第2話 生き延びたいたいなら

 男が去った後、私は椅子から立ち上がりドアの元へ駆け寄った。

すばやく乱暴にドアノブをひねってみた。押してみても引いてみてもドアは動かない。閉じ込められている。

途端に心臓がドクドクと鼓動を始めた。これは何らかの犯罪に巻き込まれたと思わざるを得なかった。

 後ろを振り返ると窓からの日がまだ残っていた。その光は2つのスイッチをわずかに照らしている。

男はハッキリとそう言った。その言葉の残滓が右耳に残っている。

そしてこの脳裏に刻まれた音は今後ずっと消えない、という漠然とした予感が湧いた。

 私はとにかく落ち着くことを最優先に考えた。もう一度スチール製の机に戻り椅子に座って、何度か深呼吸をした。

が、心臓の鼓動が収まることはなく、肩の辺りにジワリとした痺れを感じた。頭の中は相変わらず麻酔をかけられたかのように痺れていた。

 その時頭上から音がした。

「・・・テス、テス、今すぐにボタンを押しなさい」

 見上げると天井にはスピーカーが備え付けられている。そこから男の声がした。

「ボタンを押しなさい」

もう一度スピーカーから声がした。

「生き延びたいならボタンを押しなさい」

今度は早口だった。


 


一体どういう事だ?生き延びたいならボタンを押せ?

私は右手を机に伸ばし右側のボタンを押した。

 カチッという音とともに今回も黄色い箱の部分がわずかに光った。

が、また何も起きない。

私はもう一度右側のボタンを押した。カチッという音と光。同じだ。何も変化がない。

 スピーカーからマイクをつけるような音がして、すぐその後に再び男の声がした。

「えー、あー、とにかくしっかりボタンを押すように。生き延びたいのならとにかくボタンを押すことだ。」

私はその声を聞き何度も右側のボタンを押した。左側のボタンは前回の男のセリフが脳裏に焼き付いていたため押すことはなかった。

理由はよくわからない。が、従うしかない。私は生き延びたいのだ。

私は右側のボタンをおよそ一秒間隔で押し続けた。

 ガチャリという音がして、再び正面のドアノブが動いて私はそちらを見た。

また前回と同じ男だ。今度は服装がちょっと違う。黒いチノパンに黒いTシャツ。黒いスニーカー。黒ずくめなのは同じだった。

前回と同じように丁寧にドアを閉め、また部屋の中央まで進み、そこで立ち止まった。

「えー、右のボタンを押すのは結構な事です。もちろん左側のボタンを押すのも時には結構な事かもしれませんが」

男はハッキリとした口調でそう言った。

「すいません、あのー本当にすいません。ちょっとまってください。お金目当てとかの誘拐なんですか?だったら人違いだと思います。私はただのしがないサラリーマンです。財産とかそういうのは」

男は私の話を遮るように右手の掌を私に向けた。

「いいですか?右のボタンを押すのは結構な事です。ですが、押しすぎると場合によっては死にます」

男は当たり前だろ?という顔で私を見た。

「どうしたと言われましても。押しすぎるとダメという事ですか?」

私は小さくそう答えた。

「左のボタンは押せば、当然死ぬ確率はグーンと上がります。場合によっては即死だ。それも周知の事実だ。大変な事になる。さっきのあなたは左のボタンを押した。場合によっては死んでましたよ。だからといって右のボタンを押し続けても、左よりははるかに確率は低いですが場合によっては死ぬ。さっきのあなたのようにあんな間隔で押すのは余程の時以外は控えるべきだ」

男は両手を広げてまるでIT企業の経営者が演説するかのように語った。

「わからないです。あなたが何を話してるのかわからない。どうしたら良いんですか?」

私は意外なほど冷静にそう答えた。

「ボタンを押せばいいんです。ただそれだけです」

男はしかめ面でそう言った。両手を今度は背の後ろで組んでいた。

「ちょっと待ってください、本当にわからないんです」

私は椅子から立ち上がってそう言った。ここで何かしらの行動、例えば椅子を持ちあげてこの男に投げつけるなどの行為をすることも考えたが、このアジトにこの男一人である可能性はとても低いと思えた。集団でいるはずだ。それはやってはいけない。ここは従うしかない。

「あなたはわからない、わからない、と言う。わかりたいんですか?つまり、理解したい?」

男は冷たい声でそう言った。

「そうです。わかりたいんです」

「・・・なぜですか?あなたはただボタンを押せばいい。ただそれだけです。ボタンを押し続ければいい。左右どちらかのボタンを。何かを理解する必要がありますか?」

「待ってください。一体ここはどこなんですか?犯罪とかじゃないんだったら電話したいんですけど、お願いします。」

と言って私はズボンのポケットを探ったが持っていたはずのスマートフォンがない。財布もないし家の鍵もない。

男は私が懸命にスマートフォンを探す様子を眺めつぶやくようにこう言った。

「あなたはここはどこか、と言いましたね?」

「はい。どこなんですか?」

私は大きな声でそう言った。

男は怪訝な顔で黙って私を見つめている。

まるで、どうしてそんな事に興味を持つのだろう?とでも言うように。

「あなたのすることはボタンを押すことだ。そうだよね? ここがどこかなんて知る必要がある?どうせ忘れてしまうのに?」

 私は男の口調が変わっている事に気づいた。

「私はボタンを押すことしかできないんですか?ボタンだけ押していれば命を助けてくれるってことなんでしょうか?それに何の意味があるんですか?」

 ふと私はなぜかこの目の前の男に親近感のような物を抱いているのを感じていた。

彼は私と年齢も近いし、背丈も同じ位だ。特徴のない顔、特徴のない髪型、そういった点も私に通じるところがあった。

「あなたはボタンを押すことしかできない。当たり前じゃないか。そんなことを疑問に思うなんてあなたはどうかしてる。何の意味?どうしてそんなことを考えるんだ。あなたと話していると私も混乱してくるよ。とにかく私は私の任務は果たした。あなたに忠告した、あなたはボタンをただ押せば良い。・・・右のボタンをね」

男はそう言って私に背を向けてドアの方に向かって歩き出した。

「ちょっとまってください。聞きたい事がまだ沢山あるんです!」

そう叫んで私は男に駆け寄り彼の腕を掴んだ。いや、掴んだような気がしただけだ。実際には私は男の腕を掴む事はできなかった。それがなぜかはわからない。夢の中で掴んだ何かのように、彼の腕を実際に掴むことはできなかった。そしてそれが掴めない事は当然である、と私の心の奥底が語った。私はそれが掴めない事を知っている、そう感じた。

 男は一瞬振り返り、厳しい顔で私にこう言った。

「ボタンを押すことを絶対に忘れるな。生き延びたいならな」

そしてドアは閉じられた。

私はしばらくその場で立ち尽くし、ゆっくりと後ろを振り返った。

窓からの光が柔らかくスチール机とスイッチを照らしていた。

最初に男が来た時と光の位置が変わっていない。

「時間が経過していない」、と私は小さく呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る