図書館暮らし。

 黒い人影が力任せに黒い三日月剣シミタールを振り下ろす。その鍔元にはハープを模った小さな金の紋章。俺は体をひねりながら左にステップを踏んでそれを躱すと、鉈の一撃で首を刈る。襲撃者たる琴紋墨人形ギネス・スタウトは水風船が破れるように崩れ落ちると、黒いたまりに変わり果てる。響き渡る歌声で黒水の瘴気が浄化され、しゅわしゅわと泡立ちながら消えていった。


 ここは図書館『大脳皮質セレブラル・コルテックス』、人の記憶を保管した知識の宝物庫。俺たちはヤツらから記憶を守るために派遣された傭兵だ。


 長さ六十五メートルの廊下の左右に、二階建ての書架が並ぶ。等間隔に立てられた柱の一本一本に過去の偉人達の石膏像が置かれ、俺たちを監視するかのように睥睨している。頭上に広がるアーチ状の天井、その高さは十メートルはあるだろうか。石造りでありながら、書棚、床、天井に至る全てに木材の装飾が施され、それらは長い年月を経て神秘的とも言える荘厳さを湛えている。収められた蔵書は二十万冊にのぼり、文学、科学、生活術、話術、料理……この世界のありとあらゆる知識がここにある。それはまさしく、知識の宝物庫と呼ぶにふさわしいものだった。


 だが現実にはその隆盛はもはや過去のものとなり、今では防戦一方の最終戦線。度重なる酩酊液体生物アクア=ウォタイエの侵攻により、すでに五千冊を超える蔵書を失った。見かねた本隊肝臓からアダフADHアディールADHL、続いてこの俺、メオMEOSが派遣されたわけである。アダフと俺が敵を斬って黒水に変え、アディールが『祈りの歌』で黒水の毒素を浄化する。終わりの見えない戦いだ。


 天井から、ぬたり、と黒い雫が滴り落ちたかと思うと、それは空中でするすると形を変え、ヒトの姿となって床に着地した。右手には黒光りするサーベル。ヤツらは決まって夜に現れる。


 ヤツらの行動パターンは大きく二つに分けられる。俺たちを倒そうとするか、本に触れようとするか。


 「どうした、かかってこいよ三下が。」


 俺の言葉に呼応するように、墨人形が動き出す。突き出された刃を鉈でいなし、刀身に滑らせるように、剣の動きを制しながら間合いを詰める。ギャリギャリと耳に響く金属の摩擦音。そのまま相手の指を斬り落とし、小さく振りかぶって首を刈る。


 「ごめん、メオ!一匹そっちに行った!」


 背後から聞こえた相棒の声に舌打ちで答えつつ駆け出す。黒い影が書架に手を伸ばすのが見えた。目も口も無い漆黒の顔がにたりと嗤う。駆け抜けながら首筋に鉈を叩きつける。黒い飛沫に湿った床を滑りながら体を翻して書架を確認すると、ヤツが触れた記憶が腐り落ちるように、ぼろぼろと崩れて散っていった。


 クソ、間に合わなかったか————


 だが悲嘆に暮れている暇はない。俺の持ち場に目をやれば、新たに三体の墨人形が湧き出していた。走りながら相棒を罵倒する。


 「おい、アダフてめぇ!手ェ抜いてんじゃねぇ!寝てんのかコラぁ!?」


 「数が多すぎるんだよぉ!まったく、前線胃と肝臓の部隊は何してんのさ!補給NADも足りないし!」


 「キンヨーだからな、いつものことじゃねぇか!文句言ってねぇで水素刈れや!」


 「話し始めたのはそっちでしょ!?」


 呆れた顔で歌い続けるアディールが目に入った。


 持ち場へ急行、書架へと走り出した墨人形の腰に飛び蹴りを叩き込み、俺自身の運動量をそいつに押し付けてその場で停止。右手に鉈の質量を感じながら、水平に円を描くように大きく振り抜く。元々はアダフの技だがカッコいいから模倣しパクってみた。一閃で二体の首筋を的確に捉え、黒い飛沫を円形に撒き散らす。


———しくじった。


 視界の端に琥珀色の煌めきを見た刹那、左肩に衝撃を受け、弾けるように吹き飛ばされた。扉に叩きつけられる。先程蹴り飛ばした墨人形がクッション代わりになったのはラッキーだった。大振りな技なんざ使うもんじゃない。


 俺が作った黒いたまりを蹴散らし、巨大な牡鹿が悠然とこちらを見据えていた。あいつが俺を吹っ飛ばした張本人、もとい張本獣だ。


 「クソっ、泥炭琥珀鹿グレンフィデックかよ……。また厄介なヤツが出て来たもんだぜ。」


 これだからキンヨーは嫌いだ。立ち上がるついでに尻に敷いた墨人形の首を刈る。


 「アダフ、こいつは俺がやる!雑魚の相手は任せたぞ!」


 「オッケー、ようやく今日のリズムも掴めてきたから大丈夫!……多分。」


 そいつは重畳。そもそもあいつの方が俺よりも戦闘力が高い。


 さてと、と鉈を握り直し、体高三メートルはあろうかという牡鹿と対峙する。アディールの歌声をBGMにして、漆黒の体躯が自らの権威を示さんと、月光に輝く琥珀の角を雄々しく振る。



———綺麗だ、と思った。



 「行くぞコラこのジビエ野郎がァ!」


 俺と鹿が動き出したのはほぼ同時だった。腰だめに鉈を構え、低姿勢で肉薄する。鹿もまた頭を下げ、角を地面に擦り付けんばかりの位置から俺を突き上げようと狙っている。


 左に小さくフェイントを入れ、右下へ。懐に潜り込め。顔面を突き上げようとする角をいなせ。珊瑚のように幾重にも枝分かれした牡鹿の角。鉈を打ち付けるポイントを間違えれば絡め取られる。側面だ、ミスるな、重っ、堪えろ、弾き返せ———


 ほとんど仰向けに倒れこむように琥珀の角をすり抜けると、目の前に鹿の腹が見えた。


 鉈を持つ右手に力を込める。叩きつけろ———


 


 † † †




 図書館で暮らし、図書館で戦う。すべては『記憶を守る』という任務のため。ヤツらが本に触れる時、俺にはその小さな悲鳴が聞こえる。下卑た笑み、黒く崩れ落ちる本……。ヤツらさえ現れなければ、俺がここにいる必要はない。


 ごぉーん、ごぉーんと鐘が鳴り響く。敵襲だ。床に張り付いた背中を引っぺがし、鉈を拾って重い腰を上げる。書架の陰からアダフとアディールが顔を出した。


 「今日、早くない?」


 「私まだ喉キツいんだけど……。」


 「ドヨーだからな。たまには休館日休肝日くらい作って欲しいもんだぜ。」


 「なにさ、うまいこと言ったつもり?」


 「うるせぇな。ほれ、来るぜ。」


 今日も新たに産まれ落ちる墨人形……いや、シルクハットとステッキを携えたヤツの名は……。


 「英国紳士ジョニー・ウォーカーだと……?」


 「こんな時間から?」


 「正気とは思えないわ……。」


 ここは図書館『大脳皮質セレブラル・コルテックス』、記憶防衛の最終戦線。俺たちは戦い続ける。たとえそれが勝ち目の無い戦いだったとしても。この世界が終わる、その日まで。



 † † † † †


 柔らかな光の中で、所狭しと動き回る作業員酵素たち。乱雑に積み上げられた、記憶記憶ノート記憶。我々は今、人間の脳の中にいる。


 「セータPKMzeta、このメモの製本よろしく!」


 「あいよー、そこ置いといてー。カッちゃんCaMKII、この本、二階の書棚にお願いねー。」


 「すいません、優先案件アセチルコリン付帯の本の処理をやってますんで、ジュリン別のCaMKIIにでも頼んでもらえますか?」


 「あーそうなの、合点承知。お疲れさまー。」


 この部屋は一時保管庫、その名を『海馬ヒッポカムポス』という。偉大なる図書館『大脳皮質セレブラル・コルテックス』の準備室だ。


 「僕らは記憶を整理するために雇われた、司書のようなものなんだ。」


 作業員の一人がそう言った。しかしそれ以上の話をするつもりはないらしい。忙しなく自分の持ち場に戻っていく。


 積み上げられた資料の向こうには、堂々たる本館が広がっている。長さ六十五メートルの廊下の左右に、二階建ての書架が並ぶ。等間隔に立てられた柱の一本一本に過去の偉人達の石膏像が置かれ、そこに働く人々を激励するかのように見下ろしている。頭上に広がるアーチ状の天井、その高さは十メートルはあるだろうか。石造りでありながら、書棚、床、天井に至る全てに木材の装飾が施され、それらは若々しい生命の息吹を放ち、凛とした威厳を湛えている。収められた蔵書は十五万冊にのぼり、文学、科学、生活術、話術、料理……この世界のありとあらゆる知識が現在も収集され続けている。それはいずれ、知識の宝物庫と呼ぶにふさわしいものになるだろう。


 さて、酵素らのことを話してみよう。例えばカッちゃんと呼ばれた彼、CaMKIIの本当の名前はCa2+/カルシウムcalmodulin-dependentカルモジュリン依存 protein kinase蛋白質リン酸転移酵素-II、と言う。長すぎるからその名で呼ぶ人はほとんどいない。


 彼らの仕事は、この準備室に送られてきた資料を選別し、本館の書棚に並べることだ。こうしておけば記憶が長期間保管され、この世界から消えることはほぼなくなる。PKMzetaもまた、この仕事をしていると言われている。だがこの話題に触れると火傷しそうなので、そっとしておこう。


 「ちょっとちょっと、僕らの大事な仕事を忘れてるよ。」


 耳元で声が聞こえたと思ったら、カッちゃんと呼ばれた青年が肩の上に座っていた。木の葉ほどの重さも感じなかった。どうりであんなに身軽に動けるわけだ。


 「本を書棚に並べるときには、どんな内容でどこに並べたかを台帳に書いておく事も忘れちゃあいけないんだ。そうすれば調べ物をするのに役に立つから。ほら、見てごらん。」


 カッちゃんと呼ばれた青年が指す方を見れば、本と石像がチカチカと瞬くように光っている。とても微かな光だ。


 「あれは他の部署が記憶を照会するときの光さ。台帳を元に関連する本を検索して、情報が渡されるんだ。例えば、いま照会があった『赤い実の映像』に対しては、料理と植物、文学、歴史、自伝の書架が光っただろう?アップルパイを作った思い出や甘酸っぱい味、花の臭い、旧約聖書。そういったリンゴに関連する情報を送り返すんだ。その情報をどう使うかはその部署のヤツら次第さ。煮るなり焼くなり落とすなり。何せここは図書館、調べ物をする場所だからね。」


 ああ、グーグル先生みたいなものだね。


 「グーグル先生?なにそれ?まあいいや。それとね、この準備室の資料も調べものの対象なんだ。ほら。」


 なるほど、確かにチカチカと光っている。むしろ本館の本より頻繁に光っているかもしれない。


 「そうだろ?だから乱雑に置いてるように見えて、ちゃんと並べられてるんだよ。あとはさ……。おっと、ごめん。もう行かなくちゃ。もっとこの図書館のことを話したかったけど、次の仕事があるんだ。ああ、忙しい。カルシウムが足りない。糖分も。」


 カッちゃんと呼ばれた青年はそう言い残して立ち去った。本当に忙しない。


 ふと、一人の女性がしゃがみこんでいるのが目に入る。腕にはPP1という腕章。声をかけてみようとすると彼女の呟きが聞こえた。


 「消さなくちゃ……ふふ……消さなくちゃ……」


 なにやら物騒な雰囲気を感じた我々は、深入りせずに立ち去ることにする。触らぬ神に祟りなし、だ。


 ここは『大脳皮質セレブラル・コルテックス』、人の記憶を蓄えた偉大なる図書館だ。作業員酵素たちは、今日も元気に記憶を紡ぐ。




 † † † † †



 今際の際の走馬灯、閃光に眩んだ目を開けると、私は寺院のような、堂々たる図書館に立っていた。


 ここは『大脳皮質セレブラル・コルテックス』、私の記憶を保管した知識の宝物庫。ダブリンのトリニティカレッジを思わせる荘厳な内装だ。収められた蔵書は十八万冊にのぼり、文学、科学、生活術、話術、料理……私が生前記憶してきた、ありとあらゆる知識がここにある。


 ここに残された記憶から、これから私が暮らしていく世界、すなわち死後の世界となる物語が紡ぎ出されていく。それはまさしく、私のための物語だ。私の意識は死の瞬間に無限大に加速しており、このまま死を知覚することはない。永遠ともいえる時をその物語の中で過ごすことになる。だが現世においてそれは一瞬の出来事だ。脳細胞で消費されたエネルギーは二十一グラムの質量欠損となり、魂の重さとして認識されることだろう。


 今だから話すが、実は私には過去、酒をやめられない時期があった。アルコールは脳の血流を阻害し麻痺させる。それが酔いだ。そんな血流の低下に対して、記憶新生を司る海馬はひどく弱い。血流不足が長時間続くと萎縮する。これは細胞分裂がほとんどなされない成体の脳において、海馬は活発に細胞分裂を行う特殊な領域であることも関わっているのかもしれない。


 そんなアルコールの恐ろしさを知っているにも関わらず、私の酒量は増えていった。


 私は自らの酒を制御するために物語を書いた。アルコールが記憶を破壊していくという、明瞭なイメージを持った物語。そこでは海馬でなく大脳皮質が破壊されるような誤った描写をしたが、自戒のためのフィクションということで見逃してほしい。作風がちょっとアレなのは、当時読んでいたweb小説の影響だ。


 自らの物語の力も借りて、私は私の図書館を守り抜いた。人間というのは目に見えないものの予測が苦手だ。だから予防が疎かになる。あれ以上進行すれば医者の手を借りる必要があったかもしれない。完全に酒のない生活というのも侘しい。薬も毒も、何事も程々が一番だ。


 さて、もうすぐ私の物語が始まる。どんな世界が待っているのだろう。年甲斐もなく、高揚している。


 では、ごきげんよう。現世におかれましては皆様方も、節度あるアルコール・ライフを楽しまれますよう。


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練習帳 ヱビス琥珀 @mitsukatohe

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