第4話 名前
稲荷原流香は午前五時半に起床し、六時には祝詞を奏上するために本殿へと籠もった。
祝詞を奏上している途中、前に察した気配が本殿へと上がって来たのをその肌で感じ取る。
気が削がれる事はこれといってなかった。
祝詞が終わると、流香は居住まいを正した後、立ち上がる事無く、背後に感じていた気配と対面をした。
予想した通り、背後にいたのは以前ここを訪れた初老の男であった。
その男は前と同じように頭を垂れていた。
神前であるからなのか、それとも、祝詞に耳を傾けていたからなのかは分からなかった。
「頭を上げてください」
顔面から表情を消した流香がそう言うと、初老の男はすっと頭を上げた。
「……そういえば、あなたの名前をまだうかがっていませんでしたね」
流香の視線が鋭さを増し、魂さえ切り刻んでしまいそうなほど研ぎ澄まされたようなものへと変化した。
「私の名前ですか? そのようなものは必要ないのではないですか?」
初老の男は誤魔化し笑いを浮かべて、名乗る気がない事を示唆した。
「ならば、二つ候補を挙げますので、どちらがあなたの名前であるか教えてください。答えるのを拒否するようであれば、あなたの依頼は無かったことにします」
「試すのですね、私を」
誤魔化し笑いが苦笑へと一変した。
初老の男は苦笑を浮かべたまま、気まずそうに流香から視線を逸らして、本殿の床を見つめ始める。
「一つ目の名前は、
流香は手を挙げて、『一』と示すように人差し指を立てた。
「二つ目の名前は、
流香は中指も上げて、『二』を示した。
「……さて、あなたの名前はどちらでしょうか?」
初老の男はおもむろに顔を上げるも、唇の端をひくつかせながら苦笑していた。
「私の名は……」
初老の男は唇だけではなく、眉毛さえもひくつかせ出して、冷や汗をたらたらと流し始める。
そんな初老の男を流香は冷ややかな目で見つめていた。
「……そう。答えはどちらでもありません」
「私を……試したのですか?」
流香の思惑を知っても、初老の男の冷や汗は止まらなかった。
汗の雫が次から次へと沸き上がっては顎にまで流れていき、汗の粒となってしたたり落ちていく。
「これを見ていただけますか?」
流香はあらかじめ用意しておいた、新聞記事の切り抜きを取り出して、そっと男の方へと差し出した。
『某日 午後一時頃、某県の荒垣山山頂付近で『二人の男が血を流して倒れている』と同山中にあるロッククライミングスポットを訪れた男性から某県警察署に通報があった。
同署や某県某市消防局が確認したところ、男二人が倒れていて一人は死亡、もう一人は意識不明の状態で発見された。
同署はロッククライミング中に滑落したとみて、詳しい状況を調べている。
某署によると、亡くなったのは東京都豊島区に住む会社員
ロッククライミングで使用していたロープが鋭利な刃物で切られたような形跡があるため、事件、事故両方の線で捜査を進めている』
初老の男は身を乗り出して、汗を流し続けながら、その記事を食い入るように見つめる。
数滴の汗がその記事に落ちるも染みなどできずにそのまま消滅していった。
「あなたが知りたがっていた情報はこの記事ですよね? これで名前は思い出せましたか? 井野垣悟さん」
表情を殺し始めた流香が井野垣悟という名前を言葉にすると、初老の男はハッと顔を上げて、流香を虚ろな瞳で見つめ始めた。
やはり汗は止まらず、体内の何かが溶け出ているようにも見えた。
「いや、私はこうして生きていて……」
初老の男はしどろもどろといった風に言うも、自分のその言葉さえ信じられないといった様子があった。
「拝殿から本殿であるここに来るには、途中にある引き戸を開ける必要があります」
「それは当然……」
初老の男は背後を振り返って、引き戸をあるのを見て取るなり、すぐに顔を戻した。
記憶の糸を辿ろうとしているのか瞳が右往左往し始める。
「あなたはどうやってこの本殿へと来たのでしょうか? 来る時も引き戸を開ける音はしませんでした。去る時も引き戸を開けずに本殿を出て行きました。これをどう説明するというのでしょうか?」
「いやいや、私はきっとそこの引き戸を開けて入ってきたはずだ。だから、死んでいるはずがない。あなたが間違っているに決まっているんです」
初老の男は肩で息をし始め、目をせわしなくしばたたかせる。
「では、あなたはどうやってこの賀茂美稲荷神社に来たでしょうか? 歩いてきたのでしょうか? それとも電車でしょうか? それとも、タクシーでしょうか? 豊島区に住んでいるのであれば、この神社がある東京都北区言実町まで瞬間移動してきたというのですか?」
賀茂美稲荷神社があるのは、北区のどちらかと言えば赤羽寄りの場所だ。
豊島区からここに来るためには電車であれば、京浜東北線か、埼京線、南北線を使う必要がある。
「……それは……」
初老の男の顔から血の気が段々と失せていき、白くなり始める。
それだけならまだしも、男の身体そのものが透け始めた。
「井野垣悟さん、あなたは真木口太郎さんを現代科学では解明できない魔法を使って殺そうとしたのです。魔法ならば痕跡が残っていたとしても解明できないはずだ、と踏んだのでしょうね。ですが、計画は見事に失敗をし、滑降してきた真木口太郎さんに巻き込まれるようにしてあなたも滑降して死亡してしまったのです」
流香は無表情を貫き続け、井野垣悟と思しき初老の男を哀れみ憎しみもない無機質な瞳で見つめている。
「……私は殺せなかったのか。あの男を……」
失望からなのか、井野垣悟の身体の輪郭がぶれ始める。
霊体と言われるものの形が失われ始めたのかもしれない。
「死んでしまい、魂だけとなったあなたは記憶も定かではなくなり始めていたのでしょう。だから、名前を思い出すことができず、名乗る事もできませんでしたし、『私を殺そうとして巻き込まれた』と言っていたのに『山頂付近で滑落事故を装って殺そうとしていたのですが』と支離滅裂な事を口走っていたりしたのでしょう」
「殺せてなかった……殺せてなかった……」
もう流香の声は届いてはいないようだったが、流香はそのような事を顧慮する素振りを見せずに口を開いた。
「生者であれば新聞かネットで調べれば事故についてはすぐに分かるはずなのに、それをしなかった。それはあなたが死んでいて、いつの新聞を読めばいいのか、パソコンやスマホを動かせなくなっていたからでしょう?」
「いや、まだ……殺せる……まだ殺せる……」
薄らいでいた井野垣悟の身体が段々と黒ずんできた。
殺そうと思っていた人間がまだ生きていた事に憤り、憎しみを思い出し始めたのかもしれない。
「ふふっ、怨霊になるのでしょうか? ならば、退魔師である私の出番かもしれませんね。姉さんも退屈していたし、丁度いいでしょう。人殺しや推理、それにトリック崩しは私の領分ではありませんので退屈過ぎましたし、興味ありませんでしたし」
井野垣悟は人の姿を保てなくなり、どす黒い煙のようなものへと変化しかけていた。
流香はそんな移ろいを嬉々とした表情で見つめる。
自分が事故死したという真実を知ってしまえば、そのまま消滅するのではと思っていただけに、この展開は想定外であった。
「今回は特別にエペタムを使って滅してあげましょうか。無様な死に様を晒したあなたの最後を飾るのに相応しいかもしれませんね」
流香は嗜虐的な表情を浮かべて、神前に置かれている御札などで封印されているエペタムに手を伸ばしたのであった……。
後ろの気配 ~ 怪異譚は眼帯の巫女とたゆたう ~ 佐久間零式改 @sakunyazero
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