第8話 信じてないから
その若い女はわずかに開けたドアから顔だけを出してこちらを覗いていた。
笑顔だ。まるで数年来会っていない旧友と再会する時に見せる笑顔だった。明朗で、それでいてどことなくいたずら心を含んだような。
歳は二十代後半位だろうか。髪が肩ほどの長さで、まるで美容室から今出てきたかのようにきちんと整えられ優雅で上品だった。
女は笑顔のままゆっくりと部屋へと足を踏み入れた。
今や溶けかけたロウソクのように固くなり所々溶解し横たわっている男を小声で「よいしょ」と避けながらぴょんぴょんと軽快に部屋を移動した。
黄色い肩の出たブラウス。スカートは丈が長く鮮やかな紫色で大きなプリーツが施されている。靴は黒のキャンパス地に白のゴム底のスニーカーに見える。赤い靴下が時折見えた。この部屋には似つかわしくない鮮やかな服装だ。身長は160cm程だろうか。耳に大きめのイヤリングをしているのが見えた。
女は部屋の中央付近で一度立ち止まり、右手を上げて「こんちわ」と言ってにっこりと微笑んだ。
私はその女に対し、まず『懐かしい』という印象を持った。
家族でもないし友人でもないし勿論恋人でもない。知り合いのような記憶はなかった。テレビや映画で見た女優さんだろうか?と記憶を探ったが思いつかなかった。いずれにせよ私は『この女をよく知っている』という感覚を持った。
私は土下座のような姿勢のままだった。机の下から女を見上げる角度で「こんにちわ」と声を発した。私の声はとてもほそく、かすれていた。
そのとき一瞬、女から笑顔が消えた。それはまるで私に深い同情を寄せているかのようだった。そして再び笑顔に戻ると一度だけゆっくりと頷いた。
「ちょっとそっち行きます」
と女は言って私の眼前を左に通り過ぎ、机を回り込み私のすぐ左隣まで来ると、ちょうど私と並ぶように体育座りをした。私は土下座のような姿勢から正座のような姿勢になりその女の動きを見ていた。
私は女の顔をまじまじと見た。意志の強そうなしっかりとした眉に大きな目。そして唇が若干厚い。肌の綺麗さが印象的だった。近くで見るとナチュラルに見えるがしっかりと化粧をしている。
女は体育座りの態勢のまま両手を合わせ、右手の甲を左の頬にわずかに寄せながら私の方は見ずにドアの方を見ていた。
私は言った。
「あのう、私は死んだんでしょうか?」私は女を見ていた。
女は私の方を向いて言った。
「うーん。半分死んで、半分生きてる」
私の目を真っ直ぐに見つめながらそう言う女にもう笑顔はなかった。が、そのとき私はある種の親和のような感覚を感じた。まるで自分の内面の暗い部分も話せる親友のような、もしくは家族のような。
ただ私は女を最初に見た時から彼女は私達の側にいない存在だと認識していた。それがなぜなのかはわからない。私、そしてこの部屋に来た男達とは、この女は全く別なのだと考えていた。そしてそう認識する事は私にとって非常に辛い事だったが、それがなぜかもわからなった。
「私は間違ってたんですかね?」と私は女と視線を逸らせてドアの方を向いてそう尋ねた。なぜこんな事を聞いたのだろう?自分でも分からなかった。女は何も答えずにドアの方を見ていた。
しばしの沈黙があった。
私は自分の感情が解らなかった。
さっきまであれほど『生きたい』、と願っていた自分が消えていた。その思いがすっぽりと抜けていた。あれほどに強く願っていた生存への希求が無くなっていたのだ。
プールで長い距離を泳ぎ終わった後の徒労のような感覚と共に深い絶望、厭世観。そういった感覚に満たされているのは分かった。が、それだけだろうか?他に何かがある。別の何らかの感情がある。
・・・それは希望だろうか?何かしらの抜け道が、上手い方法があるのではないか、という希望。
私はこの今の状態、つまり私が死に瀕しているという状態に不思議な程冷静だった。生きる、生き延びるという事に対する希望ではない別の何かに対する希望、それがある、という希望。私が求めているのはそういった類の何かなのだろうか?
どれだけ考えても解らなかった。私は本当は何を考えているのか?
「・・・何もない」と女はドアを見ながら小さな声で呟いた。
そして私の方を見て笑顔を見せた。
女は私の心を読んでそう言ったのだろうか?が、その疑問はどうでも良いと思えた。私の心を読んでいようがいまいがどちらでも良い。私の心は制御不能な程に重く沈んでいた。女の笑顔を見てもそれが晴れる事はなく、胃の下あたりを万力で締め上げられているような猛烈な苦痛を感じていた。
『もしかしたらこの女が私を救ってくれるかもしれない』、という私の思いは消えていた。私は決して救われない、という思いが私を支配していた。
長い時間黙ってドアの辺りを眺めていた。女は体育座りのような姿勢で左手で頬杖をついていた。私は正座のような態勢のままだった。
「結局それってあの男達と一緒」
と女は言ってロウソクのように変わり果てた男達を指さした。
「どういう意味でしょうか?」私は丁寧にそう尋ねたが、女は「要するに」と言ったまま黙ってしまった。
「要するに、あなたが思いつくような絶望やら希望やらは全部あの男達と一緒って事」
「今はロウソクみたいになってますね」と私が力なく言うと女は声を出して笑った。
「ロウソクなら火をつけたら溶けて無くなるね」と女が言うので私は相槌を打った。
でも、と女は言う。「それってあなたの絶望やら希望やらと同じじゃない?」
私の絶望や希望も火をつけたら燃えて無くなるのだろうか?そのような気もするし、そうじゃないような気もする。
「何もかもよくわからないんです。混乱してます」と私は言ってすがるような気持ちで女を見た。
女は私の目を見たまま静かに微笑み、黙った。その目の奥には私に対する憐れみに似た感情が読み取れた。
その時、私を包んでいた苦痛がほんの少しだけ和らぐのを感じた。胃の辺りを締め上げられているような感覚がわずかに溶けていき、肩の辺りのこわばった緊張が薄らいだ。
溶けて無くなるロウソクのような絶望と希望。それについて深く考える事はできなかった。そして不思議な事だが、この女に対し言葉で言い表せない感情を抱いた。それはとても快い感情だった。私はこの女にすがっているのかもしれない。
「ところであなたはどなたなんでしょうか?」もう一度私は尋ねた。それに対し女は笑顔で返すのみで返事はしなかった。
部屋は相変わらず深緑色に染まったままだった。ロウソクのように溶けかけている男達を私は眺め、次に右手にある窓を見た。窓は開いていて、窓からは星が見える。ヒマワリはもうただの黒い塊になっていた。
「よし」と言って女は立ち上がり、正座のように座っている私の左肩をポンと叩いた。
「立って」と女は言う。
「あなたは私に触れることができるんですね」と私は言いながら立ち上がった。女は私の発言には関心を示さず「はい座って」と言って私を椅子に座らせた。
私は椅子に再び腰掛けた。眼の前には2つのスイッチがある。
女は机を左側から回り込み、机を挟んで私の正面に移動し机に両手を載せた。
そこで膝をつく態勢でしゃがんだ。
そして両肘を机の上に載せ、腕の上に顎を置いた。そのまま眠れてしまいそうな格好だ。
「左押してみて」と女は私の目を見ながらにっこり笑って言った。その表情はとても幼く無邪気に見えた。
「ダメだったんです。左のボタンを押しても右のスイッチが起動してしまって」
「いいから押してみて」
私は左のボタンを押した。が、何も起きない。どちらのスイッチも起動しなかった。
女は腕から顔を一瞬上げると表情を変えずに右手でポンと左のスイッチを押した。
カチッという音と共に左のスイッチの箱がビカリと光った。その光は今までに見たことの無い強さの光だった。私は驚嘆の声を上げた。
窓の外のヒマワリを見やると黒い塊と化していたヒマワリの残骸に一瞬強い光が走った。地面にゴミのように堆積していた黒い残骸が緑色に変化しているのが見て取れる。
「・・・どうやったんですか?・・・というか、あなたもこのボタン押せるんですね。私だけが押せると聞いてましたが。ヒマワリが緑に戻った・・・助かるんですか?すごいな」と私は言って女の顔を見た。
「なんかあなた、あんまり嬉しくなさそうだね」と女は愉快そうに言って微笑んだ。
「自分でも自分が何を考えているのかよくわからないんです」
私は今の正直な気持ちを女に伝えた。
「もしも、またあのヒマワリが健康に戻ったとしても・・・あなたは幸せには思えない、そう思ってる?」と女は机の前にしゃがんだまま私の顔をじっと見上げるような態勢で言った。
「わからないです。もしかしたらそうかもしれないです。でも本当にわからないんです」
「あなたは結局、ここじゃない場所に行きたいって思ってる。ヒマワリが枯れればもしかしたら別の素敵な世界に行けるかもしれない。そんなことを考えてた?」
と言って女は私の左手を両手で握って、私に左のボタンを押させた。
再びカチッという音とともに左のスイッチが光る。ヒマワリは今度はわずかに高さを持ち、茎を復活させ上部にはヒマワリを思わせるシルエットを見せ始めた。
私は女の顔をじっと見ていた。
「わからないです。でも、言われるとそうかもしれません。私はここじゃない世界に行きたいと思っていると思います。そしてそれは・・・この世界に絶望しているからかもしれません」
女はもう一度私の左手を握ってボタンを押させた。私はもうヒマワリを見ることは無く、女の顔を見ていた。
「ここから、この部屋から出たいんだね」と女は言う。
「はい」
「それはあなたが元の生活を知っている変種だから?」女は首をちょっとかしげるような形でそう言った。
「わからない、です。この部屋での生活も私には良いものに思えてたんです。これは本当です。最近はそう思ってました。この部屋に来る男達とおしゃべりし、たまにボタンを押して。これはこれで良いじゃないかって思ってた気もします。なぜかはわからないんですが。・・・いや、よくわからない。あまり覚えてないです。だけどあなたが現れて、今はわかります。いえ、さっきわかったんです。もしも私が生き延びてこの部屋での生活を再びすることになってそれが私の希望かというと違う、という事が」
私がそう話す間、女は右手で頬杖をついてじっと私の目を見ていた。
私は考えを整理するかのように女にこう言った。
「要するに私は・・・私は、この部屋から出たいんだと思います」私がそう言うと女は「やっと自分が何考えてるかわかったね」と言ってニコリと微笑んだ。
「もう一度左のボタン押してみて」
今度は女の手を借りずに私一人でボタンを押した。が、スイッチは起動しなかった。
どうしてだろう?と私は言いながら何度か押してみたが、結果は同じだった。
「うーん。・・・信じてないから。信じてないからスイッチは動かない」と言って女は笑顔で私を見た。
「信じてないっていうのは、何を信じてないって事ですか?何を信じたら良いんでしょう?」
私は丁寧に尋ねた。女は苦笑いをしながらこう答えた。
「何でもいいのよ。信じるのは。それは好きに選んで良いんだけど、信じるってのが大事。信じてない人には・・・なんていうかな、エネルギーがないんだよね」
私は女の話の続きを待った。
「エネルギーがないとスイッチは動かない。信じてないってことは、なんていうかな・・・迷いがあるわけね。迷いがあるとスイッチは動かないし、反対方向の迷いが強い時は左のボタンを押しても右のスイッチが起動しちゃう」
「迷い、ですか。信じるってのは何を信じればいいんでしょうか?ええと、自分を信じるとか・・・そういう意味でしょうか?」
「自分を信じる?うーん。ちょっと違うような気もするけど、それでもいいかもしれない」と言って女は困ったような顔をした。
そして「一度自分を信じて左のボタン押してみて」と言った。
「やってみます」と言って私は何度も「俺はできる俺はできる俺はできる・・・」と声に出して言ってから左のボタンを押してみた。
カチッ。
・・・左のスイッチはほんのわずかに光ったかに見えた。が、私は右のスイッチも同時に光っている事に気づいた。
「あーだめだね」と言って女は笑った。
「自分は信じられないみたいです」と言って私も笑った。
「何でもいいんだよ。迷いがなくなれば。これでいいって思えれば」
女は優しい眼差しを私に向けた。私は生命力に溢れたその優しい眼差しをヒマワリのようだと感じた。
「じゃあ、あなたを信じてみます。あなたの言うことを、あなたの存在を」
と私は言った。女は「ナイスアイディア」と言って微笑んだ。
私は左のボタンを押した。カチッという音と共に左のスイッチはしっかりと起動した。
「お、いいね」と言って女は顔の前で両手を叩いた。
部屋の色が深緑色から代わりつつあるのを感じていた。窓の外のヒマワリはもはや黒い塊ではなくかつての健康な姿を取り戻しつつあったし、窓の外は星の出ていた夜が薄っすらと白み始め朝を迎えようとしてた。ロウソクのように溶けかけていた男達もジワジワと元に戻っているように思われた。
「じゃ、そういう事で」と言って女は立ち上がった。
「ちょっと待ってください!」
私は椅子から立ち上がって女を呼び止めた。女は私の声には反応せずにドアの方まで軽やかに歩いて向かっていた。私はもう一度大声で女に「待って!」と叫んだ。
「もっと聞きたい事が沢山あるんです!すいません!すいません!あのー」
私はできるだけ大きな声でそう言ったが女は反応しなかった。
女は右手でドアに手を掛けたときに一瞬振り向き、軽く左手を上げてにっこりと微笑み、部屋の外へと出ていった。
私は呆然とその光景を眺めていた。そして立ちすくんだまま閉じられたドアを長い間見ていた。
そこからどれだけの時間が過ぎたのだろうか。私はずっと立ったまま何も考えられずにいた。
窓から朝日に似た光りが差し込み始めると目の前で倒れていた男達がピクピクと動き始めた。窓を見やるとヒマワリはもう健康さを取り戻しつつある事がわかった。
私は窓をもう一度見た。
窓は開いたままだった。
私はその瞬間に自分があることを知っている事に気づいた。
なぜ私がそれを知っているのか、いつからそれを知っているのか皆目検討もつかなった。
「…ここから抜け出す方法を知っている」
私は小さくそう呟いた。
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