第三話

 グラムと別れたのち、ダベンポートはサー・プレストンの整備場ピットの真上のスタンドにリリィと並んで腰掛けていた。

「広いですね」

 ダベンポートの隣でリリィが歓声をあげる。

 今日、リリィは大きな買い物バスケットを持っていた。

 大切そうにバスケットを自分の隣に置き、早速リリィが興味深げに周囲を見回し始める。リリィの白い頰が楽しそうに紅潮している。

 リリィは大きな青い瞳を見開いてしばらく辺りを見回していたが、不意に何かに気づいたようにハッとすると、

「旦那様、お茶をお飲みになりませんか?」

 と慌てたようにダベンポートに訊ねた。

「お茶?」

 思わず聞き返す。

「はい。今朝淹れて持ってきました。モーニングブレンドです」

 お茶を持ってきたって? うちにそんな瓶なんてあったっけか?

「入れ物はなんだい?」

 ダベンポートは訊ねてみた。

「……あ、あの、」

 リリィが少し言いにくそうにモジモジする。

「旦那様の実験室をお掃除していたらこの瓶がホコリをかぶっていたので洗っておいたんです」

 リリィがバスケットから取り出したのは、ダベンポートが実験用の液体窒素を運ぶために使っていたテルモス(註:魔法瓶のこと)だった。

 最近見かけないと思っていたら……。

「あの……、ダメ、でしたか?」

 リリィが不安そうにダベンポートを見つめる。

「いや。最近は使っていなかったしね」

 ダベンポートはリリィに笑ってみせた。

 流石に劇物が入っていた瓶にはダベンポートも気をつけてマークをつけている。だがこのテルモスにはマークもついていないし、そもそも高価なテルモスに劇物を入れて運ぶ事もないからおそらく問題はあるまい。

「じゃあ頂こうか」

「はい」

 リリィはバスケットからティーカップを二つ取り出すと、ダベンポートの分と自分の分のお茶を注ぎ入れた。

「この瓶凄いですね、中のお茶がまだ暖かい」

 ティーカップの中で湯気を立てているお茶を見てリリィが驚いたように言う。

「まあ、そういう瓶だからね。この瓶からは熱が逃げない……うむ、良い香りだ」

「魔法がかかっているのですか?」

 リリィはまだ不思議そうだ。

「いや、科学だよ」

…………


「しかし、お茶なんてどうしたんだい?」

 しばらく二人でお茶を楽しんだのち、ダベンポートはリリィに訊ねた。

「レース観戦って聞いたので、ピクニックの用意をしてきたんです」

 傍らにティーカップとソーサーを置き、リリィがバスケットの上を覆っているナプキンをめくってみせる。

 バスケットの中に入っていたのはお茶のセットの他に食器とお皿が二枚、それにサンドウィッチと食後のプディングが二人分。

「へえ」

「朝作りました。ちょっと楽しかったです」

「じゃあそれはお昼に頂こうか」

「はい」


 レースの日の朝は早い。グラムに言われた通り、ダベンポート達は競馬場に朝の九時には着いていた。

 しかしレースのスタートは十一時。それまではすることがない。

 場外には大道芸人も出ているようだったが、あいにくダベンポートは大道芸に興味がない。そこでダベンポートはレース開始までリリィと一緒に過ごす時間を楽しむことにした。

 スタンドに座り、リリィと他愛のないお喋りをしながらのんびりとレースの開始を待つ。

(こういうのんびりした時間も悪くない……)

 日が登るにつれ、徐々に曇っていた空が晴れていく。

 ダベンポートはリリィと話したり、持ってきた双眼鏡をときおり覗いたりしながら久しぶりにリラックスした気分を味わっていた。

(そういえば、こんなに長いこと屋外で過ごすのは久しぶりかも知れないな)

 と、ダベンポートは青い制服の騎士が場内を歩いているのを見つけた。

 これから蒸気自動車が走るトラックを詳細に調べている。

「グラムのところの奴だな……リリィ、グラムの可哀想な部下達はちゃんと働いているようだよ」

 双眼鏡を覗き込み、他の騎士を探す。

「……ああ、いるいる」

 競馬場の二つの入り口に二人ずつ、レース場を調べている者が二人、場内をパトロールしている者が三人、さらに整備場ピットのそばに三人。この調子だと競馬場の外にも人が配置されていそうだ。

 そんなに警戒が必要なのか。

「ちょっと整備場ピットの様子を見てくるよ」

 ダベンポートは立ち上がった。

「はい」

 リリィが頷く。

「わたしはここで待っています」


+ + +


 レースの開始時間が近くにつれ、整備場ピットの中の慌ただしさも増しているようだった。

 整備士達が工具を持って右往左往し、サー・プレストンが矢継ぎ早に指示を飛ばす。

 ダベンポートは走り回る整備士達を避けながらグラムに近づいた。

 慌ただしい整備場ピットの中でグラムは完全に片隅に追いやられている様子だ。

「どうだい? 妨害工作の兆候はあるかい?」

 ダベンポートは整備場ピットの壁に腕を組んで寄りかかっているグラムに話しかけた。

「今のところはないようだ」

 グラムが答えて言う。

「蒸気自動車の中をチェックしたようなんだが、不審な兆候は特に見つからなかったそうだ。機械に細工された様子はないらしい」

「それは良かったじゃないか」

「だが、気になるんだよ」

 グラムはどこか憂鬱そうだ。

「蒸気自動車のレースともなれば、賭け屋ブックメーカーで動く金額もなかなかのもんなんだ。そこでオッズが動くほどの金額となるとかなりの高額だ。サー・プレストンも言っていたが、何の確証もなくそんなことをするのは馬鹿げてる」

 確かにその話は一昨日も聞いた気がする。

「ではライバルの車が予想外に性能アップしている可能性はどうなんだい? 新しい技術を編み出したとか、あるいは不正に性能アップしてるとか……」

 ダベンポートはグラムに訊ねてみた。

 だが、答えは否定的。

「とりあえず不正に性能アップっていうのはあり得ないらしい」

 とグラムが言う。

「俺も同じことを考えてサー・プレストンに聞いてみたんだが、笑われたよ。競馬と違って、このレースには車の重量や出力に関する規制がないんだそうだ。不正も何も、どうやら蒸気自動車のレースっていうのは車と操縦手が限界を競うレースのようだぞ」

「それは恐ろしいレースだな」

 思わず感想を漏らす。

「では、新しい技術の方はどうなんだ?」

 ダベンポートはもう一つの可能性をグラムにぶつけてみた。

 しかし、これにもグラムは浮かない顔だ。

「整備士によれば、それだったら必ず事前に新聞記事によってバレるんだそうだ。まあ、何しろ蒸気自動車は目立つからな。レースの前には必ずテスト走行をしなければならん。どこかで秘密裏にテストするっていう事はできないってさ」

「なるほどね」

 ダベンポートは頷いた。

「じゃあ、車に細工される事を含めて全ての可能性はないわけだ」

「おそらくな。後の可能性は操縦手のサー・プレストンが急に死ぬとか位しかなさそうだ」

 そういう状況こそ、魔法の出番じゃないか。

 そうダベンポートは思ったが、グラムには黙っておく事にする。

 流石にレース中に魔法でサー・プレストンは殺せない。

 だが、レース開始後の妨害だったらまさに魔法の独壇場だ。


 と、正面の整備士がバンッと音を立てて蒸気自動車のボンネットを閉じた。

 「整備完了! サー・プレストン、行けます」

 と整備士達が親指を立てる。

 サー・プレストンは満足げに頷いた。


 レースが始まる。

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