第7話 スローモーションのような何か

 窓からの光が一日の周期を表現するようになり、私はその日没と日の出の回数を数えていたが30回を越した辺りでもう数えるのをやめてしまった。


 毎度同じように窓からの光は日の出と共にゆっくりとその強さを増して行き、そして夕焼けのような燃える朱色をこの部屋にもたらした後に消えていった。

 私は日の出と共に目を覚まし、日が暮れると眠った。その間どれほどの日数が経過したのか、もはやわからない。数年という歳月が流れていたような気もするし、ほんの数ヶ月のような気もする。ただ30回までは数えていたので一月以上は経っているはずだ。


 その期間、時にスピーカーのアナウンスが、時に例の男達がボタンを押すように私を促した。私が押したのはほぼ全て左のボタンだった。


 黒いシャツの男は現れる度に私に右のボタンを押すように説得した。黄色いシャツの男もそうだ。が、概ねこの部屋に入り浸っていたのは白いスーツの男であり、その同士とでも呼ぶべき彼の仲間達だった。

 白いスーツの男の仲間達の服装の色は緑や赤と様々だった。私は思想や意見の違いが色を分けているのではないのだな、と思ったものだった。

 一日のよくあるパターンはこうだった。白いスーツの男やその仲間が私とこの部屋で他愛もない話をしていると、黒いシャツの男が入ってくる。そして左のボタンを押す弊害を強く語る。黄色いシャツの男がそれに加勢する場合もあった。彼らはボタンを押すタイミングが来る度に「これは危機だ」というような趣旨の事を語った。「我々に今危機が迫っている、右のボタンを押すべきだ。左のボタンを押してはいけない」

 「、右のボタンを押すべきだ」

 黒いシャツの男は真剣に何度も私にこう言った。

 それに大して白いスーツの男はそれがいかに非合理的な発想であるかを、やや横柄とも言える態度で語った。

「右のボタンを押そうが左のボタンを押そうが同じ事だ。。変わることがあるとすればヒマワリが苦しむか、苦しまないかだけだ」

と、これまで白いスーツの男達が主張し私も受け入れている意見を何度も語った。

 私はこういった口論を何度も聞く中で自分なりの一つの結論に至った。それはこういう事だった。

「ある一定の確率で、黒いシャツの男の言うは起きる。だがそれは左のボタンを押したからではない。。ならば私はヒマワリが苦しまない方を選ぶし、ヒマワリが苦しまない事が結局の所、我々が生き延びる事に繋がる」

 私は黒いシャツの男、そして時には黄色いシャツの男にこのように説明し、左のボタンを押した。


 私はこのような日々の中でいくつかの事に気づき始めた。

その一つは男達がこの部屋で口論を始めると決まってヒマワリが猛烈に疲弊していく事だった。ヒマワリにとって男達の口論は悪だった。私はその事に気づいてからは口論をできるだけ早く終わらせようと努めた。

 もう一つはヒマワリの変化のパターンだ。

通常、左のボタンを押せばヒマワリは瞬間的にその瑞々しさを取り戻す事が多いのだが、時には短期的に左のボタンにあまり効果が無いことがあった。


 一週間ほどヒマワリから生気が失せたように茎の色も葉の色も変色し黒みがかった事があった。その間当然のように黒いシャツの男は頻繁にこの部屋を訪れ右のボタンを押すように私に促した。私は少々思うところがあり、久々に右のボタンを押した。 するとどうなったか?

さらにヒマワリは萎れ、葉を落としたのだった。私は予想した通りだと思い、そこからは再び左のボタンのみを押した。

 左のボタンを押す度にヒマワリは一瞬震え、茎の色に緑色を吹き込んだ。そこから数日を要したがまた元の健康で瑞々しいヒマワリに戻っていった。


 私は白いスーツの男が立てた仮説に強い信頼を置くようになった。

  

 私は自分がになっている事に時折気づいた。

そしてそれはこの部屋に私が何の疑問も嫌悪感も恐怖感も感じなくなっている事を意味していた。

 私はボタンを押し、日が沈めば眠り、日の出と共に起きたがその事をつまらないとか退屈だと思わなくなっていた。

 一日の大半は部屋に来る白いスーツの男やその仲間達と他愛のないおしゃべりをして過ごした。空腹も、嫉妬も、恐怖も、不安もなかった。私はどんどん機械的になり、そして元の生活に戻りたいという事さえ忘れかけていた。



 そのような日々の中で、ある一日を私はいつものように過ごすつもりだった。

 窓からの光も優しく、穏やかだった。ヒマワリはここの所少し調子が悪いようで、色が悪化しているが気にならないレベルだ。

 ドアをノックする音がしてドアの方を見ると黒いシャツの男だった。いつものように深刻な表情をしている。私は「こんにちわ」と言って男に微笑んだ。

 男は礼をして「こんにちわ」と言って軽く咳払いをした。

そして「はい、今です。ボタンを押してください」と私に言った。

「・・・できることなら右を」と付け加えたが、私はいつものように左のボタンを押す。ヒマワリが一瞬震え、若干色の悪くなった葉や茎に波のような新たな生気がほとばしるのが見えた。


 黒いシャツの男は困った顔をして小さなため息をついた。

その後ふと何かに気づいたようにヒマワリの方を見ると、すぐに体全体を窓の方に向け、真っ直ぐにヒマワリを凝視し始めた。

男は声も上げず、体も全く動かさなかった。目を見開き、口が開いていた。

 私は男の視線を追ってヒマワリを見た。


 それはスローモーションのような何かだった。


 ヒマワリはまるで高速で年老いて行く人間のように猛烈な勢いで水気を失い、体全体を緑色から黄色、赤、黒と変色し、最後に、ボトリ、という音と共にその頭を地面に落とした。


「あ」


ドクン。

心臓が逆流したかのような衝撃が体に走る。

 胸の辺りを力一杯握りつぶされているような不快感がジワジワと拡がって行くと共に、脳内が悪い麻薬に浸されたように麻痺していった。

 数秒の後に部屋全体がまるでブレーカーが落ちたかのように一瞬で暗くなり、窓の外の光も暗闇に変わった。

 部屋の天井でパトカーの上に乗っているパトライトのような赤い回転灯が回りだし、ウーウーウーという大音量の警報が部屋に鳴り響いた。

「緊急警報緊急警報緊急警報・・・」天井からのアナウンスも流れ始めた。


「なんとかしろ!」

黒いシャツの男が叫んだ。

 赤いパトライトの回転灯が部屋をグルグルと赤く染め、ウーウーと唸る警報の大音量と私の心臓の鼓動音が部屋を埋め尽くした。



正面のドアが開き、黄色いシャツの男が「だから言っただろ!」と叫びながら入ってきた。

 黄色いシャツの男に続いてゆっくりと歩いてドアから入ってきた白いスーツの男を見つけるやいなや私は叫んだ。

「す、すいません!これ、どうしたらいいんですか!?」

部屋には警報が鳴り響き、緊急警報のアナウンスが続いている。私は声がかきけされないようにできる限りの大声でそう叫んだ。

 白いスーツの男はドアの入り口付近に立ち止まったまま動かなかった。現実を理解していないのか、それとも単に現実から逃避してるのか微笑を浮かべたままヒマワリを見つめるのみで私の質問には答えなかった。

 黄色いシャツの男は白いスーツの男の元へ駆け寄った。

「おいだから言ったんだ!大変な事になるって!お前の責任だ!お前がなんとかしろ!」

黄色いシャツの男は涙を流してそう叫んだ。

 白いスーツの男はふと我に返ったように、ヒマワリから視線を黄色いシャツの男に移してこう叫んだ。

「俺のせいじゃない!・・・断じて俺のせいじゃない!俺は最初からバランスよく押すべきだって言ったんだ!こいつが俺の言うことを理解できないバカだからおかしな事をしたんだ!こいつが勝手に暴走したんだ!」

白いスーツの男は私を指差しながらそう言うと、かけていた白いメガネを手で掴み、そして地面に力一杯投げた。

ドクン。

ドクン。

 速い速度で鼓動する心臓の音を聴きながら私は窓際へ駆け寄った。

震える手で窓に手を当て、その様子を観察する。

 ヒマワリの頭は地面に落ちている。

が、ように見えた。

急いで机に戻る。黒いシャツの男が目に入る。

 黒いシャツの男は微動だにせず私の方を見ている。

そして「右のボタンを押してみて、早く!」と叫んだ。

 私はどうすべきなのか分からなかった。ただ何かをしなくてはいけない事だけは分かった。

 ヒマワリとスイッチを均等に見張りながら、右のボタンを押した。

カチッ。

右のスイッチの箱が白く光る。

 すると、ヒマワリの体から黒い煙のような何かが舞い上がった。

私はもう一度窓に駆け寄り、ヒマワリの状態の変化を点検し、そして私の行動が失敗だったという確信を持った。

「明らかにさっきより悪化してる」と私は小さく言った。


 右のボタンを押してはいけない。これ以上押せばヒマワリは黒いススに化すだろう。左のボタンはどうだろう?左のボタンを押すといつも一瞬だけ生気が戻る。左のボタンを押せばヒマワリは助かるのではないか?心臓マッサージや人工呼吸のように。

 私は全力で机に戻った。


 机に戻りスイッチを目の前にして、ふとドアの付近を見やると白いスーツの男が仰向けになって目を開いたまま大の字に倒れていた。黄色いシャツの男は膝をついて咳をしている。私も息苦しさを感じ始めていた。

 グルグルと回転していた赤いパトライトのような明かりはいつのまにか止まっていた。「緊急警報」と繰り返していたアナウンスも、ウーウーと鳴っていいた警報も知らぬ間にその音を消していた。

 黒いシャツの男が小さな声で「もうダメだ」と言って床に膝をついた。


 私は祈るような気持ちで左のボタンを押した。


カチッ。


しかしスイッチが起動しない。もう一度押す。カチッ。起動しない。

恐怖が私の体を駆け巡った。

胃の下あたりが燃えるように痛い。腹の底から苦痛を生み出す何かが無限にドクドクと湧いている。

 私は声にならない叫び声と共に左のボタンを連打した。


カチッ。カチッ。カチッカチッカチカチカチカチ・・・・


私は左のスイッチの箱の部分を凝視しながら連打していた。

が、左のスイッチは光らない。起動しなかった。

私は、うわああああと叫びながらさらに連打した。

カチカチカチという音の中で私の右目の端に何か光る物を感じた。

 顔を右に向けると右のスイッチの箱の部分が光っている。

なぜだ?ちょっと待て、なぜ右が光るんだ?左のボタンを押しているんだぞ。

私は左のボタンを押す手を一度離し、その後もう一度左のボタンをゆっくりと押した。

カチッ。右のスイッチの箱が光る。

私は冷たい棒を頭の上から脊髄に沿って入れられたような感覚を感じた。

 ヒマワリに急いで目をやった。

ヒマワリはすでに大量の黒い煙を出していて、そこにヒマワリの面影は無く、ただの黒い集合体に形を変えていた。


 私は全身の力が抜けたかのように膝をつき、地面に土下座のような形で倒れ込んだ。そして「助けてください、助けてください、助けてください」と何度も叫んだ。

 私は以前男達に「ここに未練はない」と言った事を思い出していた。

ああ、俺は自分をわかっていなかったんだな、俺はこんなにも生きたいんだ、こんなにも生き延びたいんだ、こんなにも。こんなにも。知らなかった。知らなかった。生きたい。生きたい。

 呼吸がどんどん苦しくなって行き恐怖が増していった。そして恐怖の臨界点を過ぎたかと思うと同時に意識が薄れていった。



 ・・・目を上げると部屋全体が深緑のような色に変わっていた。

地面に倒れた男達はまるでロウソクで固められたように一部が垂れ、そして全体的には固形化していた。それは深緑色のロウソクのように見える。

 俺は死んだのだろうか?よくわからない。もう心臓の鼓動も早くなかった。

私は窓の方を見た。窓の外は暗いままだったが、それは先程とはうって変わって暗さだった。


夜?


 窓の外に星が見えたのだ。

それはこの部屋では今まで観たことのない光景だった。私は遠い昔、幼い頃に過ごした夏の夜を思い出していた。

懐かしい、両親がいて、友達がいて、無限に思えるほどの未来があって、まるで遠くから花火の音でも聴こえてきそうだ、と穏やかで心地よい気持ちが湧いてくるのを感じていた。

 よく見ると窓も開いていた。上下に開閉するタイプの窓の下のガラスが上に全開になっていた。


 例えようのない底知れぬ喜びと悲しみが同時に湧いてくるのを感じていた。

そしてそれ以上の事を考える事も、想像することも止めてしまった。



 その時、深緑色に染まったこの部屋の正面のドアノブが動いた事に気づいた。

私はドアの方に顔を向けた。

ドアがわずかに開き、そのわずかに開いた隙間から一人の人物が顔だけをスッと出した。


それは若い女だった。

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