闘えない研究者に明日はない

「室長!老衰寸前のマウスの若返りに成功しました!」


 長生究ちょうせい きわむ(株式会社ユース・エターナル・ジャパン、研究員、26歳)は自らの業績を伝えるべく、意気揚々と上司に報告に向かった。


「ほぅ。」


 しかし彼の会話の相手はそれしか言わない。長生は入社以来2年間、直属の上司である新薬開発室の室長、福路が『ほ』と『ぅ』以外の音を発するのを聞いたことがなかった。長生だけではない、彼の知る限りでは、誰も福路の口が真っ当な言語を操るところに出くわしたことがなかった。それゆえに福路がこの会社で『フクロウ室長』と揶揄されているのは無理なからぬことだろう。


「しかし成分が安定しないのです。遠心分離後、三秒で処方しないといけない…」


「ほぅ。」


「まあ遠心分離器とセット販売すればいいんですがね、ハハハ。」


「ほぅ。」


 福路室長は笑わない。フクロウのようなギョロリとした目が、眼窩の中を所狭しと動き回っている。そして彼は机の引き出しを開け茶色の小瓶を取り出して、こちらに差し出してきた。瓶のサイズからは想像できないずっしりとした重みを感じる。


 インドのアムリタ社が市場に投入した話題の栄養ドリンク『ソーマ』。山経上糖ざんぎょうじょうとう重酸練錦じゅうさんれんきん、その他それっぽい薬草などなどを3日3晩煮込んだ幻の霊薬、タウリン2000グラム配合。インド映画のダンスシーンのようなCMはもはやお茶の間でおなじみだ。ライバル会社の製品だが、長生の仕事に対する、彼なりの配慮ということだろう。


「ありがとうございます。」


「ほぅ。」


 じゃ、頑張って。そう言うように手を上げて、福路は自らの仕事に戻った。



○ ○ ○



「長生サンは本当にすごいでス!本格的に研究を始めてたった二年でこんな成果を出せるなんテ…」


 研究室に戻った長生は、薬の再実験を兼ねて、薬剤を安定させる添加剤の探索を続けていた。彼の目の前でカタコトの日本語を操る女性はロシアから来た研修生のアナスタシアだ。この一ヶ月、長生の仕事を一番近くで見てきた人物とも言える。整った顔立ちに金髪、巨乳のザ・東欧美人。今も作業台の上に豊満な乳房を載せている。一見すると椅子の上で体育座りをした膝が覗いているようにも見える。


「大袈裟だよ。この業界じゃそのくらいのペースで結果を出さないと置いてかれるしね。」


「またまたごケンソンを!ほぅしか言わないフクロウ室長なんかより、長生サンの方が室長になるベキですヨ!」


「こらこら、滅多な事を言うんじゃないよ。よし、やっぱり薬の効果は高い。あとは添加剤さえ見つかれば…」


 注射をしたマウスは元気に走り回っていたが、試験管に残った液体は白く濁っていた。成分が変質してしまったのだ。


「今日はここまでにして、夕食に行きましょうヨ!」


「いや、もう少し頑張ってみるよ。室長にこんな物ももらったしね。」


 長生はそう言ってポケットから『ソーマ』を取り出し、フタを開けようとしたとき。


「あっ!」


 瓶を握る手が滑り、中身が宙に舞った。人間が口にするものとはとても思えない青い液体が作業台の上に飛び散った。


「あっ!」


 試験管の白濁が消え、美しく済んだプルシアン・ブルーの液体になっていた。瓶の雫は試験管にも混入していたのだ。


「そうか、タウリン!タウリンだったんだ!」


 ソーマに高濃度で含まれるタウリンが添加剤として働いた。最後のピースが揃ったのだ。


「や、やりましたネ、長生サン!」


「ああ、やった!!ビックリだよ、ホント!」


 とんでもない偶然だったが、運を味方につけるのも研究者の資質だろう。フクロー室長に感謝しなくちゃな、と長生は思った。


「よし、今日は飲みに行こう!祝杯だ!」


「ハイ!」


 そうと決まれば善は急げ、手早く片付けを済ませる。なんて良い気分だ。酒を飲む前から酔っているようだ。意気揚々と扉を開け放つ。


「ほぅ。」


 薄暗い廊下に、福路が立っていた。何の感情も映さない瞳がこちらを見つめている。


「ふ、福路室長!?ああ、ちょうど良いところに!とうとう薬が完成しましたよ!今から一杯やりに行くんですが、どうです?室長もいっ――」


「キャッ!?」


 そして福路は突然、アナスタシアの胸の谷間に手を突っ込んだのだ。


「ちょ、福路室長!何を羨ま、いや、いきなり何して――!…え?」


「ほぅ。」


 胸元から引き抜かれた福路の手には、二本の棒状の何かがつままれていた。あれは何だ?そう長生が訝しんでいると、福路の後ろに現れた人影がその疑問に答えた。


「USBフラッシュ・メモリにペン型のカメラ。長生くんの研究を、ごっそり盗もうって魂胆だね。ふふ、胸の谷間にしまい込むなんて、女スパイのテンプレートみたいなことするねぇ。」


「しゃ、社長…!」


 コツコツと革靴の音をさせて歩み寄る影。ユース・エターナル・ジャパン社の社長である。意味の分からない状況に社長まで現れた。混乱する長生だが、それでも彼の明晰な頭脳はその場に適応し、状況を理解していく。


「まさか…産業スパイ?研修生の、アナスタシアが?」


「残念ながら、そのようだねぇ。」


ブリンくそ!なぜ気付かれタ――!?」


 語気を荒げるアナスタシア。福路は何も言わない。ギョロリとした目で見つめ続ける。


「ふふ。福路くんの目を誤魔化すことは出来ないよ。アナスタシアくん、君は他にも何かしたね?」


「ふん、サーバーにバックドアを仕込んだくらいヨ。情報盗み放題だワ。」


「ほぅ。」


「あとは顧客情報ネ。流出させれば会社の信用はガタ落ちヨ!」


「ほぅ。」


「くっ、ロシアに工場を誘致して、それを乗っ取る計画もあったケド…ここまでのようネ!」


 アナスタシアは情報セキュリティの教科書に書かれた実例集のように手口を語った。そしてブリンくそ!と言い捨てると、胸の谷間から2本の鉈のような大振りの刃物を取り出す。


「胸の谷間になんであんなものが。」


「女性の胸の谷間は神秘の領域さ。左右の乳房が重なりあい、それに巻き込まれて空間が折り畳まれている。そこではあらゆる物体は形而上的な概念に昇華されるんだ。」


「空間が…。まさか!」


「そう、空間が歪んでいるからね、我々男性の視線が谷間に吸い込まれるのは仕方のないことだ。」


 知らなかった…!長年の疑問が解決したことを長生は喜ばしく受け入れた。


 そして福路は目の前の刃物に怯むことなく、ギョロリとアナスタシアを見据えている。その佇まいはまさしく研究者闘技者のそれだった。ほぅしか言わない室長、彼は一体―?


「社長、福路室長は、どういった方なのですか?」


「そうか。きみは初めて見るんだったね。彼の仕事ぶりを。夜の闇を駆ける現代の忍者。彼こそが我が社の切り札、フクロウくんだよ。私がインドから引き抜いたソーマの開発者。まさに一流の研究者闘技者さ。」


 福路が懐からソーマの小瓶を取り出すと、それを合図にするかのように女スパイが動く。福路は音もなく立ち回り、時に小瓶で刃物を捌く。ほぅ、ほぅ、と言いながら。


「あれがインドのカラリパヤットと伊賀流忍術を融合させたという独自の戦闘スタイル、梟流忍術!君も一流の研究者を目指すならば、1フレームたりとも見逃してはならんッ!」


 福路は刃物を捌きながら、相手の様子をている。どの程度の強さで攻撃すれば、最小の被害で相手を無力化できるかを切るために。


 自身も研究者である長生にはよく分かる。生命の神秘を極めた研究者が命を狙われる時代。拷問で知識を絞り出そうとするライバル会社、研究に反対する宗教団体…。自らの身を守るために、研究者は武装する必要があった。しかし人の健康のために研究者になったのに、なぜ人を傷つけねばならないのか――

 

 決着は一瞬だった。福路の右手から七本の栄養ドリンクが放たれ、美しき産業スパイの正中線上の急所を正確に叩きのめした。一本は胸の谷間に吸い込まれた。


「ほぅ。」


「終わったねぇ。」


 強い、だがそれだけじゃない。流麗な技、相手の力をる観察力。上司の圧倒的な実力を垣間見て、長生はトレーニングを倍にしようと決意した。闘えない研究者に明日はないのだ。


「福路室長、僕もいつか、あなたのような研究者に――!」


「ほぅ。」


「ふふ、楽しみにしているよ。ぜひとも我が社を盛り上げてくれたまえ。」


 そして長生は思った。ソーマの成分に関する疑問。タウリン2キロも摂取したら死んじゃわないかな…と。




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