それでもこの冷えた手が

 しんしんと雪が降る街を歩いていた。ざくり、ざくりという足音が、骨の芯まで寒さを届ける。油断すると魂までもが凍りつきそうだ。


「ただいま。」


 扉を開けて家に入るとき、僕はどうしても左手の壁を見てしまう。そこに掛けられた鳥の嘴のようなマスクを。それはかつて、僕がペスト医師であったことを思い出させた。埃をかぶった遠き日の苦い思い出。


 腫れ上がったリンパ節。体に浮かび上がる黒い痣。朦朧としながら死んでいく患者達を前にして、僕達はいったい何ができたのだろう。ノストラダムスとかいう同業者は自分の丸薬は効いたと吹聴しているようだが、真偽のほどは疑わしいものだ。瀉血も強壮剤も賛美歌も効果がなかった。それらしいことをしてみせただけで、結局のところ僕は、何もできなかった。そばにいて、看取ってやることしかできなかったのだ。


――いや、そうじゃない。


 おかえりなさい、と出迎えてくれる妻を見て、僕は思い直した。そうじゃない、僕は子供達を救うことはできたんだ、と。僕の上着を受け取ろうと差し出された、妻の手を握りしめた。凍てつく寒さに満ちた屋外から帰ってきた自分の手よりも、なお冷えきった妻の手を。


 飢えと病に支配されたこの時代に、母親を亡くした子供達がどんな人生を歩むだろうか?新たに来た義母が、血の繋がらない子供達を愛してくれるだろうか?外法を用いることを、妻には申し訳ないと思った。だが子供達には母親が必要なんだ。そして僕自身にも妻が必要なんだ。だから僕はあの日、この家に代々伝わる魔導書を繙いた。ペストに冒され、死にゆく妻の時を止めて欲しいと願うために。


――

――――

――――――


 あの日の夜、妻の介抱を終えた僕は、二重底の細工がされた食器棚の引き出しから一冊の古びた本を取り出した。その魔導書に示された魔方陣を描いて呪文を唱える。少しの静寂に続いて、玄関からノックの音が聞こえた。扉を開けると、赤い外套を纏った山羊の角を持つ男が立っていた。


「お久しぶりです、お坊ちゃん。今宵の御用向きはなんでしょう?いえ、言わずとも分かっております。市場調査は我々悪魔の大事な仕事ですからね。」


 悪魔はそう言ってくつくつと嗤い、カツカツと蹄を鳴らした。10年前、父に引き合わされた時と同じ姿だ。そいつは心底楽しそうに言葉を続けた。


「ええ、分かっています、分かっていますとも。病に蝕まれた奥方様の体のしんぜましょう。ええ、ええ、たとえ体の時を止めても、奥方様は動けますし、喋れますし、病の痛みや苦しみも感じやしません。ただ体は氷のように冷たくなってしまいます、そこだけはご了承いただけますか?」


「…それでいいさ。対価はなんだ?」


「ハハハ、物分かりの良いお坊ちゃんだ。さすがは偉大なる錬金術士のお孫でいらっしゃる。」


「おべんちゃらはよせ。対価はなんだと聞いている。」


 にたぁりと、悪魔が笑った。


「まぁ、ありがちなヤツですね。お坊ちゃん、あなたの命を半分頂きましょう。13年2月と10日。その時にまた、お命を頂戴しに伺います。そして奥方様の命も、坊ちゃんの命と同時に終わる。」


「…いいだろう。その期日はきちんと守られるんだろうな?気まぐれで明日殺しに来たりなど…。」


「そんなそんな、滅相もない!なんということを言われるのか!おお、神よ!信じられないアンビリバボー!……お坊ちゃん、悪魔は契約を必ず守るものです。そいつは神の愛より確実だ。」


 大仰な身振り手振りで悪魔が言う。いちいち堪に障る言い回しをするヤツだ。そして人差し指を一本立てて、言葉を続けた。


「ですがねぇ、お坊ちゃん、今ならセットでお薦めの契約があるんです。どうです?お坊ちゃんの魂と引き換えに、不老不死になってみる、と言うのは?それならお坊ちゃんと寿命を共有された奥方様も一緒だ。1たす1が8になり、7かけ6がになる…。二人で永遠を生きるのです。……ああ、これぞロマンス、ヒトの夢みた、永・遠・の・イ・ノ・チ!」


「くどい!ワルプルギスにでも中てられたか?僕は祖父とは違う。貴様に魂を渡すことは神の加護を離れることだ。死の救済を捨て、死に怯えて悠久を生きるなどありえん!」


 おお怖い、と悪魔は肩を竦めた。そしてその姿は少しずつ透けて行く。


「分かりました、分かりましたよ。また13年後に伺います。その時には気持ちも変わっているかもしれませんしね……。」


 部屋を照らす蝋燭がふっと消え、ねっとりとした闇が流れ込んできた。


――――――

――――

――


「あなた、ご飯にしましょうよ?」


 妻の声で、ハッと我に返った。


 冬の太陽のような微笑みを僕に向け、妻はキッチンに戻って行った。パン、ジャガイモのスープ、チーズ、そして1本の赤ワインが並べられる。普段と比べて格段に豪勢な食卓。


 最後の晩餐。


 あの日から、13年2月と10日が経ったのだ。


 私と妻の、二つの杯にワインを注ぎ、乾杯、とそれを掲げ、ひとくち呷った。渋味タンニンとアルコールが喉を伝う。


 私の選択は正しかったのだろうか?外法を使い、永遠の命は拒む。それは中途半端な選択だったのではなかろうか?いや、何を馬鹿なことを。信仰を疑うなどあってはならぬ…。


 杯の赤い液面に映った己の顔を睨んでいると、向かいの妻がにこりと微笑んだ。


 「あなた、私は幸せ者です。子供達も皆独り立ちし、良い伴侶を得ました。それを見守れたことが、何よりも…。そしてこれから神の国に旅立つのです。良き生涯をありがとうございました。」


 ああ、違うのだ。礼を言わねばならないのは僕の方なのだ。揺らぎそうになる決意を、いつも妻が支えてくれる。その微笑みが。その冷えた手が。


 玄関からとんとん、とノックの音が聞こえた。どうやら、その時が来たようだ。僕はため息を吐いて席を立つ。扉を開けると、赤い外套を纏った山羊の角を持つ男が立っていた。仰々しくお辞儀をする。


「こんばんは。約束の日になりましたのでね。対価を受け取りに来ましたよ。」


「本当に期日まで生かしておいてくれるとはな。悪魔のクセに、律儀なヤツだ。」


「言ったでしょう?悪魔は契約を必ず守るのです。さぁ、お支払い頂きましょうか。命か、魂かをね。」


「……言ったはずだ、悪魔に魂は売らんと。外法に頼り続けるくらいならば、死んだ方がまだマシだ。」


 僕の返答に、悪魔はニヤリと笑った。


「そう仰ると思いましたよ。なに、私もこの13年、何の準備もしてこなかったわけじゃありません。あるところで商売のコツ…なんてものを学んできましてね。」


 少しばかり勿体つけるように間をおくと、悪魔はこう告げた。



「分割払いも承りますが?」




 その日、僕は1日分の魂を支払った。1日分くらいなら良いんじゃないか、と。人間の決意なんて、雪のように儚いものだ。そして翌日も、翌々日も。そんなことを繰り返して、


 悪魔に魂を売って正解だったかって?それはわからない。愛する妻と、毎日、同じような平穏な日々を送っている。それはそれで幸せなのかもしれない。今の世は昔と比べてとても豊かだ。だけど死後の世界はわからない。そんなもの無いのかもしれない。それは死んだ人間にしか分からない。何百年と生きてきたが、それでも世界は分からないことだらけだ。


 あなたの玄関を悪魔がノックする日がくるかもしれない。甘い誘惑を抱えて。そのときはよく考えることだ。よぉく考えることだ。人間は、考えることしかできないのだから。

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