第27話 カルアミルク

 眠らないコンクリートジャングルから光が奪われたら


 人は人を想うことができるのだろうか


 闇に包まれた世界で人は


 月の光だけを頼りに


 何処へ向かうというのだろうか


 ビルの屋上に立つ僕に誰も気づくまい


 地上という闇に引き寄せられた僕を


 月は照らしてくれるだろうか


 月が僕を見ているのではない


 僕が君を見ているのだ


 手の届かない月に想いを寄せるのは自由なのかい


 それとも月を我がものの為だけにしたい想いは


 全てを敵に回すということかい


 それで君に届くなら


 全てを受け入れよう


 地上という闇に触れるまで


 君は僕のものだ


 何故ならもう誰も僕を止めることはできないからだ


 その刻が過ぎた後も


 月が僕を見ているか


 確かめることもできず


 僕はを閉じる


 


 ラジオから流れてきた朗読のコーナーが丁度終わったと同じくして運転手が着いたと振り向いて運賃を要求する。


 自宅兼会社のビルに戻ってきたが時刻は既に九時を回っていた。


 タクシーから降り会社がある二階を見上げると電気が付いていた。


 あの後、曜子の家を出て駅まで歩いて行ったがその後の記憶が曖昧だった。電車には乗ったが降りる駅を乗り過ごしたり駅のホームで暫く居たかもしれない。虚ろな状態で駅や交差点をなど事故をしないで帰宅できたものだと思う。


 そのまま自分の部屋に帰ることもできたが、事務所に顔を出すと居たのはやはり所長だった。


「まだ仕事してたのですか?」


「ちょっとな。だけどもう終わるところだ」


 仕事に集中してるからか、俺の顔つきがいつもと違ったからなのか曜子にペンダントを返しに行ったことは聞いてこなかった。


「今日、飲みに行くんだろ?先に行っててくれ。直ぐ行けるから」


 退社する時に誘ってくれたのを覚えていたのだろうか、不甲斐ない顔をしている俺を気遣ってかわからないが、考えておきますと夕方言った事を後悔した。


 人は何故、言っても仕方ない愚痴や文句を他人に言うのだろうと正直見下していた。グチグチ言う人に限って自分は正しいと思っている。だったら本人に言えばよいではないか、改善すれば良いではないか。


 結局言えない相手だったり相手にされていない現状、打開策も無いだけなんだろうと、常々思っていた。


 自分がその立場になってやっとわかる。人は誰かに聞いて欲しいのだ。自身がその不満を溜め込んでいる事の限界を察知して吐き出そうとする防衛本能のようなものなのだ。


 曜子の問題を自分一人で抑えきれないのを自覚したのか、俺は涙を流した。


    ※


 この店に来るのは今日で三回目だったかなと「BAR PRELUDE」と書かれた電飾看板を見ながら思い出していた。


 初回は梓さんと三人で、二回目は所長と二人だけで来たのだが、その時も店内はガランとしていた。


 廃れた商店街から少し歩き、繁華街から身を潜めるような場所にあるそのバーはマスター一人で切り盛りしていたが、充分と言える程しかお客はいつも少なかった。


 今日は見渡しても他の客はいなかった。奥に年季の入ったテーブル席が四つあるが開店前のように静かだった。壁に貼ってあるポスターなどが時代を感じさせてくれる。


 奥の角に置かれ店内をジッと見つめてきたような観葉植物、モンステラの大きさがこのバーの歴史の長さを物語っているようだった。


「いらっしゃいませ」


 カランカランとレトロな喫茶店を想像するような鐘の音が鳴り、新たな客が入ってきたのがわかるがおおよその予想通りそれは所長だった。


「まだ注文してないのか?今着いた?歩き方忘れたか?マスター、俺はいつものとカツサンド。ウタルはマスターのお任せで」


 かしこまりましたと言ったマスターはカウンターに座る俺たちを残して裏のキッチンに消えていった。


「どうした?渡せなかったのか?」


 小さく頷きながら俺は何から言えば自分の感情を抑え気味に説明できるのだろうかと、考えながら言葉は浮かばず頷くしかなかった。


「違うんですよ、違うんです」


 自分を落ち着かせるために言葉を発し、事実を受け止めれず拒否しようとする自分を否定する。違うんですとしか言えない俺が落ち着くまで所長は黙って頷きながら聞いてくれていた。


「ジンです。こちらはカルアミルクです」


 お疲れ、とだけ言って所長はジンを飲み、俺はグラスを握り揺らしながら呼吸を整えていた。


 コーヒーリキュールを多めにしたカルアミルクは俺の喉を通り適度な甘さで落ち着かせてくれた。


「……曜子、家に行っても居なくて」


 事の成り行きを話してから曜子の病気と寿命の事を伝えた。


 言葉にするだけで現実を目の当たりにするようで苦しくなる。父親もあの時こんな苦しい気持ちだったのだろうと考えただけで現実逃避したくなる。


「俺達のやってる事は無意味なのでしょうか?悪事を働く奴らを成敗しても、病気や事故で命を落とす人は絶えないんですよ」


 事実を聞いてから無気力になった自分をさげすむ気持ちで出た言葉だった。


「大切な人が目の前で病んでいくのに無力だからと言って何もしなければ一生後悔するぞ。無力でも何かできるはずだ、それを探して全力でするんだ。お前が今から医者にでもなるのか?違うだろ?お前にしかできないことをするんだ。懈怠けたいの心を払拭しろよ」


 いつもと違う真剣な所長の言葉に俺は考えさせられた。今の俺にできること……。こないだまで順調と思っていた日々の生活が一変して地獄に落とされた気分だった。その俺にできること。簡単な答えがパッ出てこない時のもどかしい気分だった。


「殺人を犯す奴が事前に分かり成敗できれば良いがそうも上手くいかない。だが、今俺達がしてる事を続けることで救われる人がいる。その人がどこかで誰かを救ってくれるかもしれない。それがいつか回り回ってお前の大切な人を救ってくれるかもしれない、と信じて行動するんだ。」


 世の中は数珠つなぎで動いている輪廻なんだと所長は言った。世の中は繋がっていて、誰かの為でも世の中の為でも間接的に誰かを救っていずれ自分に返ってくるのだと言う。


 誰かの悲しみがいつか自分の悲しみになり


 誰かの幸せがいつか自分の幸せになる。


 飲み終えたグラスを置いて同じものを注文する所長はカツサンドに手を伸ばしながら言った。


「人は死ぬまで生きなければならない。食べなきゃ死ぬしな。自ら命を絶ってはいけないんだよ。神に与えられた命は大切に育てていかなければならない。しかし、どんな良い人でも死は突然やって来るし、どんなに悪い人でも長生きすることもあるだろ」


 認めたくはないがそれが現実なのだから仕方なかった。グラスの中で混ざり合うリキュールとミルクを見ながら話しの続きに耳を傾けた。


「神が意地悪で人を殺しているんじゃないんだ。神は万能だからサイコロの一を永遠に出すことだってできる。だが、その事だけに神経費やすわけにはいかないんだ。神でもほんの一瞬気が逸れた時に一以外の数字になる。それが人間界の突然の死なんだ。だからと言って誰も恨んではいけない。常に我々は神の掌の上で生かされているだけなんだよ。その事に納得出来なければ、神に反逆するしかないさ」


 出てきたジンを半分まで一気に飲んでカツサンドを平らげた所長はいつもの笑顔に戻っていた。


 


「ウタル、お前は今人生で最悪だって思っているだろ。周りの人より誰よりも不幸だって思っているだろ」


 全くその通りだった。知らない誰かなら良かったということではないが、なんであんなに元気で勉強も頑張っているのに病気に侵され死んでいかなければならないのだ。考えただけで俺は人生最悪のショックだったんだ。


 一年持たないかもしれないと言われている曜子の気持ちを考えると、一日一日が本当に貴重な一日になってくる筈だ。


 俺が無駄にしたニート時代の二年間をあげれるならあげたい。俺はなんて無駄な時間を過ごしてきたんだと自分自身を責めていた。


「人生、今より悪い事が起こるかもしれないし、今が最悪でこれから良い事ばかり起こるかもしれない。一番いけないのは過去を後悔ばかりして前を向かないことなんだぞ」


 慰めの言葉がみるが、切り替える力が俺には足りない。


「悪い事が起こった時こそ、これから良いことが起こるという気持ちを持つ。良いことが起こった時こそ、心引き締めて悪い出来事に備える。このことわざ、なんて言ったっけ?」


 所長はド忘れしたのだろうか、マスターに聞いたが教えてくれない。


「頭の運動だと思って思い出してみてください」


 マスターはそう言ってグラスを拭き続けていた。


「けど死んだら意味ないじゃないですか」


「そう人も、神でさえもいつか必ず死ぬんだよ。イザナキとイザナミから愛が生れた代償として死からは免れないんだよ。俺やウタルが今日死なない保証は一切ないんだぞ。明日死ぬかもしれないんだぞ。だから死ぬまで精一杯生きる、そして死なないように日々努力して生きることが大事なんだ」


 死んでしまっては、それから良いことが起こっても意味がない。じゃあ曜子は今、意味のない人生を送っているのだろうか。あんなに元気で看護師になる為に勉強も頑張っているのに。


 何の為に?曜子は何の為に頑張って勉強してたのだろうか?自分の寿命に逆らっているのか?俺は頭が回らず訳が分からなくなってしまった。


「いつ死ぬか、それは人それぞれだが死ぬまでにどう生きてきたのかが重要なんじゃないのか。曜子ちゃんは短くても人生を全うしようとしてるのかも知れないな」


 死ぬのに普通の女子高生として生きることを選んだっていうことなのか。


「じゃあ今のお前が曜子ちゃんの為に何ができるのか?本当に死ぬのか?助かる道は無いのか?生きる希望を与えるのか?」


「……俺に、今、出来ること……?」


 “W”は今まで通り退治して、それは間接的に曜子を救うことであって、直接、曜子の為にできることを考えた。


 曜子が大学受験合格が希望なら家庭教師としての手助け。


 両親との歪を取り除くこと。直島に旅行に行くこと。病気の事を聞く前と同じ事をするのが曜子が今を生きてる証拠になるのか。


「突然の死の方が受け入れられないものなんだ。お前が今日死んだら曜子ちゃんは悲しんで、今よりもっと絶望感じるだろうな。そうさせないのもお前にできることの一つだ。」


 ジンの入っていたグラスに水滴が付いて氷が解けていくことで、今も時が流れていることを感じた。


 人は泣いた数だけ強くなれるという。


 辛い時、悲しい時に泣けるのは子供の特権なんだと。


 思いっきり泣いていいんだ。恥ずかしがることはない。


 泣くことによって、悲しみを乗り越え易くなる。


 辛さや悲しみは全て、涙で流せばいいんだよ。


 俺みたいに、泣くことを忘れた大人になんかなるんじゃないぞ、と言ってトイレのある方に歩いて行った。


 なにか昔の出来事を思い出しているかのようだった所長はどこか悲しそうな眼をしていた。


 


「元気ないのはお腹が空いてるからじゃないのか?」


 トイレから戻った所長はいつも通りだった。言われみれば夕方にケーキを食べたっきりで空腹だということに気付いたとたん、所長のカツサンドが無性に美味しく見えた。


「旨いぞ、ここのカツサンドは。メニューには無いんだがな」


 そりゃそうだろう。バーでカツサンドを食べる姿はミスマッチに感じる。だけど注文して普通に出てくるくらいだから所長はよく頼んでいるのだろうとわかる。


「お前も食えよ。マスター、ハムサンドお願い」


「いや、カツサンド注文させてくださいよ」


 マスターはニコリとして俺の頼んだカツサンドを作りに裏のキッチンに消えて行った。途中、カツサンドにはカルアミルクよりこっちが合う、と言ってジンを二つ追加した。相変わらずよく飲む人だ。


 


 カツサンドが出るより早く所長の電話が鳴った。


 『日比谷君、遅くにゴメン』


「おぉ豚平とんぺい、いつもの所でお前の同僚を食べてたところだ」


 カツサンドのことを同僚と言わないでもらいたい。今から食べるのは俺なのだから。


「例の取引が今夜……わかった、難大なんだいコンテナ埠頭ふとうの第八倉庫だな」


 電話を切ったところで丁度カツサンドとジンが二つ出てきた。電話の相手が豚平ぶたひらさんだとは分かったが、カツサンドを一口食べ、落ち着いてから何かあったのですかと尋ねた。


「あぁ、食べながらでいいからゆっくり聞けよ。俺がずっと追ってた麻薬組織の密売取引が今夜行われるって情報が豚平とんぺいから入ったんだ」


 麻薬取引と聞いて一瞬、カツサンドを食べる手が止まった。かなり危険な案件だということが聞いただけでわかる。


 警察に通報しても無駄のようだった。市民からの通報で動く警察の規模で取り締まれる案件ではないこと。


 発砲に躊躇する日本の警察では逆に警察が危険であること。


 それは麻薬組織が拳銃を持っているのが確定しているようなものであると同時に、確実に殺しにくるということでもあった。


「"W"が浄化されたら後で自首すると思うが、豚平とんぺいの知り合いに鯱島って刑事がいるから、処理した後はその刑事のお手柄になるんだがな。持ちつ持たれつってやつだよ。その刑事も単独で動けないっていうのは不便なことだがな」


 組織というものは、大きくなればなるほど小回りが利かなくなる。その典型的な例が警察組織だと所長は言った。有望で正義感の強い警察はマタジに転職すれば良いのだと漏らしたが、本音かどうかは定かではない。


「もしかして、この一件があるかもしれないから、事務所に残っていたのですか?」


「どうかな」


 絶対そうであると確信させるような返事だった。


 酒の弱い俺は、カルアミルクを全部飲んでしまったことをこの時後悔したのだが。


 それに、今夜の所長は随分ジンを飲んでいるのだが大丈夫なのだろうか。今夜は曜子のことで生死についての話しもしてくれた……。


 これが死亡フラグにならなければ良いのだが。


 俺の嫌な不安は暗闇に消えて行くことになった。


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