サファイアの眠る道
juno/ミノイ ユノ
サファイアの眠る道
サファイアの眠る道
車内に音楽をいっさい流さずにするドライブをすると決めていた。
厳密に言うと、待ち合わせ場所に着くまでは適当に音楽を流している。昔のバンドのベスト盤、またはFMだったりするが、とにかくエンジンの音がするだけ、ナビが喋るだけの車内は落ち着かない。歌ったり口ずさんだりしながら、京橋のインターを目指す。
仕事が終わってすぐに来たのに、日はとっくに沈んでいた。秋分を過ぎると急に日没が早くなる。須磨の料金所を超えて、カーブを曲がると急に開ける市街地はこれぞ神戸といった様相で、早速ネオンライトがビルの合間に瞬いていた。予定よりも早く着きそうだ。些か飛ばし過ぎたかもしれない。夕方の第二神明道路が空いているという奇跡的な状況に思わず鼻歌も大きくなる。が、目的のインターチェンジを迎えて、高速を降りるとすぐに路肩に停車し、CDをケースに仕舞った。
彼女は真っ暗な東遊園地の向かいにあるコンビニで待っていた。どんなに暗がりでもすぐわかる。他の女性に比べて背が高くて、髪が長い。軽くクラクションを鳴らすと駆け寄ってきた。危ないからそこでじっとしていてほしいのだが、いい大人にとやかく言うのも野暮だと思って、黙っていた。
「早かったね」
「あんまり混んでなかったから。もう晩飯買った?」
「まだ。来るの待ってた」
エンジンを切って外に出る。同じくらい、より少し下に目線があって、うんやっぱりヒールは履いてほしくないな個人的に、と苦笑した。
ドライブデートなどと格好つける割には、こういう時は必ずコンビニ飯だ。それは以前、こうしてドライブをした時と同じだった。他ならぬ彼女が望むことであり、同時にこのドライブの特徴を物語るものでもある。自分が通ってきた阪神高速三号神戸線から、これから出向く阪神高速五号湾岸線にかけては港湾地帯ということもあって飲食店が見つけにくく、またこの二つの路線は同じ阪神高速の管理している道路なので乗り継ぎが可能なのだが、路線配備の都合上、一度は公道に降りなければならない。その乗り継ぎが可能な時間が九十分の間と定められているため、ゆっくり夕食を摂る時間はない。
凡そ目当ての食事と飲み物を買い終え、俺と彼女は意気揚々と車に乗り込む。久々に会う彼女は少し痩せたようだった。ただその分、顔の輪郭がスマートになっていた。大人びた横顔が知らない女のようで、俺はわざと彼女を見ないようにした。
車内には静かなエンジン音が響いている。彼女は買ったばかりの肉まんを幸せそうな表情で頬張っていた。やれやれ、こんなところだけあどけないんだから……そう思うと変な笑いが零れて、彼女は不審そうに小首を傾げた。
「なんかついてる?」
「いや。あー、お母さん元気か」
もっと訊くべきことは他にあったが、いきなり本題に入るのも野暮な話だ。彼女は心持ち不服そうだった。久々に会った父親から別れた母のことを訊ねられる気分はさぞ複雑なのだろう。
「元気。元気すぎるくらい」
「なら大丈夫やな」
「何が大丈夫なん。毎日一緒に暮らす方は大変よ。お父さんは知らんと思うけど」
別れた妻は昔から癇癪持ちだった。更年期を迎えて更にそれが激化したとして、何の不思議もない。長い髪の先を指で弄りながら、娘は窓の外をぼんやりと見つめた。
「お前はちゃんと食ってるか」
「食べるのはね」
「さては寝てないな」
図星のようで僅かに鼻を鳴らす。本当に、誰に似たのか生意気極まりない娘だった。一緒に住んでいれば叱り飛ばしていたかもしれない。いや、結局嫌われるのが嫌で放っておくかもしれない。いずれにせよダメな父親に発言権などない。それに彼女ももう子供ではないのだから。
「お前は昔からちゃんと寝ない子だったな。小学生の時から、夜更かしして勉強して……何度も止めろって言ったのに。お陰で育つべきところが育ってない」
「うるさいな。貧乳は関係ないでしょ」
「誰も貧乳とは言ってないだろ」
「身長以外にどこが成長するってのよ、サイテー」
言ってからしまったと思ったが、仕方ない。娘は引いた様子と言うよりは呆れかえっていた。賢明な娘で助かる。
ハーバーハイウェイを抜けていよいよ五号湾岸線に入るところだった。ウィンカーを切り、少し速度を落としてハンドルを切る。湾岸線の法定速度は時速八十キロ、阪神高速にしては最も制限速度が速い。この海沿いの道を飛ばすのは若いころから好きなのだ。別れた妻とも当然、結婚前に幾度となく走らせた。
「わー……」
相も変わらず港湾地帯の工場はぎらぎらとネオンライトを光らせて、真っ黒な海にか細い光を放っていた。右ハンドルの国産車なので、娘の側にあるのは神戸の市街地。それでも鑑賞には十分堪える煌びやかさだったが、娘は俺の側の大阪湾に釘付けで、こんなところまで似なくていいのにと苦笑せざるを得なかった。
「で、わざわざ連絡してきたんだから、何かあるんだろ」
「うん。どこから話したらいい?」
「知らん。話したいとこから」
「えーと……驚かない?」
「大丈夫だ。勿体ぶるな」
車線変更。よし、八十キロ、ギリギリ。聴いているふりをして要は聴いてなかったのだが、そういう時に限って大体爆弾が降ってくる。
「結婚することになった」
その時の俺は事故らないように平静を保つのに必死だった。はじめはケッコンの漢字変換を間違えたのかと思ったが、ケッコンスルという言葉が導き出す意味は一つしか知らない。
まさに青天の霹靂、寝耳に水だった。彼氏がいるという話さえ聞いたことがない。二十五歳の娘なんだし、居ても全く可笑しくはない……が、せめて彼氏の存在くらい事前に仄めかしてもよかったのではないか。
「冗談がきついな」
「本気だよ」
「……どんな奴だ、相手の男は」
アクセルを踏み続けてぶっ飛ばしたくなるのを我慢しながら声を抑えて言う。なるほど、これは確かに体温が下がる。心底驚いたときは背筋が冷たいような感覚を味わうと聴いたことがあったが、不思議と手のひらまで冷たいような感じがする。そのくせ拍動だけは騒がしい。
「職場の先輩。めっちゃ優しい人」
「大体俺はまだ挨拶もされてない」
「まだ誰にもしてないよ。お母さんも知らないもん」
俺はだんだん頭が痛くなってきた。行動力のある娘だとは思っていたが、まさかここまでとは。結婚は人生を左右するものだ。幸福も苦痛も連れてくるし、その後の生き方を揺さぶる。好き合っていようとお互いの暮らしを考えて、離れる選択をする者もいる。自分がそうだ。別れた妻のことを嫌悪したことなど一度もないのだ。
「お前な。結婚ってのは、そう簡単なもんじゃないんだ」
「うわぁ、すごい説得力」
「茶化すな。好き同士だからって、上手くいくとは限らないんだ。どんなに愛していても、一緒に暮らせないことは、山ほどあるんだよ」
前にこうしてドライブした時の記憶は今も残っている。彼女が中学受験を終えた冬の事だ。暖房をガンガン効かせながらこの道を走った。
彼女への労いと祝福を告げた後、自身の選択を話した。俺は家の中でその話をしたくなかったのだ。家は俺にとって家庭の象徴であり、それが既に思い出の全てだった。家庭を終わりにするからといって、思い出まで壊すつもりはなかった。
『お父さんはお母さんのことを愛してないの?』
あの時の彼女の涙に満ちた瞳を思うと今も胸が詰まる。彼女は大きな目標を達成したばかりで、これから広がる未来にその心を躍らせていた事だろう。そんな時にこんな非情な選択を突き付けるなんて、最低な親だと思った。こんなにひどい男はいないと思った。
愛している。今でもお母さんのことは愛している。それでも、一緒にいられないんだ。
その場にもし妻が居たら、こんなことは言えなかった。愛し合って一緒になったはずの妻をも傷つける身勝手な発言を、ついぞ妻の前で言う度胸がなかったのである。
エンジン音に紛らわせながら――その時はまだ前の車で、ハイブリッドみたいに静かには走れなかった――俺は静かに泣いていたのだと思う。娘の涙に動揺して、自分が泣いていたかどうか、忘れてしまった。彼女は助手席で憚ることなく涙を流していた。そのことは今でもよく覚えている。そしてそのときから、俺は親として娘に対峙することをどことなく避けてきたように思う。
同じ状況で、今度は娘の結婚を聴かされる。
こんな皮肉なことが世の中にはあるのだと思った。
「わかってる。お父さんたちもそうなんでしょ?」
「……少しだけ、後悔してる」
「そうなんだ?」
初めて吐露する事実だった。また残酷なことを突き付けているような気がしたが、彼女はさもおかしそうに笑っただけだった。
「でも、少し安心した。ちゃんとお母さんの事好きだったんだね」
「当たり前だろ。俺が狭量だったんだよ」
離婚の原因を一言でいうのは難しい。しかし、きっかけとして大きかったのは、妻が仕事に明け暮れて家を空けることに耐えられなかったことだ。娘の教育方針も違ったし、少なくとも私立中学を受験させることに俺は反対していて、でもその受験に他ならぬ娘自身が本気であることに長い間気付けなくて、そういった自分を恥じたし、また失望もした。
俺の押し付けが彼女たちに強いる苦労を考えたら、いない方がいい。これからの人生に於いて。
そう考えた末の結論だった。あの時、俺は三十七歳だった。
「大丈夫だよ。私は幸せになるから」
「幸せにしてくれそうな奴なのか」
「違う。私はあの人と幸せになるのよ」
強い口調でそう言い切った彼女の横顔は若い頃の妻によく似ていた。勝気な眼差し、いつでも前を向く強い心。そんな彼女の姿勢に惹かれたのは他ならぬ俺だった。
娘は母と同じ表情をするようになっていた。あの時助手席で泣きじゃくっていた娘が、愛した妻と同じ顔をしている。そのことを心の中で思ったとき、俺の双眸からは止め処ない涙が溢れ出た。
嬉しかったからではない。感極まったからでもない。彼女がその表情をするに至った年月を、自ら擲ってしまったことに気づいたからだ。
俺が信じられなかったのは、彼女たちではなく、自分の選択だったのである。
「もう、泣かないでよ」
「違う。そうじゃないんだ、ごめんな。本当に……」
ハンドルを握る手に一つ、二つ。大粒の涙が落ちて、視界は少しずつ滲んで。事故だけは嫌だったので、必死で左端の車線によって涙を拭った。娘は俺の涙の理由など思い当たるはずもなく、感慨深そうに微笑んでいた。本当は抱きしめて、泣き叫びながら謝ってやりたかった。あの時の俺が間違っていたと。しかし今俺はハンドルを放すわけに行かない。そのことが俺の慟哭を抑え込んでいたし、そういった意味で、こんな話をされるのがドライブの場で本当に良かったと思った。
そろそろ五号線が終わろうとしている。天保山を越えると、関西国際空港あたりを終着点とする阪神高速四号湾岸線に接続する。今夜のドライブも折り返し地点だった。
「お前、帰りは運転してくれないか」
「え。いいけど、どうしたの」
「だめだ。もうお前が運転する番だ。俺はもういい」
「何それ。まあいいや、じゃあゆっくり乗ってて。私も言いたいこと言えたしね」
インターチェンジを下りて高架下の路肩に停車し、俺は速やかに助手席に座った。彼女はブーツを脱いで素足のままアクセルを踏み、滑るように走り出した。思えばこの車の助手席に乗ったことは一度もなかった。人の運転だとこんなに乗り心地がいいのかと驚かされる次第だ。ただ、娘は顔に似合わずなかなかの走り屋だった。
「おい、ちょっと飛ばしすぎじゃないのか」
「うるさいなぁ。お父さんが泣くから代わったのに」
「全く……言うんじゃなかったよ」
再び同じインターチェンジから湾岸へ戻る。天保山のジャンクションはその特性上空へと導かれるように高く高く上昇して行く作りになっているのだ。遥か下にテーマパークの明かりが見えた。そしてゆっくり見る暇もなく、彼女の暴れ馬を操るような運転で元来た道へと戻った。
「おい、本当に飛ばしすぎだ。ここの法定速度は……」
「もう私の運転でいいんでしょ?」
「……そうだな」
彼女の決断には口を出さない。それが親として出来る、最も大事なことであるように思えた。俺はゆったりとシートにもたれて、大好きな港湾の夜景を見ていた。往路では運転席側にあったが、復路では助手席側に暗い海が見える。
「一言だけいいか」
「うん。なに?」
「まずこう言うべきだった。結婚、おめでとう」
港湾の煌びやかな光はまるで闇夜に散らした宝石のようで、それはかつて彼女が流した涙に少しだけ似ていた。彼女は少し鼻にかかったような声で、ありがとう、と呟いた。
END
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