第6話 未知の物として
眠りから覚めた時、目の前には白いスーツの男が立っていた。
彼は例のしわがれた声で私に語りかけた。
「こんにちわ。ご機嫌はいかがですか?僕の事、わかりますよね?」
彼は満面の笑みだ。私は「はい」とだけ答えた。
すると男は「おー」と小さく感嘆の声らしき声を上げた。
私は辺りを見回した。いつもの部屋の明るさ、窓の外には元気そうなヒマワリも見える。白いスーツの男は眠る前に見たのとほぼ同じ服装に思えた。
「そんなすぐには忘れませんよ。あなたはとても派手だから」と言って私は笑った。
それに対して白いスーツの男は何も答えずにこう言った。
「ボタンに関してですが、右と左どちらを押すことにしたかも覚えてる?」
「ええ、左を押していきます」
男は笑みを崩さずに何度も頷いた。そして「すごい」と何度か言った。
私は一人になりたかったが、白いスーツの男は部屋から出ていこうとしなかった。彼はうろうろと部屋を練り歩き、時折ちらりと私の様子を眺めた。
「あなた方は私を変種だ、って言いましたよね?どういう事なんですかね。悪い意味ですか?」と私は言った。
沈黙が嫌になったのか、ふとそんな質問が出てきた事に自分でも驚いた。
それに対して白いスーツの男は笑顔で返し声を出さなかった。
私は続けた。
「ここが夢なのか幻なのか、段々とどっちでも良くなってる気がするんです。ここに慣れてきた、というか・・・でもまだ元の生活に戻りたいって気持ちが強いです。あなた方に何と言われようと」
そのように私は下を向いて独り言のように語った。
白いスーツの男の顔から笑顔が消えた。
そして何かを迷っているような表情でウロウロと部屋の中を練り歩いていた。が、部屋の中央辺りで止まり、私の方を見た。眉間にシワが寄っている。
「あなたは変わったんです。それはさほど昔のことではなく、つい最近の事です・・・それまでのあなたは、我々が思う通常のあなたでした」
そう言い終わると白いスーツの男はまた部屋をうろつき始めた。
「私にそんな自覚はないです。気づいたらこの部屋にいてそれ以前の事はなにもわからないです」
私がそう言うと、男は返事はせずただ頷き、そしてこう言った。
「あなたは我々の言うがままにボタンを押すだけの存在でした。右を押すか、左を押すか、全て決めていたのは我々だ。我々、と言っても私ではなくあなたも知ってるであろう、例の彼らです」
そう言って白いスーツの男はドアの向こうを指さした。
「黒いシャツの方や黄色い服の方達ですね」と私は言った。
「そう」と白いスーツの男は小さく答えて続けた。
「我々はあなたに呼ばれないとこの部屋には入れない。僕や僕の同士がここに入る事はこれまでなかったんです。全て彼らに牛耳られていた。が、ここに来て全てが変化しつつある。これは驚くべき事、です」
白いスーツの男はまた立ち止まって私の方をじっと見た。あの屈託のない笑顔はそこにはなかった。
「ええと、ええと、一体何があったんですか?・・・ええと、私に」と、私は口ごもりながら言った。
「・・・とにかく、ある時を境にあなたはスイッチやヒマワリや我々を未知の物として認識するようになったんです。」
男は白く輝くスーツと共に、再びうろうろと部屋の中を練り歩きながらそう語った。 未知の物として認識?どういう事だろうか?
「ええと、つまりそれは一種の認知症のような、そういう事でしょうか?」
「認知症のようかどうか僕にはわかりかねるけども。あなたは眠り、起きるたびにスイッチやらヒマワリやらを未知の物として認識しました。が、今のあなたは眠った後もその記憶を保持している」
私は少し混乱をした。どういう事かよくわからない。眠り、起きるたびに未知になった・・・が今私はこの白いスーツの男を認識しているし、2つのスイッチもヒマワリも認識している。
私は男に尋ねた。
「その認知症みたいになっていた、その間私は気を失っていたとか眠り続けていた、とかそういう事ですか?」
「いえ、そうじゃないです。眠り、起きる度にまた我々からスイッチの仕組みを学び、そしてただただボタンを押していました。その後に眠り、そして起きるとまた振り出しに戻ったというだけです。スイッチも、我々も、ヒマワリもまたゼロから教えなくてはならなかった」
男はそう言って白いスーツのジャケットについた埃を二度払い、話を続けた。
「ですから彼らは」と言って男はドアの向こうを指さした。
「あなたが目覚める度に一から左のボタンを押さないようにあなたを誘導する必要があった。まあその嘘をあなたは見抜いたわけですけども」
そう言ってまた屈託のない笑顔を私に向けた。
私は男に尋ねた。
「それはどれくらい前の話ですか?長い間私はその、一種の、その認知症みたいな状態だったんでしょうか?」
「長い間・・・ねえ」と男は顎を触りながら笑顔でそう言ってこう続けた。
「長い間っていうのも不思議なんですよ。なぜならあなたに時間の概念があるわけがないんですから。それは我々だけが担うはずなんですよ。本来」
私は何も言葉が出てこないので黙っていた。
「ええと、わかるという前提で話をするとほんの二週間ほど前です。二週間。わかりますか?日が7つで一週間です。それが2つ」
男は真面目な顔でそう言った。
「もちろんわかります。2週間前、ですか。それまでの私はあなたの言うような通常の私で、あの黒いシャツの方の言うがままにボタンを押していたんですね」
「そうです。そして2週間前に突然未知になったんです。スイッチやヒマワリや我々の事を忘れてしまった。それ以前はスイッチやヒマワリ以外の事柄についてはあなたは全く知らなかったし、知ろうともしなかった。が、スイッチやらについてはよく知っていた。というかそれしか知らなかった」
「でも今は寝て起きても忘れる事がなくなって記憶を保持している」と私は言った。
「そうです。あなたは変わった。再び我々やスイッチを認識し始めそれを記憶した。それに加えてあなたは我々や、スイッチや、ヒマワリの仕組みを理解しようとし始めた。これが我々があなたを変種と呼ぶ理由です」
男はまた再び部屋の中をウロウロと歩き始めていた。ふとヒマワリを見やるとこれ以上なく健康な状態でそこにいるように思えた。私は椅子を後ろに少し傾け、意外な程くつろいだ気持ちで男の話を聞いていた。
男は話を続けた。
「あなたはヒマワリの苦しみを理解し、そこにある種の感情を持った。そして僕がこの部屋に入る事ができるようになった。そしてヒマワリと我々は同じ『我々』だと彼らに言ったわけです」
「はい」と私は小さく答えた。
「あなたがそういう判断をできたというのは通常では考えられない。なぜなら通常のあなたは何かを理解しようなんて思いませんから。最初にこの部屋を占領した彼らの言いなりになるだけだ。僕らみたいなのは一生ここには来る事ができない。一度この部屋に入り込んだ連中の言うことに疑問を持つなんて・・・ほとんど無い事です。
何が起きてるのか僕にはさっぱりわからないけど、きっとこれで良くなるはずです。あなたは左のボタンを押すし、ヒマワリはもう苦しまない」
そう言って男は満面の笑みを私に与えた。
私は黙って男の話を頭の中で整理していた。二週間前に以前の私は認知症だか健忘症だか、とにかくスイッチやらヒマワリやらの事を忘れた。その後今の私になって、それまでの私から変化していた、と。そういう事なんだろうか?
私は少し考えてからもっと根本的な質問を男にしてみた。
「そもそもここは何処なんですか?」
その問いに対して男は困ったような微笑を私に向けこう言った。
「正直に言いましょうか。わかりません。勿論、色んな事を言う人がいますよ。僕の周りでも。この世界は仮の世界で死後には天国みたいな別の世界に行く、とかね。そんなものは一切無くて死ねば全て無になるだけだ、とか。そのどれもが僕に言わせれば妄想の類だ。だって確かめようがないじゃないですか。だから僕はその手の質問にはわかりません、としか言わないんです」
彼はシニカルな微笑を含みながらそう言った。
話が噛み合っていないな、と私は感じた。
ここはここで彼らにとっては完結した世界なのかもしれない。私のいた元の生活と彼らの生活・・・いや生活と呼べるものがあるのかどうかすらわからないが、それは根本的に違うのだろう。
私のリアリティと彼らのリアリティはかなり異なっているのだろう。だから会話が噛み合わないのかもしれない。
そこで私はこう男に尋ねてみた。
「私の元の生活、ええと、ここに来る前の生活をしていた世界でも似たような事はありますよ。宗教だとか無宗教だとか。私が聞きたかったのは、ええと、いわば、私の元の生活とここ、例えばあなたの生活との違いなんです。ここは何処かってそういう意味なんですけど」
私は自分の話が上手く伝わるか自信が無かった。が、なんと言っていいのか思いつかなかった。
白いスーツの男は私のその言葉を聞いた後しばらく黙って、こう言った。
「そういう宗教だとかって言葉、誰から聞いたんですか?うーん。まさに変種だね。すごい」と言って彼は笑った。そして続けた
「申し訳ないですけど、僕にはあなたのその話も『僕にはわからない』、としか言いようがないんだ。ごめんね」と言い屈託のないいつもの笑顔を私に向けた。
私は何も言わずに頷いた。男は話を続けた。
「あなたを否定してるわけじゃないんですよ。ただ僕は僕らの知識ってのがとても狭いってことを知ってるわけ。少なくとも僕はそれを自覚してる。とても狭い。・・・あ、彼らは多分そんな事思ってないよ。あいつらは僕らよりも遥かに知識が浅いから」
と言ってドアの向こうを指差し笑った。
「僕は本当に限られた知識でしか判断していない。それを自覚してるから僕の知識を超えた何かに対しては慎重なわけ。つまり、『僕はわからない』、って言うしかない」
男はそう言ってまた微笑んだ。
その後他愛のない話をして白いスーツの男は部屋から出ていった。
しばらく後になってスピーカーから例のアナウンスが入った。
「・・・ボタンを押してください」
私は左のボタンを押した。予想通りにヒマワリは瑞々しく一瞬震えさらに真っ直ぐに力強く胸を張ったように見えた。
そしてもう一つ、ある事に気づいた。
窓からの光のその光線の明るさが薄っすらと弱くなっていた。
それは夕暮れの長い西日が消えて、これから夜が訪れようとする、空間全体を紫色に染めていくあの懐かしい光だった。
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