第9話 あの部屋の意味

 女が去って、幾日か経過した。が、元の日々には戻らなかった。


 元通りに動き始めたあの男達は以前とは幾分変わったように思えた。黒いシャツの男はさらに神経質になり私に注意を促し、「大変な事がまた起きる、だからできる限り右のボタンを押すんだ」と繰り返した。白いスーツの男は私の前に姿を出さなくなった。代わりに彼の仲間だったピンクの男が来て私に左のボタンを押すべきだと説いた。それが正しいのだ、それが最善なのだ、と。

 

 あの時、あの女が現れそして去って以来、私は根本的に変化していた。具体的にどう変化したかという事ではなく、根本的な『何か』が変わったという事だ。その理由は私には判らなかった。


 私はボタンを押すことを止めた。右も左も。


 どれだけスピーカーからアナウンスが聞こえようと、黒い服の男や黄色い服の男が現れて私を説得しに来ようと、私がボタンを押すことはもうなかった。

 ボタンを押さなかっただけではない。私は男達を完全に無視した。無視というのは文字通り目すらも合わせないという事だ。男達が何を言おうが私は目を背けた。それはとても辛い事だった。が、私はこの部屋から出る方法がだと解っていた。


 この部屋もあの事件以前とは何かが違っていた。それは現実感が薄らいだ感触だった。まるでPCのモニターの解像度を下げたかのような。出来の悪い夢の中にいるような。 

 夜になれば窓の外の空には星が見えた。昼間にはスズメらしき鳥のさえずりが聴こえた。私は開け放しになった窓の側へ行き、今や黄色く力強く咲くヒマワリを眺めた。

 その内にこの部屋に来る男は次第に少なくなり、ついには誰も訪れなくなった。『ボタンを押してください』、というあのスピーカーからのアナウンスは流れたが私がボタンを押すことはなかった。

 誰とも会話をしない日々の中で私は孤独感に苦しんだ。その感情に支配されるのは夜ではなく昼間の事が多かった。孤独は明るい午前の日差しの中で私を苦しめた。


 孤独を感じ始めた時に現れた男がいた。緑色のTシャツを着た男だ。

 緑色のシャツを緑色のコットンパンツにタックインした緑の男。誰も来なくなったこの部屋に入ってきた唯一の男が彼だった。

 緑の男は大抵の場合、ノックもなく、何も言わずに部屋に入り、そして同じような内容の話を私に語った。


「お前の考えてる事はよくわかる。孤独。孤独ってのは不安になる。だから、また前みたいに俺たちと楽しくやるべきなんだ。孤独で不安だろ?」

 私は男に返答をすることはなかった。男の方を向く事もなかった。

「お前が正しいんんだろうなあ。全くお前が正しいよ。ボタンを押す意味は無かったわけだ。右のボタンも、左のボタンも。みんな間違ってた。お前だけがその事に気づいたってわけだ。ヒマワリは全く枯れてないもんね。そうだろ?そういう事だろ?」

 男はいつも私に同意を求めたが私は彼を無視した。

「無駄なエネルギーだったんだ。全く無駄なエネルギーを使ってた。右のボタンだろうが左だろうが無駄なエネルギーだったんだ」

 緑の男は何度も『無駄なエネルギー』と言った。無駄なエネルギーを使っていたんだ、と。

 私はその『無駄なエネルギー』という言葉を聞く度に、あの女が言った『迷いがあるとスイッチは動かない』という言葉を思い出した。それがなぜかは分からない。その2つに関連があるのかどうかも定かではない。が、いつもその言葉を連想した。無駄なエネルギー、迷いがあればスイッチは動かない。


 緑の男はこの部屋に来た男達と同様に私と似た背格好であり同世代に見えた。そのためか私は彼にも親近感を覚えた。彼と、そして他の男達とも以前のように他愛のない話をしたいと思うことがよくあった。私は孤独で不安だったのだ。しかしそうすることはできなかった。なぜならそれがだったから。

 しばらくすると緑の男も来なくなった。それによって私の孤独はさらに深まるのだろうと思ったが、なぜかその時には孤独感は完全に消えていた。

 

 「もうすぐだ」、私は窓の外を見ながら呟いた。


 どれほどの時間が経過したか分からない。長いような気もするが、短いような気もする。私はただ椅子に腰掛けていた。何もせず何も考えない日々だった。スピーカーからのアナウンスも消えてしまった。が、ヒマワリは変わらずに逞しく立っていて、うねうねと動いていた。

 次第に部屋の色があの時と同じ深緑色に染まっていき、ある時を境に窓の外の光景が夜から動かなくなっていた。

 窓は開いていて、空には星が出ている。けれどもう二度と朝が来ることは無かった。


 朝の来ない夜の中で私はただひたすら椅子に腰掛け、窓から見えるヒマワリを眺めた。

開いた窓からは時折柔らかい風が入ってきた。ヒマワリは常にうねうねと動き、微妙に色を変えた。一瞬として同じ瞬間はなく、私はその動きの何もかもを逐一見ていた。


 ガチャリ、という音が部屋に響いた。


 正面のドアを見るとドアがわずかに開いていて、その隙間からあの若い女が顔を出した。

 女は私の方を見るとにっこりと微笑み右手を上げて「こんちわ。久しぶり」と言った。

 私は椅子から立ち上がった。

 女は体の半分程度をドアから出すと右手で私を手招きした。こっちに来なよ、と女の手招きは私に告げていた。

 私は机を回り込み、ドアの付近まで駆け寄りそこで止まった。

 女は左手でドアを大きく開けて「こっちこっち」と子供のような笑顔で言うとドアの向こう側へと消えていった。・・・ドアを開けたままで。私は一瞬振り返り部屋を見た。深緑色に染まった部屋の中央に見慣れた机があり、そこには私が押す事がなくなった二つのスイッチがあった。その左方にはヒマワリが見えた。私は心の中で「さよなら私の顔」と呟いた。

 私はドアの外へと歩み出た。



 ドアの外は明るかった。


右の方角から風が吹いている。

モヤが強くかかっていて、遠くを見ることはできない。


 前方4m程先にモヤに包まれて女が立っているのが薄っすらと見えた。


「驚いた?」と女は言った。

「ここはどこですか?」と私は辺りをきょろきょろしながら言ったが女は答えなかった。

 私は頭上を見た。

「わあすごい」と思わず声が出た。

 どこまでも透明で、どこまでも高い空だ。初春の夕暮れから夜に代わる直前の紫がかったあの空だった。久々に見る空に私は目を奪われた。

 けれど太陽が出ているわけではなく、雲も見えない。これは空なのだろうか?

私は足元を見た。

 私が立っていた地面はアスファルトに似ていると感じた。固くて灰色だ。だが何も書かれていないし模様もない。前方も右も左もモヤがかかったようで視界が不良だ。5~6m程先はあまり見えない。

 右頬と右手の甲に弱い風の感触があり、風の吹く音が聴こえた。


「じゃあついてきて」とモヤの中で女が言った。女の顔ははっきりとは見えない。

「あ、はい、ちょっと待ってください、これドアは閉めるんですか?」

私が幾分大きな声で女に言うと「気にしなくていい、行くよ」と女は返答した。

 私は後ろを振り返って右手でドアノブを探したがそれは消えていた。ドア自体がなくなっていたし、私がいたあの部屋自体も消えていた。

「はぐれないでね。行くよ」

 そう言って女はモヤの奥へと歩き始めた。私は「はい今行きます」と言って歩き始めた。私は女に追いつこうと急いで歩いたが女との距離が縮む事はなかった。私は女の後ろ約3m程の位置で付かず離れず歩いた。


 歩く内に次第にモヤが晴れてきた。

 私は目の前に拡がった光景に息を呑んだ。

 それは全く果ての見えない空間だった。前後左右何一つ存在しない空間。アスファルトのような固い地面が波打つことも傾くこともなく無限の彼方まで続いていた。上空には紫がかった空が上方に透明に無限に拡がっていて、前後左右はひたすらに広大な空間だった。

「なんてとこだ」私は呟いた。女は相変わらず私の前方3m程を軽快に歩いている。私からは女の背中しか見えない。

「なーんにもない。ここにはなーんにもない」

女は歩きながら、しゃべる時だけわずかに左の方に顔を向けてそう言った。

「とんでもない広さですね。途方もない広さ。果てはあるんですか?」

「果てはないよ。無限に果てがない。どこまで行っても。・・・びっくりした?」

「はい、びっくりしました。ここはどこなんですか?」

私の声に返答せずに女は歩き続けた。

私は歩きながら女の背中に向かってふとこう尋ねた。

「窓を開けてくれたのはあなたなんですか?」

「違うよ。開けたのはあなた」

「え?自分で開けたって事ですか?・・・そんな事が私にできるとは思いませんでした」

「できるよ。・・・というか」と言って女は突然立ち止まり、私の方を振り返った。私も止まった。

「というか・・・あなたにできるのはそれだけ」

そう言うと女は私の目を見て微笑んだ。風がわずかに吹いている。

 私も微笑んだ。風で女の髪が揺れていた。


 私はその時初めてまじまじと女を見た。赤の膝下まであるスカートに白いブラウス、その上に裾の短いジャケットを来ていた。靴は前回履いていた黒のキャンバス地に白のゴム底のスニーカーだった。髪は今回も美容室でさっきセットしてもらったかのように上品で優雅だった。口紅の色が赤かったが、私は前回会った時にもこのような色だったかどうかを思い出そうとしていた。やはり今回もどこかで以前会った事があると感じたがそれがどこなのか思い出せない。

 しばらく女は何も言わずに黙って私の顔を見ていた。

 風の音に混じってどこか遠くから音楽が聴こえたような気がした。かつて聴いた記憶がある曲だ。・・・しばらく耳を澄ませて、私はそれがバッハのフランス組曲1番だと気づいた。高校生の時に発表会で弾いた記憶がある。・・・そうだ私はピアノを習っていたんだっけ。


 女は再び振り返り歩き始めた。私は女の後を追った。

「これからの事なんだけど、どうしたい?」と、女は私の方を振り返らずに歩きながら言った。しゃべる時だけまたわずかに顔を左に向けた。

 私はその言葉の意味を一瞬考えた。どうしたい?『元の生活』に戻ることが私の望みだ。早く戻りたい。戻ればまたフランス組曲を弾けるかもしれない、とかあれを食べようか、などと考えながら私は女の後に続いて歩きながら答えた。

「一刻も早く『元の生活』に帰りたいです。そのために色々頑張ったんですから」

「もしかしたら」と女は言ってからまた一瞬私の方を振り返った。

「これから先に進むと考えが変わる可能性もあるんだよね」と言うとまた歩き始めた。


 さらに歩いていく内に空が暗くなっていった。が、それは夜の暗闇ではなかった。

暗闇ではなく、のだ。

「あのーすいません。どこに向かってるんでしょうか?」と私は女に尋ねた。

女の姿も段々と見えなくなってきていた。

 足元を見ると踏みしめていたアスファルトも無くなっていた。そして段々と踏みしめているという感覚も失われている事に気づいた。風の音も聴こえなくなっていた。

 私は歩いているのかそれとも止まっているのか判らなくなっていた。そういった体の感覚が消えていったのだ。


 女の姿はもう見えなくなってしまっていた。私自身すら見えない。私は自分の手で自分の顔を触ってみた。ああ、確かに顔がここにある、と何度か確かめた。しかしその感触が次第に消えていっている事に気づいた。体全体に麻酔をかけられたように感覚が失われていった。にも関わらず意識はとてもはっきりとしていて冷静だった。恐怖や不安は無かった。

「すいません、あのーすいませんどこ行っちゃいましたかね?」

 私は見えなくなった女に向かってそう言った。

が、私から出た声はだった。


 その時にはもう上下左右はだった。自分がいることすら確認できないのでどこが上か下かも無く右も左も無かった。

「宇宙っぽいでしょ?」と女の声がする。よく聞くとそれは私の声でもあった。

 その声はどこかから聞こえるという事ではなかったし、どこで聞いているという事もなかった。果てのない全てが無くなった後の空間が語り、果てのない全てが無くなった後の空間が聞いていた。

「宇宙にしては星がないから宇宙ではないと思います。月もないし太陽も見えないです。宇宙はもっと明るいらしいですよ。恒星がバーっと光って・・・」

と私は言ったがその声はやはり女の声であり私の声だった。


 私は落ち着いていた。

そして一種のやる気のような、エネルギーに溢れた何かに包まれている事に気づいていた。

 その時初めて私はを感じ取ることができた。


「わかった?」

「わかりました」

「そういうなんだけどどうする?焦る必要はないからゆっくり考えて」

「はい、その前に質問していいですか?あなたは誰なんですか?」

「」

女の声がした。いや、それは私の声だったかもしれない。


「じゃあ行くよ」

「はい」

「記憶は全部消えるよ。いいよね?」

「はい。お願いします」

「じゃあさよなら。また会おうね」

「はい。近い内に」


 女の声と私の声は全てが無くなった後の空間に溶けていった。溶けていく中で、私は再び見知らぬ部屋で目覚めるのだろうと予感した。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

右のスイッチ、左のスイッチ 三文の得イズ早起き @miezarute

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ