第26話 神話のカケラ

 木曜日、昨日の雨も上がりアスファルトからの熱気が夏を感じさせる。


 涼しい風が吹いて気持ち良かったので朝から隣駅近くの公園までランニングをしてきた。


 人がまばらな街の風景は早起きのご褒美のように周りの空間を独占させてくれる。


 並木の影を走れば心地よさが丁度良い。常連らしきランナーも走りやすいコースを熟知しているようだ。


 事務所に戻ってからいつものように所長との訓練で、普段のキレが戻ってきたと言ってくれたのが嬉しかったが新しい技はまだ教えてくれなかった。


 曜子からあれば丁度良かったが、相変わらず連絡はなかったのだが昨日豚平ぶたひらさんから預かったペンダントを返しにいく口実が今日はあるからだろうか、朝から調子が良い。


 俺でもまだ壮大すぎて半信半疑な部分があるくらいだが、説明して曜子はなんて思うのだろうか。


 自分の御先祖様が代々受け継いできた物が月の欠片だったなんてロマンチックという言葉で片付けるかな、と思うと口元が自然と緩んでしまう。


 器が大きいのか深く物事を考えない性格なのか。既にそんな印象を俺の中に植え付けていること自体に驚きなのだが。


 初めて出会ってから一週間会わなかったことが無かったことに昨夜気付き、久々に会える事がこんなに心が弾むような気持になるとは思ってもいなかった。


 返すペンダントが無ければまだ今日も会いに行けなかったわけだが。家庭教師を変える話になったらそれはそれで仕方ないのか、まずは会って話して曜子の心境を知るのが先決だ。


 俺の余計な考えすぎなだけかも知れないし。男性はこんな時に余計な考えで勝手に悩むタイプで女性はあっけらかんとしているパターンが多いと雑誌か何かで見たことがある。


「機嫌が良さそうね」


 紅茶を淹れてくれた梓さんに見透かされたようだった。俺が今日ペンダントを返しに曜子と会うことをしっているからだろう。


「私も昨日、久しぶりに彼氏と会ったのよ」


「え?所長の話は冗談って言ってたのに、本当は彼氏いたのですか?」


 所長は冗談と言ったが彼氏がいるのは冗談ではなかったのかな。自分から彼氏の事をいう梓さんが意外だが、久しぶりに会う嬉しさの余りからなのだったら今の俺は気持ちがわかるような気がする。


「梓ちゃんの顔みたらわかるだろ?十分タンパク質を摂取したような肌ツヤ」


 所長のセリフに朝も夜も相変わらずなく一日中の変わらないようだ。


「本当にいると思う?」


「いると思いますよ」


 自分の機嫌が良いと人の幸せも素直に受け入れやすくなる単純さはまだ俺が未熟な子供ってことだろうか。


 性格は相性だからわからないが顔も良しいナイスなボディだから身長が低いのが気にならないなら、梓さんを独占できるのは一男性として羨ましく誇らしいことだと思う。


「熱っ!」


 後ろで所長が飲みかけの紅茶で下をヤケドするかのような声がしたのは恐らく、先程のセクハラ発言を見越してのことだろう。


 わざわざ所長のだけを沸騰させている姿を想像するだけでシュールだなと思いながら俺はカップを口に近づけ勢いよく紅茶を含んだ。


「あっ!つっ!」


「私と彼氏の夜の営みを想像したでしょ?」


 そうさせるような話題に振ってきたのは梓さん本人の気がしたが、所長のセクハラ発言が無ければ夜の想像はしてなったかも。所長のおかげで俺まで熱湯紅茶を頂く羽目になった。


「今夜飲みにでもいくか?」


「考えておきます」


 巻き沿いにしたのを少し悪気を感じたのか飲みに誘ってくれた所は、なんだか可愛らしい部分だと思って笑ってしまった。


   ※


 仕事を早めに切り上げたので五時過ぎには曜子の家に着きそうだった。事前に連絡して気持ちの整理がついてないのに身構えられてもやりにくと思ったからだった。


 手ぶらで行くのもなんだか変だと思ったので、前回のリベンジではないが甘いもの達を買っていくことにした。


 自分の分も買っていくと長居する気と思われると恥ずかしいので今日は三個にしとこう。曜子とご両親のだけだ。けど翌日兄の所に持っていくかもしれないから四個にするか。しかし数字が悪いので五個にするか。それじゃまるで俺の分みたいだな。


 馬鹿なことで悩んでいる間もケーキ屋さんの可愛い店員さんはニコニコしていた。女性は笑顔でいるだけで華があっていい。恥ずかしくて目は合わせられないが。


 結局五種類の甘いお菓子達を持って曜子の自宅に向かった。ペンダントも忘れずに胸のポケットに仕舞っているのも再確認して。


 一週間ぶりに来た家の玄関で大きく深呼吸をしたが、なんでこんなに高揚してるのだろうか自分でも不思議だった。


 今日は呼ばれて来たのではないので一応インターホンを押した。流石に勝手に入って部屋に行けばそのことで余計に怒られそうだからだ。よりによって着替え中だったりしたらまた変態呼ばわりされるだろう。それも久しく聞いてないが、一歩間違えれば通報されるから気を付けないと。


 俺の馬鹿な想像は玄関の扉が開いたことで凍り付いた。居ても不思議ではないのだが全く予想してなかった事だったので一瞬固まり、一呼吸置いてからお菓子を差し出しながら挨拶をした。


 夕方のこの時間に居たことはなく、二、三度帰る間際に会ったことがあった。


「いつもうちのがお世話になっております」


 曜子の母親だった。


 今日一日浮かれていたのと、玄関前で馬鹿な想像していたアドバンテージがあったのでぎこちない会話になったが、挨拶もそこそこにして本題に。


「曜子さんはご在宅でしょうか?」


 尋ねた俺に、え?という顔をしてから今はいないと告げられた。


 ペンダントを渡しに来たので母親に渡してしまえば要件は済むのだが、直接渡したいという自分の我儘にしたがい胸のポケットから出すのを止めた。


「良かったらご一緒に召し上がりませんか?」


 持ってきたお菓子の箱を「コレ」という感じで持ち上げて見せ、誘われるがままにリビングのソファに腰を下ろした。素直に誘いに乗ったのは、ひょっとしたら曜子が帰ってくるかもしれないと淡い期待もあったからだ。


 いつもなら俺と曜子の二人分の夕食がキッチンのテーブルに並んでいるのだが今日はまだ夕飯の準備はしていないようだった。


 家庭教師の報酬を頂かない代わりに夕食を頂いているのでいつも助かっていた。


 今日は母親がいるから早めに支度しないだけか、外食でもするのかなと考えていると、紅茶とコーヒーのどっちが良いかと尋ねられたので紅茶と答えてリビングに飾ってある家族写真に目をやった。


 本当はコーヒーでもどちらでも良かったのだが、どちらか選択を求められた時は必ず希望を答えることにしてるのは俺のマイルールだ。


 運ばれてきた紅茶とケーキを遠慮なく頂いた。自分の手土産を出されて遠慮していてはかえって気を使わすと思ったのと、正直美味しそうだったからだ。


 俺はこないだのテスト結果とそれまでの曜子の努力の仕方などを話したが、今回の順位に関しては何も不満はないとの返答だった。


 もう少し踏み込んで、母親に憧れて看護師になるのが夢と言う話もしたがそれも承知している様子だった。


 しかし、医者になる親の期待に応えらえず生じた歪みについて聞いてみた。


「……そのことは本当に主人も後悔しているんです」


 ひょっとしたら曜子の勘違いの可能性もあるかと期待したのだが、どうやら歪は事実だという確証を得ることになった。


 だが、聞けば医者を目指させたのも子供たちの将来を思ってのことで、思いやりの伝え方に温度差があったという感じだ。そりゃ子供の頃は勉強勉強と五月蠅くない親の方が有り難いが実際子供の事を本当に心配しているのは五月蠅い親の方だが、それに気付くのは大人の仲間入りする頃だというのが悲しい現実なのだ。


 小さい頃から看護師を夢見てきた曜子を頭ごなしに医者になることを植え付けてきたのが間違いだったと、曜子の夢を尊重すべきだったと両親も後悔されている。


 結局その歪は反抗期も重なって修復が容易なものでは無くなったというわけだ。曜子が意地になっているのもあるのかもしれないが。


 しかし、医者を目指す教育をしてくれていたおかげで看護師になる為の大学も現在の成績であれば十分射程圏内であることを伝え、それもご両親の今までの教育方針のおかげであることを曜子に言った時には素直に受け入れていた。


「……ですので、来年の春には志望の大学に合格できるところまで来てますので、ご両親も安心していてください。それと、差し出がましいかもしれませんが曜子さんとご両親との仲の修復は私が緩衝材になりますので任せて貰えませんか?」


 親子は仲良くあるべきだ。しかも憎しみ合ってる訳じゃないのなら尚更だ。素直な気持ちで言ったのだが、余計なお世話と言われたら諦めるしかあるまい。


 どう返事が来るか待っていたのだが、母親は片手で目を押さる仕草をした。


「ごめんなさい……」


 物静かなリビングでもやっと聞こえるような小さな声で謝ったのは俺に対してだろうか。そんな疑問を持ったと同時にリビングに入るドアが開いた。


 曜子かな?と嬉しさを抑えドアの方に目をやるとしらない男性が立ってこっちを見ていた。


 今いる場所を考えてこの男性が曜子の父親だろうとは直ぐにわかった。父親の方が俺を誰か理解するのに時間を有するだろうと思い、立ち上がって自己紹介をした。


 納得はしたようだが、少し泣いている様子の母親の状況を説明するのは難易度が高く、父親の出方を伺うことにした。


 だが、曜子の話を思い出せば両親との歪というより特に医者である父親との歪が大きいのだろうと思い、もう一度母親に話した内容を言うことにした。


 もしかしたら男親なら余計なことはするなと言われる可能性があるからだ。しかし両親共に納得した上で修復に買って出なければ意味がないからだ。


「ありがとう。君は本当に良くやってくれていると家内からも聞いているよ」


 どうやら俺とのことを母親には良いように話してくれていたのがわかった。直接言わなくても母親から父親に間接的に伝わると見越してのことだったのかもしれない。


 曜子なりに、父親との歪の解消方法を考えていたのかもしれないな。


「もっと早くに曜子も君みたいな人に出会っていれば良かったのかもしれないな」


 その言葉を聞いてから母親は、声を押し殺せず泣いているのがわかった。


「娘が心を開いてくれない親は親失格だな」


「そんなことないですよ。ですからこれから私も協力させていただきますし大学入って立派な看護師になるって張り切ってますよ……」


 俺が言い終わる頃には父親の方も眉間を押さえて目頭を熱くしているのが分かった。俺は今の状況が全く理解できなかった。


「君は曜子からなにも聞いてないのかい……」









「……曜子の命は……あと一年持たないんだよ……」











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