第2話~日と夜を架ける~

 たとえ真実を知っても……

 変わらず、傍にいてくれるだろうか?


 パ、キンッ

 床に伏していた男が目を覚ます。ガバッと勢いよく飛び起きると、男はすぐ横に見知らぬ影があることに気づいた。目を凝らして見ると、影の正体はどことなくあどけなさのある小娘だった。起き上がった男は、すぐ横にいる不可思議な格好の娘に驚く。娘は黒い外套がいとうを頭からすっぽりと被り、中の衣類もまた黒。首からぶら下げたひとつばかりの星だけが、娘の瞳と同じ鮮やかな黄色おうしょくを主張している。

「……起きたみたいだね」「大丈夫?」「気持ち悪いとか変な感じがするとか、ある?」

 男にそう問うた娘は、呆然とする男を見つめ男からの答えなど返ってこないと決めつけたのか、大きく首を横に振る。その拍子に頭の頭巾が脱げ、薄く張った氷を思わせる灰色の強い青の髪が姿を現す。そして娘の頭の後ろでくくられた二房の髪が、娘の動きに合わせて緩やかになびく。

 ここは何処だ、あんたは何だと問う前に、男は自身の記憶が空っぽであることを知る。狭い一部屋に男と娘のふたりきり。必然的に男の話し相手は娘だけとなる。男は起きてからずっと、からからに渇いた喉を自覚してはいたがそれでも何か情報を得なければと思い、始めに娘の名を訊いた。

 すると娘は

「記憶がある前のキミも知らなかったから。呼びたいなら適当にどうぞ?」「できるだけ、教えないようにしてるの。だって名前教えちゃったら、そのヒトの記憶に残りやすくなるでしょ」と答える。

 気になるセリフを発し、慣れたように笑う娘に男は胸がざわめくのを感じた。

(この娘は、おれの何かを知っている……!)

 回りくどいやり方では何一つとして知ることが叶わないと悟り、男は単刀直入に娘に問うた。

「お前さん……おれに何かしたんじゃあ、ないのかい?」

 男がそう訊いたのは、ただの直感だ。ざわつく胸のわだかまりが告げる。この娘は自身の何かしらを知っていると。射抜くような真っ直ぐな瞳で、男は自分に何をしたのかと娘に尋ねると「記憶を消した」と、娘はあっけらかんと答える。

「は、あァ?」

 呆れと拍子抜けで脱力した男は、何故自身の記憶を消したのかと問えば「消してってお願いされたから」と娘は答える。

 誰に……と男が言う前に、娘とふたりきりでいた小部屋に、ひとつだけあった戸が開く。そこには美しい女がいた。カラスの羽色ばいろのような長く艶やかな黒髪、ぷっくりとした唇。いつもは桜色に染まっているであろう頬は、心なしか青く白んでいる。男が急に出てきた美しい女に目を奪われていると、女は少し怯えた顔を男に向けた。しかしすぐに表情を切り替え「ようやく起きましたね、あなた」と、優しく微笑んだ。

 そして男が女と少ない会話を交わしたのちに、前からしていたのだという理由で男は農作業をやらされることとなった。

「あなた。ワタシはあなたがどう思おうとも、あなたと交わした約束は、果たさせてもらいますよ」

 女は男にそう言うと、どこからか農作業用の道具を手渡してきた。そのとき男はふと、女の白魚のような綺麗な肌には不釣り合いに巻かれた手首の包帯に気づいた。

「ところでよぉべっぴんさんよぉ、その手首に巻かれたもん、そりゃあどういった傷でぇ……」

 男が無神経にそう訊くと、女はさっと手首を押さえ、さらに青くなった顔のまま部屋から出て行った。それを見た男は、これ以上は何も言うまいと口を閉ざし、任された畑仕事に出る他なかった。

 男は自分の畑仕事についてきた娘を「娘っ子」と呼び、与えられた仕事をこなす。今は何を訊いても無駄だと思い、男はひたすら無心で畑を耕していた。娘はそんな男の姿を、感情を圧し殺した悲しい瞳で見つめていた。そのことを、男は最後まで気づくことはなかった。

 男はその日の仕事を終え、夕食を済ませて床に就く……振りをした。何故振りをしたのか、その理由は男の目的が女と娘の会話を盗み聞きすることであったからだ。足音を立てず、慎重に男は動く。そして女と娘のいる部屋の戸に耳をそばだてる。

「あのヒト、完全に忘れてるよ」

「ありがとう、娘さん」

「本当に、これでいいの?」

「ええ。あの人も、そう望みましたから。このまま忘れたままで良いんです。私のためにも、あの人の……夫のためにも」

 会話を聞いた男は、素早く自身と娘が初めて出会った場所へ逃げ込む。そこに敷かれた布団に深くくるまり、男は考えた。

(おれの頭ん中のもんを全部消したのは、娘っ子で間違いねぇ……けど)

 記憶を消した犯人は娘だと確信するが、男は少し違和感を覚える。聞こえた女の声は物悲しそうであった。そして僅かに聞こえた衣擦れの音、あれは女が自身の手首に巻かれた包帯を擦った音だ。そして娘の口振りから考えるに、娘は男の記憶を消すことに不本意だったこととなる。そして、一番の違和感の原因……それは自分も記憶を忘れることを望んだということ。だから忘れたんだと、男はそう気づいた。

 それから毎日平穏に過ごした。朝早くから起きて、何もせずただ見つめるばかりの娘の視線にさらされながらも畑を耕し、女の手製の飯を頂き、仕事の疲れから夜は泥のように眠る。そんな日々を、男は送っていた。

(記憶に関しちゃあ、おらぁは……自分が望んだことなら仕方がねぇ。もしかしたらおれはべっぴんさんを、自分の女房を悲しませることをして、記憶を無くすことを望んだんじゃねぇか?)

 ザクッ、畑を耕しながら男は考えた。そう考えると無理に過去を聞き出すことはできない。女房が話しても良いと判断したとき、今度こそ受け入れようと、男は思った。

「もし……あなたが受け入れられなくとも、ワタシは、そんなあなたを受け入れます。だから、傍にいさせてください」

 ある日の晩、女房が放った一言に、男はもしかしたら自分は鬼なんじゃないかと感じた。あまりにも馬鹿げた発想であった。しかし男は本気で自分は鬼なのではないかと、自分を深く疑った。

(おれは鬼となり、暴走したおれは、女房を傷つけてしまったのか……)

 いまだに癒えない女房の傷を見つめ、男は女房に「ああ」とだけ返事をした。その返事を聞いた女房は、とても嬉しそうな表情をしていた。花のように可憐に咲き誇る笑みに、男は心安らいだ。しかし、そんな和やかな彼らとは対照的に、娘は悲しそうな顔をして黙ったままひとり、そこにいた。

 またある日、夜も遅い時間に女房が一人で外に出るのを男は見かけた。こんな夜も深い時間にどうしたのかと、男は女房について行った。すると女房は、枯れた木々の合間から抜い出てきた大柄な影と対峙していた。男は慌てて隠れるのを止め、対峙するふたりの間に飛び出て自分の女房を引き寄せる。何故ならその影の正体は……鬼だったのだ。二本の角を額から生やした大柄な鬼。その鬼は男を見ると小首をかしげた。

「いつまでそこにいる」

 野太くしわがれた声で鬼は、女房に目を向けて問う。

 男は力強く女房の肩を抱き寄せ、鬼に向かって啖呵を切る。

「おうおう鬼よ、鬼さんよぉ……おれを迎えに来たのか? それとも女房を喰いに来たのか? どちらにせよ、鬼のお前に、おれの女はやらん!」

 男が鬼にそう言い放つと、その言葉を聞いた女房が悲しげにうつむいた。目の前の鬼に集中している男は、やはり、何も気づかない。

 そんなふたりを見下ろし、鬼は最後に「長くは、ないぞ」と忠告してから、暗闇に消えて行った。


「あなた……ワタシは、あなたを信じましょう」

 家に帰るとすぐに、女房は男に背を向けてそう言った。

「あなたに真実を教えましょう。たとえもし、真実を知ったあなたが、どのような結末を迎えようとも……ワタシは変わらず、あなたの傍におりますから」

 知りたかった記憶の謎を教えると言われた男は、何故女房が暗い顔をしているのか、その心情は読めなかった。けれど、女房がどれ程真剣に男と向き合おうとしているのかは伝わったようだ。

「変わらず、傍にいてくれるのか?」

「ええ。ワタシは、あなたの思い描くワタシでありたいのですから。あなたが望んでくれるのなら、いつまでもお傍におります」

 振り返り、男を見据える女房の瞳は覚悟を決めたそれだった。その表情は、男の目にはひどく美しく映った。思わず女房を抱き締める。女房は抵抗もせず、男に身を任せた。

「おれはまた、お前さんを傷つけちまうかもしれねぇんだぞ?」

「……傷つけられても、構いません。だってワタシは、あなたに愛されれば、ただそれだけで、良いのですから」

 愛し愛される幸福を、ふたりは確かめ合うように、強く強く抱き合った。


「…………ダメ。開けちゃ、ダメ。開けたら、戻れなくなる。だから、ダメだよ」

「娘っ子……おらぁもう女房と一緒に覚悟を決めたんだ。悪ぃけど、そこをどいてくれ」

 あのあと、男は女房に言われたのだ。男の覚悟ができたとき、女の部屋の戸を開けろと。どんな結末でも受け入れると言い、女房は笑った。故に男はここを引くわけにはいかなかった。

「忘れたままでも平気だったでしょ。なのになんで、そんなに自分の記憶を知りたいの」

(忘れたかったくせに……とでも言いてぇのか? この娘っ子は……)

 女房の部屋の戸の前に立ち塞がる娘。そんな必死な様子の娘の顔は、今まで男が見てきた娘の顔の中で、一番ニンゲンらしい顔をしていた。苦しくて苦しくて堪らない。そんな真実を隠したいという、人間の性が、娘にも備わっていたのだと知り、男は腹の底から笑いが込み上げてきた。

(なんだぁ、ちったぁそんな顔できんじゃねぇか。能面みてぇな顔ばっかりだったのによぉ。そんなに隠したい真実なら、暴きたくなるのが男の性ってもんよ)

「悪ぃけど、決めちまったんだよ。おらぁもう、おれの女を裏切れねぇから」

 そして男は、娘からの最後の忠告を、笑って切り捨てた。

(知りたいことを知る、それで満足できんなら、それでもいいと思った。だから戸に手をかけたんだ)

「だっ……!」

 ダメ。焦ったように制止する娘の声。だが、それよりも早く男は女の部屋の戸を開ける。

(おれは、おれの女の、全てが知りたかった)そこには額から二本の角の生やし、赤と金の瞳を持つ、鬼がいた。

(男に生まれたからにゃあ、そりゃあ当たり前だろ?)美しかった面影は消え失せ、そして男は、初めて女の正体を知る。

(なのに、なぁんでこうなっちまうのかねぇ)惚れた女が鬼だと知り、男は慌てて逃げ出した。

(あァ、娘っ子の言う通りだった)そうだ。これが、男の欲しがっていた記憶なのだ。

 始まりは仲の良かった夫婦、しかし男はあるとき女の正体を知ってしまった。

(忘れたままで幸せなら、それで良かったんだ)そして女を受け入れられなかった男は、卓上に置いてあった刃を掴み、それを愛したはずの女へと振り下ろしていた。

 じりじりと照らされる真実、甦る記憶に混乱して、男は今、

「来るなッ! おれを喰わんでくれ!!」

愛していた女を、拒絶した。そしてまた、傷つけられた女は静かに揺らめき立つ。

「ああ、やはり……こうするしか、ないのですね」

(忘れるから、おれが全部忘れたら、やり直そう……おれはあのとき、そう言ったんだ。そこにたまたま現れた娘っ子が、女房とおれの願いを、叶えてくれたんだ。そんで全部忘れたってぇのに、おれってやつぁ結局……)

 女はかつて、男に向けられた刃を、今度は女自身の手に持ち、愛している男に向かって突きつける。

「もう、止めないで」

 女は一瞬、男の後ろにいた娘に優しく語りかけた。

「最期のときまで、あなたを愛しています」

(ひっでぇ顔だなぁ、おれもお前も。あァ、ちくしょう。愛した女に、こんなことさせてよぉ……オレってやつぁ、なーんで結局、こんな結末を引いちまうのかねぇ)

「お、れ、も……」

(愛して、たん、だよ)

 ひどく美しく微笑む女。そんな女を目に焼きつけて、かつて女に向けた刃で、愛した女の手によって、男は殺された。


「たしか……あなたは言いましたよね」

 女は、物言わぬ亡骸へと語りかける。

「喰わないでくれ、と」

 そう言い、女は骸となった男の首筋に、噛みついた。肉を噛み千切り、血を啜り、むせながらも、女は死んだ男の身体を喰らった。喰らい続けた。何もかも、男の全てを取り込もうとするかのように。涙は流れない。鬼は泣けない生き物だった。一通り男だったものを喰らい尽くして、女はようやく娘に目を向ける。

「やはり、こうなってしまいました」「ありがとうございます。見ているだけという、約束を守ってくれて」

 男の血がべっとりとついたまま、それを気にしないかのように女は綺麗に笑い続けた。

「どこ行くの」

 最後に、娘が女へ問うた。

「夫のもとへと」

 女の鬼は、笑っていった。


 男が死に、女も死んだあと、暗闇の中からぞろぞろとたくさんの鬼が現れた。

「やっぱり、無理なんだよ」「ただの人間が、我々を受け入れられるわけがない」「可哀想に」「信じた男も、呆気ないもんだ」「何故喰ったのだ。喰う必要などなかっただろう」「我々は本来、人など喰わぬのに」

 口々に自分たちの言いたいことを吐き出し続ける多くの鬼たち。その中で、死んだ女の父親らしき大柄な鬼が、女の亡骸を抱え、生き残った娘へと振り返った。

「何故泣く」

「さあ、分かんない」

 娘は涙を溢しながら、歪んだ笑みをその口に浮かべた。いつの間にか娘が持っていた赤いリボンつきの手紙は、バラバラに切り崩れ、灰のようにその姿形が消失した。

 そんな娘を見ないまま、鬼は最後にこう問うた。

「名は、なんと言う」

 その問いに、涙で声が滲んだ娘は少し言い淀み、涙で濡れた顔のまま乾いた声で呟いた。

「…………エ・トア」

 エ・トアと名乗った少女は、自身から流れ落ちる涙が地面にこぼされる前に、その涙をガラス玉のように凝固させ、涙の粒を宙に浮かせ自身の回りに漂わせていた。


「何故鬼の女は人間の男を喰ったのか、何故男の想像した鬼であろうとしたのか。どんな形であれ、女は男の心に残りたかったのだろう。故に、女は最後には、男の思い描く化物と同じになった。男の中の鬼は、どうやら人を喰うらしいからな」

 足首まで伸びた長い髪が、結ってもいないのに左右に分かれ宙に浮いている。女性のような線の細い身体を持つ者が、泣いている娘から遥か遠くの空に浮かび、娘を眺めながらそう締めくくった。

「誰かが思い出さない限り、生きていられない僕という存在。故に僕はお前の近くで生きられる。過去を忘れられないお前の近くで、な『カヨカ』」

 文字通り風に髪を遊ばせたまま、リアンはエ・トアと名乗った少女、カヨカを労りの瞳で見つめる。

「あ~あ」

 男性の近くにはしゃべる四つ葉のクローバー、四つ在がふわふわと泳ぐように宙を舞う。

「カヨカ、何故お前は、こういうときばかり僕を思い出すのだろう? 僕にだって、どうすることもできはしない。せめて悲しんでいるお前の傍にいてやることしか、僕にはできない」

(お前は……ハッピーエンドを、望んだはずなのにな)

End

 

作者コメント

 あなたの傍にいることを、許して欲しかった。人間である、あなたの傍に……


 ここまで読んでくださりありがとございました。

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