第5話 どちらを押しても何も変わらない

 その時、スピーカーから声がした。

「ボタンを押してください・・・ボタンを押してください・・・」

私はその呼びかけには一切のリアクションを起こさず、黒いシャツの男に向かって尋ねた。

「生き延びる確率とは、つまりは死ぬ確率と言ってもいいですよね?」

「はい。右のボタンを押すことが死ぬ確率を下げてるんです。それは明白なんです」

黒いシャツの男がそう言い終わると黄色いシャツの男は「左は死ぬ確率が上がるんだよ」と小さく言った。

「・・・ボタンを押してください・・・ボタンを押してください」

スピーカーから音がしている。私は窓の向こうのヒマワリを見やる。わずかに色が悪くなっている。ブルブルと震えるような動作も見える。

私は男達の顔をもう一度見た。黒いシャツの男も黄色いシャツの男も黙ったまま何も言わない。私は段々と考えが固まってきている実感を持ち始めていた。

 私は彼らの顔を凝視したまま左のボタンを勢いよく一度押した。

カチッという音とともに左のスイッチが光った。すぐにヒマワリに視線を戻すとヒマワリ全体が一瞬ドクンと振動するのが見えた。色が黒ずんでいた葉はジワジワとふわりとした黄色い健康的な色に戻っていった。


 私は男達に向かってこう言った。

「左のボタンを押すと、というのは嘘ですよね?」

私は男達のなんらかの反論を待った。が、彼らは沈黙したままだ。私は続けた。

「あの白いスーツの男が言う事が事実ならば、右でも左でもどちらのボタンを押そうがどちらでも良いはずです。。ただ右のボタンを押せばあのヒマワリは苦しむし、左のボタンを押せばヒマワリは苦しまない。ただもしそうならば問題はなぜあなた方が右のボタンを私に押させたがるのか?、です」

「その答えは何度も言ってます」と、黒いシャツの男は返答した。

「あなたは左のボタンを押しても大変な事にはならない、と言う。そして、『』とまで言う。あの男の嘘に騙されているんです。大変な事は起こります」

「それは確率ですか?」と、私は尋ねた。

「そうです。確率です。あなたがボタンを押す時、可能性を叩いているんです。左のボタンを押すなら我々が死ぬ確率は上がるんです。右ならそうではない」

黒いシャツの男は両手を使って私に向かって懸命に語り、こう続けた。

「確かに左のボタンを押せばあのヒマワリは苦しまないでしょう。ですが、ね。右のボタンを押せばを避けられる、だから右を押すんです」


 私は考えを整理した。

左のボタンを押すなら我々が死ぬ確率は上がり、右のボタンを押せばそうではない・・・本当だろうか?いやまて、本当に思えてきた。ではあの白いスーツの男が嘘をついているという事になる。

 私は黒いシャツの男にもう一度尋ねた。

「あなたは以前『右のボタンを押しすぎてヒマワリが枯れても我々は死ぬ』、と言いましたよね?右のボタンを押せばヒマワリはダメージを受ける、ダメージが増えれば枯れるんじゃないですか?もしも我々が生き延びる事が目的なのであれば右のボタンを押すことは合理的じゃない。左を押すべきだ」

今度は黄色いシャツの男がそれに返答した。

「だから、ちょっとやそっとじゃ枯れないんだよ。枯れる心配よりも、左のスイッチ起動して起きる『大変な事』の方がヤバイんだよ・・・」

黒いシャツの男がそれに続けた。

「そうです。枯れる事は滅多にない。相当なレベルで右のスイッチが強く、連続して起動した場合は別ですが枯れません。それは我々がよく分かっています。というか。それはあなたの範疇には本来ないんです。あなたは変種なのでこのようなことが起きたとしか思えない」

「変種、ですか。私が?」

黒いシャツの男は黙って頷いた。


 部屋に差し込む光はこれまでと同じような角度と明かりを持っていた。光りが部屋のホコリを照らしそこに機動的な模様を作り出している。私は窓の外のヒマワリを見た。逞しい黄色い葉と緑の茎を持っている。

 その時、私は窓が事に気づいた。

二枚上下に並んだ、上げ下げで開閉するタイプの窓の下のガラスがわずかに上へ上がっている。いつの間に?誰が?

 私は椅子から立ち上がり窓際へと歩いた。わずかに開いた窓にはやはりレバーもなく動かしようがない。わたしは少し屈んで窓から入ってくる外界の空気に顔を近づけ、そこから時折入ってくる風を感じた。

 その間もずっと我々は沈黙していた。

男達も私も口を開かなかった。

私はゆっくりと椅子に戻りながら考えを整理しようと努めた。


 確率、可能性。

我々の目的は生き延びる事。

そのための確率がある。

我々が死なない確率を上げるためにボタンを押し、そして一方はヒマワリを苦しめ、一方はヒマワリを苦しめない。

ヒマワリを苦しめるその対価は『我々の生存確率』だ。

 ここまで考えた時にある考えが浮かんだ。

それは、『我々』とヒマワリは別なのだろうか?『我々』の中にヒマワリは含まれるのではないか?という考えだった。


 私は黒いシャツの男にこう語りかけた。

「あなたはヒマワリが完全に枯れてしまえば我々は死ぬ、と言いましたよね?」

黒いシャツの男は平静に答える。

「ええ。言いました。これも同じことの繰り返しですが、滅多なことではアレは枯れない」

「待ってください。ヒマワリが枯れて我々も死ぬのであれば、『我々』とヒマワリは同じ『我々』ではありませんか?分けることはできない」

私がそう言うと黒いシャツの男と黄色いシャツの男は顔を見合わせた。


 その時ガチャリとドアノブが動き、また白いスーツの男が部屋に入ってきた。

黄色いシャツの男は舌打ちをし、黒いシャツの男は天を仰いだ。

「はいはい、お二人さんはもうここから出ていった方が良い」

相変わらずの屈託のない笑顔で白いスーツの男は黒いシャツの男と黄色いシャツの男に言った。黄色いシャツの男は小さな声で「お前が出ていけよ偽善者」と言った。

 その言葉を完全に無視するように白いスーツの男は私の方に歩み寄りこう言った。

「いやー握手できないのが残念だ。『我々とヒマワリは一体である』ってのは僕達が常々この人達に言ってきた事なんです」

そう言って白いスーツの男は二人の男の方を一瞥した。

私は白いスーツの男が言った『僕達』という言葉が気になった。彼らは派閥のようなものを形成し政治的な闘争をしているのだろうか?

白いスーツの男はまるでポエムを読む陶酔した男のように語り始めた。

「だが彼らは分かろうとしない・・・彼らは自分たちが生き延びる事しか考えていない。ヒマワリと自分は別だ、ヒマワリがどうなろうと構わない・・・そうじゃない!『我々』という言葉の中には当然ヒマワリも含まれる!ヒマワリを苦しめて良い道理がないんだ!」

白いスーツの男は真剣な表情でそう語ったが、よく見るとどこかシニカルな微笑が残っていた。

 私は白いスーツの男に尋ねた。

「左のボタンを押してもにはならない、とあなたはおっしゃいました。しかしこの二人はそうではない、と言います。正直言いますと、私にはどちらのサイドも嘘をついてるようには見えないんです」

これに対し黒いシャツの男が大きな声で答える。

「大変な事は起きます!あなたは分からないかもしれないが、我々には分かる。十分に分かる。もちろんこの男もよく分かってるはずですよ」

そう言って白いシャツの男を指さした。

白いスーツの男は黒いシャツの男に答えた。

「妄想だよ妄想。全てあなた達の妄想。じゃあ聞くが、あなたはそのが起きたのを見た事がありますか?」

白いスーツの男は明らかな侮蔑の表情を黒いシャツの男に向けた。まるで自分はお前などより遥かに賢く上等である、とでも言うように。

 黄色いシャツの男が割って入った。

「起きてからじゃ遅いんだよ。それはあんただって分かるだろ?」

そして言い終わると大きなため息をついた。


 私は混乱を覚え疲労を感じていた。目の上あたりに鈍痛がある。眠りたい、と思った。窓の方に目をやると、いつの間にかわずかに開いていた窓は閉じていた。


 私は力を振り絞り、白いスーツの男にこう尋ねた。

「もしも左のボタンを押して、彼らの言うようなが起きたらあなたはどうしますか?」

「起きません。本当に、起きません。妄想です」

白いスーツの男はいつもの屈託のない笑顔でそう答えた。

「それでも起きたらって話です。すいません。今まで起きた事がないし、これからも起きないかもしれないってのは私も理解してるつもりです。でももしも起きたらっていう話です。可能性の話です。ボタンを押す事は可能性を叩く事ですよね」

 私がそう言うと白いスーツの男から笑顔が消えた。

そしてしばし私の顔をじっと見つめた。

「・・・面白いね」

そう言って再びいつもの笑顔に戻ると白いスーツの男は黒いシャツの男の顔を見た。

「そういう事って、ほら、もしもどうしたとかってのは我々の仕事なのに、この人がそれを言うんだからね。変種だって聞いたけど、まさしく変種だね」

黒いシャツの男は白いスーツの男の方を見ようとしなかった。

私は黙って私の質問への返答を待った。

白いスーツの男は私の方に向き直し、続けた。

「もしもってのは僕は嫌いなんだよね。そんな事言ってる奴らは殴りたくなる」と言って黒いシャツの男を一瞥し笑った。

「でも、あなたがどうしてももしもの話がしたいなら、言いますけど・・・そうですね、その時は諦めて死ぬかな」、と言って大きく声をあげて笑った。

 黒いシャツの男は白いスーツの男を睨みつけた。黄色いシャツの男は「偽善者」と呟いた。


 私は彼らの発言を聞きながら、ふと窓の外のヒマワリを見た。茎は明らかにさっきよりも細くなり、葉の色も悪くなり、頭を下へ下げていた。このわずかの間にずいぶんと疲弊したように見える。が、スピーカーからの音はなかった。

私はヒマワリが苦しんでいる時にボタンを押すように指示されるわけではないのだな、と判断した。もっと別な要因が関係しているのだ。


 私は男達に向かって静かにこう切り出した。

「大体分かりました。私は・・・左のボタンを押していこうと思います」

黄色いシャツの男は顔面蒼白になり大きなため息をついた。黒いシャツの男は微動だにしなかった。白いシャツの男は意外なほど無表情でそこに笑顔はなかった。私はそれが一瞬気になったがこう続けた。

「はっきり言いますと、私は元の生活を知っているんです。ここの生活がずっと続くってのは私には悲劇なんです」

黄色いシャツの男が「元の生活?なんだそれは」と言った。

 私は続けた。

「元の生活です。会社に残してきた仕事もありますし、それが気になってます。友達もいますし、親や兄弟もいて気になりますし、好きな趣味とかもありましたよ。食べたい物を食べる事もできましたし、旅行にだって行けた。要するに自由があったんです。ここにはそれがない。ここが夢か幻か未だによくわからない。けど食欲すらないし、やることはボタンを押して眠るだけ。私は元の生活に戻りたいんです」

 私がそう言うと、白いスーツの男は「変種・・・」と呟いた。

黄色いシャツの男はとても小さい声で「信じられない」と言った。

「ですから、私は左のボタンを押すことにもう決めました。とにかくあのヒマワリが苦しむ姿を見たくないし、もしもあなた方のおっしゃるが起きたとしても・・・別に良いかな。に未練ないです」

 私がそう言い終わると黒いシャツの男は何も言わずにドアの方へと早足で歩き出し部屋から出ていってしまった。黄色いシャツの男もその後に続いた。私の方を一瞥もしなかった。白いスーツの男は私に向かって拍手をしてどことなく寂しげな表情で「ブラボー」と言った後で部屋から出ていった。

 私はしばらく窓の外のヒマワリを眺めた後、何も考える事ができなくなり、椅子に深く腰掛けて眠った。

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