第十三話 スカイ・オブ・ビギニング

 薫風が雑草を揺らし、草の先が私の頬を撫でる。くすぐったいのを我慢し、アイラは辺りの音に耳を澄ませた。


 揺れる草の音、木の葉の音。エルフの特性である聴力を生かし、"彼"の居場所を探る。


(……後ろっ!)


「残念、それは揺動だ」

「いでっ!?」


 後方で雑音がしたため、振り返り全力で後退したのだが……見計らったように、彼は飛んだ先で立っていた。


 ちなみに後頭部には手刀のおまけ付きだった。


「ほら、もうすぐ時間だぞ?」


 ジークは憎らしく笑い、空を見る。

 既に鬼ごっこを始めてから二時間ほど経過しており、太陽ももうすぐてっぺんまで登る。

 それまでにジークに参ったと言わせなければ、夕飯のおかずが一品減ってしまう。

 それだけはなんとしても阻止したい。それほどまで、彼の作る料理は美味しいのだ。


「わ、分かってるよ! ほら、10秒待ってて!」

「時間的にもこれが最後だ。頑張れよ」


 いつまでも不敵なジークにべーっと舌を出し、アイラは『加護』を使って一気に距離を取った。


「それにしても……」


 森林を高速で駆けながら、アイラはふと気が付いた。


(息が全然上がってない)


 これも特訓の成果なのだろう。以前のアイラに、二時間走り続けて息切れしない体力なんてなかった。

 訓練を初めて日が浅く、動いただけ身体が成長するためあまり実感がないのだが、どうやら肉体面は昨日今日の時点でかなり強化されたようだ。


「もうこうなったら……! 時間ギリギリまで走ってやる!」


 水の中に隠れても見つかる。

 木の上に隠れても見つかる。

 テントの中に隠れても見つかる。

 藪の中に隠れても……などなど。


 今までどこに隠れても瞬時に見つかりやり直しになってきた。


「だったらもう……走って逃げるしかないじゃん!」


 風の加護を全力で解放し最高速度トップスピードで走り続ければ、きっとジークは追い付けないはずだ。流れて行く木々の間を縫って駆けていると、ふとアイラはジークと初めて会った時のことを思い出した。

 いや、あの時の彼女は人ではなく魔物から逃げていたのだが──


「ほら、ぼーっとしてるとぶつかるぞ?」

「うわっ!? 危なかった……って、えええっ!?」


 目の前に迫る大樹を避けて、私は跳びながら後ろを振り向いた。


「なっ、なんで追い付けるの!?」


 アイラのすぐ後方で、ジークが悠然と走っていた。


(いやいやいやいやいや! おかしいって!)


「流石に俺も自力じゃこれには追い付けないからな。ちょっと裏技を使わせてもらった」


 ジークの瞳が怪しく光る。

 どうやら彼の中でスイッチが入ってしまったらしく、口元も少しにやけていた。

 はっきり言ってこの状況、かなり怖い。嘘に聞こえるかもしれないが、恐剣狼テラーウルフに追われている時以上に、アイラの心臓は大きく跳ねていた。


「いーやぁぁぁああああ! 来ないでぇぇぇええええ!」

「そんなわけにはいかない。そういう訓練だ」

「そういう意味じゃないのっ! とーまー……れっ!!」


 せめて足止めだけでもと跳躍と同時に振り返り、加護の力を乗せた両手を交差させ、振り抜く。

 振り抜いた軌跡から風の刃が放出され、ジークへと飛来した。


「ほう、やっぱり風の加護は便利だな」


 対するジークは臆せず更に加速する。

 アイラが驚いて目を剥く直後、放った刃はジークがほんの少し身体を反らしただけで避けられていた。行き場を失った刃が後方の大樹に当たり、幹に十字の切れ込みが刻まれた。


「威力もなかなか……うん、これは使えるな」

「嘘でしょ!? もう! あなた絶対おかしいって!」


 両者ともが高速移動中なのだ。

 当然その速度も合わさって、先ほどの刃は瞬きの間に彼の眼前まで迫った。それを見極め、容易く避けるなんて芸当は現実的に不可能である。彼は一体どんな反射神経をしてるんだと、アイラは心の中で悪態を吐いた。


「もうそろそろ追い付くが、策はそれだけか?」

「そんなわけないじゃん! 絶対に振り切ってやるんだから!」


(くぅ……あの余裕に満ちた表情を歪めてやりたい!)


 とは言ったものの、現状アイラに策なんてものはもうない。

 ジークの足元に風を起こして妨害しようかとも考えたが、今の彼女ではそこまで精密に力を行使できない。

 止まっている状態であれば多少は可能だっただろうが、今出来ることは精々このまま走り続けることくらいだ。


 ……いや。一つだけ、あるにはある。


 けれどそれは最後の手段。しかも一回勝負だ。あまり宛てにしたくない。


『アイラ、アイラよ』

「うぇ!? び、びっくりした……」


 突如脳に響く声に驚き、危うく足を滑らせてしまうところだった。

 これは、さっきの精霊の声だろうか?


『主はあやつから逃げているようだが、如何なる理由で空を飛ばぬのだ?』

「そ、空を? いやいやいや、まさかそんなこと……」

『可能だぞ?』


 ……可能らしい。


「ど、どうすればいいの!?」


 反射的にアイラが叫ぶ。


『どうする……ふむ、そうだな。こう、風をグワッと出して……』

「それじゃあ分かんないよ!」

『す、すまぬ! ええいまどろっこしい! 少し待っていろ!』


 しまったと、アイラの肩がピクリと跳ね上がる。

 あまりに感覚的な説明に思わず大声で怒鳴ってしまった。精霊の引き攣った声を聞いて、心の中で自分の浅薄さを戒める。


「相談は終わったか?」


 再び背後からジークの声が聞こえる。

 着実に、彼との距離は縮まっていた。


「ふむ。なにかあるかと思ったが、そろそろ頃合いか……!」


 まるでそれが掛け声のように、ジークの速度がグンと上がった。

 まさか今まで加減をしていたとでも言うのだろうか。

 小さかった影が、恐ろしい速度でグングンと大きくなっていく。


「ひぃぃぃいいいい!? ね、ねえ! まだなの!?」

『もう少しだ!』

「早く早く早くっ!!」

『せ、急かすでない! ……よし、準備が終わったぞ!』


 その声と同時だった。


「これで終いだ」


 ジークの声がすぐ耳元で聞こえた。

 視界の端に彼の手がちらりと見える。

 こうなってはもう四の五の言っていられない。最後の抵抗をするべく、アイラは意識を集中させた。


 ──まだだ。


 研ぎ澄まされた思考の中で、アイラの瞳に景色が鮮明に映る。

 まるで時間の流れがゆっくりと流れるように。

 ジークの手とアイラの肩まで空いた空間はもう手のひらほどしかない。


 ──まだ引き付けろ!


 彼の手のひらと、アイラ肩との距離が指先ほどにまで狭まる。


 ──今だッ!!


「はぁぁぁああああ!!」

「なっ……!?」


 彼の手が肩に振れるその瞬間。アイラは自身の周りに強風の結界を展開した。

 捕まえたと彼がほんの少し油断したその瞬間を狙って。

 それによって触れる寸前まで迫っていたジークの手が大きく弾かれる。


(この時間を無駄にするものか……!)


「お願い! 精霊さん!!」

『任せろ!』


 その声を聞いた直後。


「……っ!?」


 アイラは異常な圧迫感と浮遊感に襲われた。

 余りにも急なことで、悲鳴を上げる暇もない。


「あ……れ?」


 一瞬、アイラは目の前の光景を疑った。

 瞬きの間に、高く伸びる木々のてっぺんが、自身の足元にあったのだ。

 心を落ち着かせながらゆっくりと辺りを見回すと、森の向こうに見える王国の城、その背後に広がる大海。

 反対側を見据えれば、ずっと向こうの地平線までよく見える。


 これは、これは本当に……


「飛んでる……!?」

『はっはっは! どうだ凄いだろう! もっと驚くがいい!』

「凄い……凄いよ……!」


 まだ自分の置かれた環境への実感は薄いが、それでも思わず歓声を上げて、アイラは両手をブンと振り上げる。

 これほどの絶景は今まで見たことがなかった。

 晴天に照らされる森林、河川、山岳が。

 見える景色のその全てが、陽光に照らされてキラキラと輝いていた。


『こ、こら! あんまり暴れるでない! 制御が……あっ!?』

「……へ? うわぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああ!!」


 精霊が叫んだ瞬間、彼女を包む浮遊感が消失した。

 その直後、アイラは重力に吸い込まれるようにして転落を開始した。


「たぁぁぁぁあああああすぅぅぅぅううううううけぇぇぇぇえええええてぇぇぇぇえええええ!!」

『す、すまぬ! もう一度起動するだけの魔力が……もう吾輩には残っていない……』

「嘘でしょぉぉぉぉおおおおおおお──!?」


 そんなやり取りをする間にも降下はどんどん加速する。

 さっき足の下にあった木々がもう目の前にまで迫っていた。


(こ、これは本気でマズい!)


「アイラ!」

「ごぇ!?」


 アイラを呼ぶジークの声と、彼女の間抜けな悲鳴が聞こえたと同時に、全身を襲っていた落下の感覚が消えた。

 そして、先まではなかった人肌の温もりが、アイラの身体を包むように支えていた。


「危ないところだったな。怪我はないか?」

「あれ……ジーク……?」


 アイラはまたしても彼に助けられたのだ。

 自分の不注意から、自分の不手際から。


「って、あれ!? なっ、なんであなたも飛んでるの!?」


 一度冷静になった途端、アイラは目先の疑問に思考が支配されていた。この時既に先の自戒の念はアイラの中から消失していた。

 こういうところも、彼女の改善すべき点だと言えるだろう。


「なんでって、お前を助けるために決まってるだろ?」


 抱き止められた場所はまだ木々の上。空中だ。アイラが聞きたかった要点はそこにある。


「ん? そりゃあだって発動の瞬間をこの目で見たからな。真似するくらいは簡単だ」


 彼は思考まで読めるのだろうか?

 一切口に出していなかったはずなのに、彼はアイラの心の声に正確な返答を返す。当然のように言ってのける彼に、もうアイラから驚きの感情は出てこない。

 きっと、これは彼にとってはごく当たり前のことなのだろう。


「さて、鬼ごっこの結果だが……。あーくそっ、ギリギリでアイラの勝ちだ」

「……え?」


 天を仰ぎ悔しそうに呟く彼の視線を追う。確かに、太陽はてっぺんよりも少し西へ傾いていた。

 ということは……!


「やっ──たあああ!!」

「お、おい暴れるな! また落ちたいのか!? うおっ!?」


 アイラは嬉しさのあまり、気づけばジークに抱き着いていた。

 ただ逃げていただけだが、それでも彼に勝負で勝ったことが嬉しくて、嬉しくて堪らなかったのだ。


「よく頑張ったな。最初はどうなることかと思ったが、案外やるじゃないか」

「……っ!? ……うんっ!」


 気付けば瞳に薄っすらと涙を浮かべていた。

 なんとなくその顔が見られたくなくて、アイラは彼の胸に思い切り顔をうずめた。


 驚く様子もなく、ジークの手のひらがアイラの髪を優しく撫でる。

 褒められたことへの嬉しさと、こうして醜態を晒す恥ずかしさで撫でられた箇所が熱い。火傷してしまいそうだ。

 起きた自体が多すぎて溢れた感情は、その許容量を大きく超えてしまっていた。アイラは湧き上がる感情の波を抱えながら、それでも髪を梳く手を拒まなかった。


 これはまだ彼女が彼の庇護下にある証拠でもあるのだが、同時に認められた証拠でもあるのだ。


 彼女らは暫く抱き合ったままその場を漂った。ジークは途中で飽きたのか欠伸などしていたが、アイラの気が済むまでそうしていてくれた。


 これでようやく、ようやくアイラは、目指す場所へのスタートラインに立つことが出来たのだ。



 ♢



 涙を堪えて破顔する少女を抱きながら、期は熟したと悟る。


 今の少女は充分完成に近いと言える。

 だが、まだだ。

 まだ彼女には、『覚悟』が足りない。

 戦うことを選ぶというのは、殺し、奪う道を選ぶということでもある。

 それを成した時に少女の想いがどう転ぶかは分からない。

 どちらでも構わない。

 転ぼうが踏みとどまろうが、その時こそ少女が仕上がる瞬間なのだから。


 堪えろ。恐れるな。怯えるな。

 あと一つ、まだ一つ。


 向こうもそろそろ動き出す頃合いだ。

 もう、あまり時間は残されていない。

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