第四話

 サー・プレストンが車に乗り込んだ。それを見届けてから二人の整備士が車を押し始める。まだエンジンは始動していない。

 ギアをニュートラルに入れた緑色の蒸気自動車が整備場ピットを後にし、ゆっくりとトラックへと押し出されて行く。

 ダベンポートは背後にその光景を見ながら足早にスタンドを登っていった。

 壮観だ。

 十二台の様々な形をした、色とりどりの蒸気自動車がトラックのグリッドに集まってくる。

 ボイラーを露出した車、流線型の車、車体の後半が骨組みだけのような車……

 どうやら燃料もそれぞれのようで、中には煙突を立てた車まである。

(石炭で走る車まであるのか。走りながら石炭を焚べるのかな? それもまた大変な話だ……)

 ダベンポートはリリィの隣に腰を下ろした。

「いかがでしたか、旦那様」

 すぐにリリィが話しかけてくる。

「妨害の様子はないってさ」

 だが、ダベンポートの目の色は変わっていた。

 これは、頭をフル回転させてあらゆる可能性を考えている時のダベンポートの顔だ。


 競馬場のトラックは一周一.六キロの楕円オーバルコースだった。内側のターフのコースは使わない。一番外側の未舗装ダートコースがレースには使われる。

「スタート十五分前!」

 スタンドの中をねり歩きながら案内係が声を張り上げる。

 徐々に観客の緊張感と期待感が高まっていく。

 スターティンググリッドに車が出揃った。

「スタート・ヨア・エンジン!」

 オフィシャルの合図で各車が一斉にバーナーを点火する。

 強力なバーナーはすぐにボイラーの水を水蒸気に変えた。

 ドッドッ……パンッ……ドッドッドッドッ……

 チキチキチキチキ……

 シュー……

 ドンドンドンドン……

 エンジン音も車によってそれぞれだ。


 ボイラーとエンジンが温まるにつれ、各車のボンネットから水蒸気が上がり始める。

「…………」

 ダベンポートは双眼鏡で先頭グリッドに並んだサー・プレストンを見てみた。

 緑色のヘルメットに白いマフラー、大きなゴーグル。小柄な身体をシートに沈み込ませている。調子は良さそうだ。

 双眼鏡を巡らし、他の操縦手も見てみる。

 皆一様に小柄だ。

(なるほど、操縦手も車の一部か。軽い方がいいんだな……)

「スタート五分前!」

 各車のエンジン音が大きくなった。

 プォンッ

 頼みもしないのにクラクションを鳴らしている車もいる。


 「始まる……」

 頰を紅潮させたリリィが両手を組み合わせている。

 スタンドの緊張感が頂点に高まった時、ついに旗が振られた。

 ブォーッ

 轟音を立てて十二台の蒸気自動車は一斉に走り始めた。

 初めは牽制。それぞれの車が少しでも良いポジションを取ろうと押し合いへし合いする。団子状になった一団はほとんどぶつかり合いそうになりながらメインスタンドの前を駆け抜けて行った。


 レースはこのトラックを五十周する。八十キロ、約二時間のレースだ。

 蒸気自動車は団子になったまま奥のストレートを駆け抜けると、再びメインスタンドの前に帰ってきた。

「すごい、サー・プレストン一位ですよっ」

 リリィがダベンポートの隣でぴょんぴょん飛び跳ねる。

 競馬馬の速度はだいたい時速六十キロ、それに対して蒸気自動車の速度は時速百キロ近くに達する。盛大に土煙を巻き上げながら時速百キロで疾走する蒸気自動車のレースは大変な迫力だった。

 二周、三周……。

 徐々に団子状の集団が解け、蒸気自動車は一直線に並んだ。

 その中でも、サー・プレストンの車の性能は頭一個抜きんでているようだ。

 すでに独走態勢。二位以下の集団から車一台分ほど離れ、一人で走っている。

「なるほど、連戦連勝っていうのも判るな」

 双眼鏡を覗きながらダベンポートは唸った。

「すごいです」

 興奮したリリィの頰が赤くなっている。

 ヴォーン……

 緑色の蒸気自動車は規則正しいエンジン音を響かせながらメインスタンドの前を駆け抜けていった。

…………

 

 車の順位は変わらない。

 七周目を越える頃、レースはすでに退屈な展開になり始めていた。

 サー・プレストンと二位との距離は車三台分。差が縮まる様子はない。

「これはもう決まりかな……」

 とダベンポートは呟いた。

 なぜ賭け屋ブックメーカーに大金をつぎ込んだのかは判らないが、この状況が簡単にひっくり変えるとは思えない。

 再び静かになり始めたメインスタンドの前を、十二台の蒸気自動車が整然と走っていく。


 異変が起きたのは十周目を過ぎた辺りだった。

 気がつくと、後ろの方から赤い蒸気自動車がぐんぐんと順位をあげていた。

 スタンレーだ。

 今三位。このペースで走るとじきに二位の車をかわす。

「あの赤い車、早いですね」

 リリィも気づいたのか、トラックを疾走する赤い車を指差してリリィがダベンポートに話しかける。

 だが不思議だ。

 ダベンポートは妙な違和感を覚えていた。

 スタンレーの赤い車はスターティンググリッドでは後ろの方に並んでいた。

 それに五周目くらいまでは後ろの方のグループにいたはずだ。

 それがなぜ今急に速くなったのだろう?


 さらに二周回った頃、スタンレーはすでにサー・プレストンの背後につけていた。

「追い抜かれちゃいそう……」

 リリィが両手を硬く握る。

 サー・プレストンが車を上手に操り、スタンレーをブロックする。

 組んず解れつのデッドヒート。

 一周、また一周。

 ついにスタンレーがサー・プレストンを捉えた。

 メインスタンドに入ってくるコーナーで赤い車が前に出る。

 再びスタンドが総立ちになる。

 デッドヒートが激しくなった。サー・プレストンが必死で走っているのが双眼鏡の中に見える。

 一周ごとに順位が入れ替わる。

 時折サー・プレストンが前に出る。だが、すぐにスタンレーはコーナーでサー・プレストンを抜き返した。

 今二十周目。順位はスタンレーが一位、サー・プレストンが二位で変わらない。

 と、スタンレーが整備場ピットに入った。

 給油と給水の時間。

 スタンレーが整備場ピットに入ったのを見てサー・プレストンも後に続く。

「……帰ってきた。行こう、リリィ」

 ダベンポートはリリィを連れ、急いでスタンドを駆け下りていった。

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