図書館暮らし。
黒い人影が力任せに黒い
ここは図書館『
長さ六十五メートルの廊下の左右に、二階建ての書架が並ぶ。等間隔に立てられた柱の一本一本に過去の偉人達の石膏像が置かれ、俺たちを監視するかのように睥睨している。頭上に広がるアーチ状の天井、その高さは十メートルはあるだろうか。石造りでありながら、書棚、床、天井に至る全てに木材の装飾が施され、それらは長い年月を経て神秘的とも言える荘厳さを湛えている。収められた蔵書は二十万冊にのぼり、文学、科学、生活術、話術、料理……この世界のありとあらゆる知識がここにある。それはまさしく、知識の宝物庫と呼ぶにふさわしいものだった。
だが現実にはその隆盛はもはや過去のものとなり、今では防戦一方の最終戦線。度重なる
天井から、ぬたり、と黒い雫が滴り落ちたかと思うと、それは空中でするすると形を変え、ヒトの姿となって床に着地した。右手には黒光りするサーベル。ヤツらは決まって夜に現れる。
ヤツらの行動パターンは大きく二つに分けられる。俺たちを倒そうとするか、本に触れようとするか。
「どうした、かかってこいよ三下が。」
俺の言葉に呼応するように、墨人形が動き出す。突き出された刃を鉈でいなし、刀身に滑らせるように、剣の動きを制しながら間合いを詰める。ギャリギャリと耳に響く金属の摩擦音。そのまま相手の指を斬り落とし、小さく振りかぶって首を刈る。
「ごめん、メオ!一匹そっちに行った!」
背後から聞こえた相棒の声に舌打ちで答えつつ駆け出す。黒い影が書架に手を伸ばすのが見えた。目も口も無い漆黒の顔がにたりと嗤う。駆け抜けながら首筋に鉈を叩きつける。黒い飛沫に湿った床を滑りながら体を翻して書架を確認すると、ヤツが触れた
クソ、間に合わなかったか————
だが悲嘆に暮れている暇はない。俺の持ち場に目をやれば、新たに三体の墨人形が湧き出していた。走りながら相棒を罵倒する。
「おい、アダフてめぇ!手ェ抜いてんじゃねぇ!寝てんのかコラぁ!?」
「数が多すぎるんだよぉ!まったく、
「キンヨーだからな、いつものことじゃねぇか!文句言ってねぇで
「話し始めたのはそっちでしょ!?」
呆れた顔で歌い続けるアディールが目に入った。
持ち場へ急行、書架へと走り出した墨人形の腰に飛び蹴りを叩き込み、俺自身の運動量をそいつに押し付けてその場で停止。右手に鉈の質量を感じながら、水平に円を描くように大きく振り抜く。元々はアダフの技だがカッコいいから
———しくじった。
視界の端に琥珀色の煌めきを見た刹那、左肩に衝撃を受け、弾けるように吹き飛ばされた。扉に叩きつけられる。先程蹴り飛ばした墨人形がクッション代わりになったのはラッキーだった。大振りな技なんざ使うもんじゃない。
俺が作った黒いたまりを蹴散らし、巨大な牡鹿が悠然とこちらを見据えていた。あいつが俺を吹っ飛ばした張本人、もとい張本獣だ。
「クソっ、
これだからキンヨーは嫌いだ。立ち上がるついでに尻に敷いた墨人形の首を刈る。
「アダフ、こいつは俺がやる!雑魚の相手は任せたぞ!」
「オッケー、ようやく今日のリズムも掴めてきたから大丈夫!……多分。」
そいつは重畳。そもそもあいつの方が俺よりも戦闘力が高い。
さてと、と鉈を握り直し、体高三メートルはあろうかという牡鹿と対峙する。アディールの歌声をBGMにして、漆黒の体躯が自らの権威を示さんと、月光に輝く琥珀の角を雄々しく振る。
———綺麗だ、と思った。
「行くぞコラこのジビエ野郎がァ!」
俺と鹿が動き出したのはほぼ同時だった。腰だめに鉈を構え、低姿勢で肉薄する。鹿もまた頭を下げ、角を地面に擦り付けんばかりの位置から俺を突き上げようと狙っている。
左に小さくフェイントを入れ、右下へ。懐に潜り込め。顔面を突き上げようとする角をいなせ。珊瑚のように幾重にも枝分かれした牡鹿の角。鉈を打ち付けるポイントを間違えれば絡め取られる。側面だ、ミスるな、重っ、堪えろ、弾き返せ———
ほとんど仰向けに倒れこむように琥珀の角をすり抜けると、目の前に鹿の腹が見えた。
鉈を持つ右手に力を込める。叩きつけろ———
† † †
図書館で暮らし、図書館で戦う。すべては『
ごぉーん、ごぉーんと鐘が鳴り響く。敵襲だ。床に張り付いた背中を引っぺがし、鉈を拾って重い腰を上げる。書架の陰からアダフとアディールが顔を出した。
「今日、早くない?」
「私まだ喉キツいんだけど……。」
「ドヨーだからな。たまには
「なにさ、うまいこと言ったつもり?」
「うるせぇな。ほれ、来るぜ。」
今日も新たに産まれ落ちる墨人形……いや、シルクハットとステッキを携えたヤツの名は……。
「
「こんな時間から?」
「正気とは思えないわ……。」
ここは図書館『
† † † † †
柔らかな光の中で、所狭しと動き回る
「
「あいよー、そこ置いといてー。
「すいません、
「あーそうなの、合点承知。お疲れさまー。」
この部屋は一時保管庫、その名を『
「僕らは
作業員の一人がそう言った。しかしそれ以上の話をするつもりはないらしい。忙しなく自分の持ち場に戻っていく。
積み上げられた資料の向こうには、堂々たる本館が広がっている。長さ六十五メートルの廊下の左右に、二階建ての書架が並ぶ。等間隔に立てられた柱の一本一本に過去の偉人達の石膏像が置かれ、そこに働く人々を激励するかのように見下ろしている。頭上に広がるアーチ状の天井、その高さは十メートルはあるだろうか。石造りでありながら、書棚、床、天井に至る全てに木材の装飾が施され、それらは若々しい生命の息吹を放ち、凛とした威厳を湛えている。収められた蔵書は十五万冊にのぼり、文学、科学、生活術、話術、料理……この世界のありとあらゆる知識が現在も収集され続けている。それはいずれ、知識の宝物庫と呼ぶにふさわしいものになるだろう。
さて、
彼らの仕事は、この準備室に送られてきた資料を選別し、本館の書棚に並べることだ。こうしておけば
「ちょっとちょっと、僕らの大事な仕事を忘れてるよ。」
耳元で声が聞こえたと思ったら、カッちゃんと呼ばれた青年が肩の上に座っていた。木の葉ほどの重さも感じなかった。どうりであんなに身軽に動けるわけだ。
「本を書棚に並べるときには、どんな内容でどこに並べたかを台帳に書いておく事も忘れちゃあいけないんだ。そうすれば調べ物をするのに役に立つから。ほら、見てごらん。」
カッちゃんと呼ばれた青年が指す方を見れば、本と石像がチカチカと瞬くように光っている。とても微かな光だ。
「あれは他の部署が
ああ、グーグル先生みたいなものだね。
「グーグル先生?なにそれ?まあいいや。それとね、この準備室の資料も調べものの対象なんだ。ほら。」
なるほど、確かにチカチカと光っている。むしろ本館の本より頻繁に光っているかもしれない。
「そうだろ?だから乱雑に置いてるように見えて、ちゃんと並べられてるんだよ。あとはさ……。おっと、ごめん。もう行かなくちゃ。もっとこの図書館のことを話したかったけど、次の仕事があるんだ。ああ、忙しい。カルシウムが足りない。糖分も。」
カッちゃんと呼ばれた青年はそう言い残して立ち去った。本当に忙しない。
ふと、一人の女性がしゃがみこんでいるのが目に入る。腕にはPP1という腕章。声をかけてみようとすると彼女の呟きが聞こえた。
「消さなくちゃ……ふふ……消さなくちゃ……」
なにやら物騒な雰囲気を感じた我々は、深入りせずに立ち去ることにする。触らぬ神に祟りなし、だ。
ここは『
† † † † †
今際の際の走馬灯、閃光に眩んだ目を開けると、私は寺院のような、堂々たる図書館に立っていた。
ここは『
ここに残された
今だから話すが、実は私には過去、酒をやめられない時期があった。アルコールは脳の血流を阻害し麻痺させる。それが酔いだ。そんな血流の低下に対して、記憶新生を司る海馬はひどく弱い。血流不足が長時間続くと萎縮する。これは細胞分裂がほとんどなされない成体の脳において、海馬は活発に細胞分裂を行う特殊な領域であることも関わっているのかもしれない。
そんなアルコールの恐ろしさを知っているにも関わらず、私の酒量は増えていった。
私は自らの酒を制御するために物語を書いた。アルコールが記憶を破壊していくという、明瞭なイメージを持った物語。そこでは海馬でなく大脳皮質が破壊されるような誤った描写をしたが、自戒のためのフィクションということで見逃してほしい。作風がちょっとアレなのは、当時読んでいたweb小説の影響だ。
自らの物語の力も借りて、私は私の図書館を守り抜いた。人間というのは目に見えないものの予測が苦手だ。だから予防が疎かになる。あれ以上進行すれば医者の手を借りる必要があったかもしれない。完全に酒のない生活というのも侘しい。薬も毒も、何事も程々が一番だ。
さて、もうすぐ私の物語が始まる。どんな世界が待っているのだろう。年甲斐もなく、高揚している。
では、ごきげんよう。現世におかれましては皆様方も、節度あるアルコール・ライフを楽しまれますよう。
練習帳 ヱビス琥珀 @mitsukatohe
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。練習帳の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます