんのに、なんでうちは駄目なんだって。好きな話だったぜ、割と」
椅子の背にもたれ、男は酒瓶をラッパ飲みする。ジョン老人はグラスを傾けた。静けさを、嵐の音が震わせる。天井で揺れる明かりを見上げ、男はふと呟いた。
「俺も最近知ったんだけどよ……あれさ、続きあるらしいぜ」
「…………何?」
怪訝そうな表情をするジョン老人に男は語る。
「海の果てが気になった若者は、嵐の夜に星を見て、自分も船を作って海に出るんだ。周りが止めるのも聞かねえで、自分の導く星を見たって言ってよ。帆を張って、荒波の中どこかに行っちまうんだ。そいつの親友は悲しむんだが……ジジイになったある嵐の日に、気づいたら灯台に立っててよ。遠くに、船の影を見るんだ。それは海の果てを見て来た若者でした……ってオチ」
ジョン老人は渋い顔で顔を
「作り話だ」
「そうかね? ……ま、安心しろよ。俺はガキ置いてどっか行ったりしねえし、嵐の夜に船は出さねえからさ」
「当たり前だ、馬鹿が」
憎まれ口に男は笑い、席を立つ。ジョン老人を置いて、彼は階段を上がっていった。
●
夜。ジョン少年は灯台に居た。背後には巨大な
嵐の夜だ。窓越しに見える海は暗く、時折起こる稲妻が荒れる水面を照らし出す。激しい雨が
(そうか、夢か)
ジョン少年はそう思うまま、嵐の海を眺め続ける。ぼうっと嵐の音を聞く彼は、やがて稲妻走る波間の中の一部に目を止めた。
船だ。帆を張った一隻の船が、荒ぶる水面を踊るようにしてやってくる。ジョン少年はゆっくりと窓ガラスに歩み寄り、張りつくようにして目を凝らす。危なっかしい軌道を描いて寄ってくる船。ジョン少年の目は、その船首に立って手を振る人を捉えた。
「……馬鹿が」
少年の頬を涙が伝う。
「嵐の夜に、帆を張る奴があるかってんだ」
ジョン少年は呆れたように笑いつつ、服の袖で涙を
海の果てを超え、船が嵐を背にやって来た。
セイリング・デイ 闇世ケルネ @seeker02
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