第4話 鏡

箱庭ノ傍観屋 ◆ 鏡



 気が付いたときには、何もない場所にいて。

 恐る恐る足を伸ばした先に、確かな感触を得たくて、世界の底を平らにした。

 何もない世界にひとりきり。暖かくも、寒くもないこの場所で、訳のわからない寒さにふるえて、もう一人、自分をつくった。

 もう一人の自分は、自分と同じように笑っていた。

 もう一人の自分に向かって左手を伸ばした。もう一人の自分は、右手を伸ばしてきた。

 手と手がぶつかる。

 ぶつかるだけで、絡まることはない、指と指。


 ……その記憶が、僕を呪っているのだろうか。



 閉じていた瞼を開き、ネクサスは小さく息を吸い込んだ。そして、ため息にも似た音とともに、吐き出す。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。まだ首の後ろに残る気だるさを揉み解して、ゆっくりと起き上がる。

 ベッドなんてものを置いたのが悪かった。でも、そこで寝ていた人々があまりにも気持ちがよさそうだったから、つくってみたかったのだ。思ったより悪くない寝心地…だったと思う。眠るということ自体初めての経験なので、なんともいえない。

 箱庭の世界では、いいベッドとそうでないものがあるらしいが、寝比べているほどの暇はない。本当は、寝ている時間さえなかったはずだけれど、要するに、バレていなければいいのか。いや、バレていないわけがなかった。そろそろ戻らないと、この場所ごと消されてしまうだろう。運が悪ければ。


「…それは怖いなぁ…」 


 少し絡まった髪を手ですきながら、扉を開ける。


 そこは、まるで別世界。


 中央に据えられた台座に置かれた大きな水晶と、そのそばに簡単なテーブルと椅子が置いてある。そして、少し離れているように見えて、かなり遠い場所にある大きな鏡のほかには、何もない場所。

 前にここを訪れた少年は、あまりの物悲しい景色に呆然としていた気がする。少年の生きていた箱庭の、死の残骸が積み上がり、死んだ街とは違う。しかし、それとよく似ている、と言っていたと思う。ああ、生きている心地がしないという点で同じなのだ。

 ふわふわと不安定に揺れる視界に酔いながら、彼は椅子に腰を下ろした。


「いっそ、忙しいの概念を変えれば、皆も嫌がらせをやめてくれるのだろうか」


 ぶつぶつと独り言を吐きだし、しかし、怒っている様子ではなかった。

 水晶の中では、人々がせわしなく動き続けている。

 鍛冶師が半生をかけて最強の強度をもつ剣をつくったのをずっと見守っていた。そして、その最強がまた、何年も後に誰かに塗り替えられて、誰もが過去の最強を忘れていても、その鍛冶師の努力にさえ気づかずに戦いでポキポキとそれを折って戦場へと消えていっても、覚えている。自分が。

 魔女が願った不幸も幸福も、嵐にのまれて消えた小さな島の存在も、小さな少年の冒険活劇の隠された結末も、人を騙し続けた少年を操り人形にしている男を裏で操る存在が歴史から姿を消したその瞬間まで、見ていた。世界が消えるのも、いくつも、いくつも。

 目の前の水晶の中でさまざまなことが起こり、そして箱庭の世界でいう歴史という渦の中に消えていく。それを、ただただ、見ている。見せられている。誰から??……わからない。

 水晶の中の世界に触れることはできない。理不尽な死も、優しさが欲望に壊されていく様も、止めることはできない。実感のない、けれど、確かにそこに生きていた、それが。


 ……触れているように見えるのに、何かが阻んでいる。

 それは、あれと同じだった。

 自分自身を映す板。鏡と呼ぶらしい。

 あれがあのときなぜ現れたのかはわからない。もう一人の自分を作り出そうとしたのだ、でも、できなかった。

 ときどき、考える。

 この箱庭の中の住人達も、自分の他の存在──神と呼ばれている者たちが気まぐれに生み出したものだ。

 箱庭の中には、神たちの思いついた物が詰められていて、形容するなら、オモチャ箱かなにかのようだ。

 自分のいるこの世界も、誰かにつくられているのだろう。と。

 その誰かが、阻んだのだろう。何のためにかは知らないけれど。



「御主人様、お目覚めでしたか。お紅茶をお淹れしましょうか」


 抑揚の少ない声音でメイド服を着た天使の少女が尋ねた。


「うん。あ、君も飲んだらどう? お菓子とかも出すから、一緒に食べよう」


「ええ」


 彼女は微笑みを知らなかった。

 相変わらず淡々とした返事をしてくる彼女の様子に、心に小さな棘が刺さったような気分になり、ネクサスは慌ててその棘をひき抜く。

 ……変わってくれることを、信じている。

 それは、呆れてしまうほど愚かなことだということは彼自身わかっていた。

 自分の命が、その小さな希望に託されているのだ。

 いつ、【その時】が訪れるかも、わからない。彼女の思考は読めても、自分の未来と結びつけることができない。

 だから、せめて、ずっとこのままならいいのにと願うのだった。













存在理由、存在価値、そんなものに縛られて動けなくなる時がたまにある。

考えたって答えがない問い。

言葉でどれだけ飾っても、その本質にたどり着けない。


かみさまは、僕たちに何をさせたいのだろうか?

ちっぽけな自分には、まだそれはわからない…。

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