第3話 願い

 この世界は、作り物だ。

 そんな気が、していたんだ。



 神の箱庭。

 神たちによって作られた世界の住人達は、神界の存在を知らない。

 しかし……稀に、死後の世界を彷徨っている途中で、神界へ迷い込んでしまう者もいる。

 彼は、きっとその一人だった。



 神の世界、『神界』。

 箱庭の神たちはその神界の中に自分の世界をつくり、閉じこもっている。そして、自分の箱庭を育てることに熱心になっているのだ。

 暇をつぶすための玩具なのか、あるいは自らの力の象徴であるのか。どちらにせよ、他者に理解を得ようというのが難しいものだ。所詮は自己満足にすぎない、箱庭の世界なのだから。


 そんな神界の一角に、ネクサスはいる。

 彼の世界には、彼と一人の天使しかいない。

 箱庭を持たない神を、他に知らない。


 どこまでも果てしなく見える境界の見えづらい白い部屋。その部屋に、大きな水晶が虹色とも思える不思議な光を揺らしながら、豪勢な台の上に鎮座していた。背景が白いために、より神々しく、どこか虚しさのような気配も帯びている。

 ネクサスは、金色のレース風の装飾が施されたテーブルとおそろいのチェアに腰かけ、優雅にティーカップを口に持っていく。甘い香りのするそれは、彼のお気に入りのミルクティーだ。


 ネクサスと名乗る彼には、名前がない。気が付いたときにはこの白い世界にただ一人存在しており、名前をつけてくれる相手も……まして、名前を呼んでくれる者などいなかったからだ。

 しばらく名前のない期間を過ごしていた彼は、監視神ネクサスとよばれているらしい、ということを水晶の中の世界を眺めているうちに知ることになる。

 自分を示す言葉があるというのは嬉しいもので、名前の代わりに使うようになっていた。


「ご主人様、お客様……です」


 先ほどまでネクサスの傍らでミルクティーのおかわりを待っていた天使の少女が、いつの間にか扉の傍で主人の指示を仰いでいた。

 彼女は、ネクサスの世界にいる唯一の存在だった。しかし、ネクサスがつくりだしたものではない。他の箱庭の神から何かのときに送られてきたのだ。

 贈り物を断る理由も、彼女を追い返す理由も特に見当たらなかったので、ネクサスは彼女をつかっているが、その少女がメイド服を着ているのは、けっしてネクサスの趣味というわけではなく、出会った時からそれだったのだ。


「そうか、ようこそ、僕の箱庭へ」


 ネクサスは、久々の客人だと少し嬉しそうに笑ってから、髪を撫でるように優しく手を動かす。主の命に応えるように、扉が開いた。


 そこには、一人の少年が立っていた。

 鴉のように黒い髪。傷だらけの肌や服は、乾いた血がこびりついて赤黒く染まっている。少年は、警戒するように慎重に足をはこび、ネクサスの部屋へと足を踏み入れた。

 暫し、殺風景な部屋の様子に少々驚いた様子で、唯一置かれている家具を珍しそうに眺めていた。視線のやり場に困っているのか、あるいは、本当に物珍しいのかもしれない。


「ここは何だ? 俺は、死んだのか??」


 ある程度部屋を見渡し終えた少年は、ネクサスにやっと視線をむけた。

 緑色の瞳。ネクサスはどこかの世界で見たエメラルドという宝石のことを思い出した。それによく似た、美しい色をしていた。


「ああ、君は死んでしまったか……あるいは世界から弾かれたかのどちらかだけれど、きっと前者だろう。この世界に来たのは何かの縁かな。でも、残念ながら、ここは天国でも、地獄でもない」


「……それじゃあ、ここはどこだ」


「君に教えることはできないな……。ここにも禁止されていることはいくつかあるから」


「そうか……」


 少年は絶えず周りの様子をうかがっている。ピリピリとした空気が伝わってきて、天使は自分の腕をさすった。


「ん……」


 少年はネクサスの横に置かれていた大きな水晶に目をとめ、何かにはっとしたように、目をみはりながら、近づく。その表情には、隠せない動揺。水晶に駆け寄り、それに映るものを、じっと見つめている。


「……これは何だ。なぜ……」


 天使が後ろからのぞいてみると、水晶にはいつものように箱庭の光景が映し出されていた。

 しかし、いつもならたくさんの世界が断片的に漂う泡のように映し出されては消えて違うものが映し出されていくのに、これは違った。

 数人の黒い服を着た女たちが、十字架を手にし祈りの言葉を口にしている。それはまるで歌のように美しく、そして、女たちの表情もとても幸福に満ちているようにみえた。ステンドグラスごしに差し込む虹色に輝く光が、壇上に祀られている一振りの剣を照らしている。

 少年は振り返った。天使は慌てて引き下がってネクサスのほうを見た。


「……あれは、何をしているんだ」


 怒っているような口調に聞こえる。

 しかしネクサスは微笑を崩しはしなかった。


「彼らは、君たちによって救われたと……そう思っている。君たちは救世主であり、裏切り者ではないということに、されているんだ」


「されている……?」


 ネクサスは頷くと、白いチェアから立ち上がって、水晶に触れる。薄いガラス玉を扱うような繊細な手つきで。

 天使に物語を聞かせた時と同じ、静かなまなざしで少年を見る。


「神を信仰している人たちの恐ろしいところは、神の力に影響を受けやすいところだ……。神自身は、うまく隠したと思っているのだろうけれどね」


 教会と呼ばれる集団が、彼の世界には存在していた。

 彼らの箱庭の神を崇めるその宗教は、彼らの世界に広く浸透していた。


「とにかく、君は災厄からあの世界を救ったたった一人の英雄として、彼らに敬われているようだ」


「そんな……俺も……あの人も……こいつらに……」


 強く握りしめた拳を、水晶の台に振り下ろす前に、ネクサスが制した。

 少年の水晶をみる緑色の瞳は、暗く光っていた……。天使の瞳には、心なしか、少年のまわりに黒い霧のようなものが漂い始めたように見えていた。

 どうするべきかと天使がネクサスを見ると、彼は少年の前に手を差しのべた。


「君の気持ちを知ることはできないけれど、そんな暗い気を纏っていたら、良い転生ができなくなってしまう。君も彼女も、新しい人生を進んでゆくために、抱えていた心の荷物を降ろしていいんだよ」


 その言葉は、別の誰かに言い聞かせているようにも感じられた。



「いつまでそうしている気なんだい?」


 水晶の前を動かず黙り込んだままの少年に、それがあまり意味を持たない問いであるということは承知の上だったが、他に彼にかける言葉が思いつかなかった。

 しかし、少年は思っていたよりもあっさりとその手を水晶から離し、神の言葉に耳を傾けた。


「……お前は、俺たちのことを、こんな風に眺めていたんだよな。どんなだった?」


「どんなだったって……。美しい世界……かな。リヴァウン──君たちの世界を創り出した神は、美しいものを見る目が優れていたからね」


 そうか……。と少年は小さくつぶやいて、小さく笑った。


「それにしても、こんなところに長居していていいのかい?魂が、薄れてきているみたいだ」


 ネクサスの言葉の通り、少年の姿はいつの間にか、半透明になりつつあった。


 神の空間、それは、箱庭と切り離された世界。神の力によって存在していた魂は、加護を失い、やがて存在そのものが消え去る。

 少年は他人事のように自分の手を見つめていたが、神は彼の全てを見通してしまうようだった。困ったようにネクサスは額に手を置いて軽く首を振る。


「困ったなあ……。こちらとしてはお客は大歓迎なのだけれど、君は、これ以上長居しないほうがいい」


 それからまたしばらくの沈黙。

 その沈黙を破ったのは、やはりネクサスだった。


「君は、何をこの世界に求めているんだい? こちらも、神のひとりとして、話し合いができるかもしれない。君の世界の神と」


「……俺は、許せない……。初めて……だった、人を、信じたのは」


 目をつぶると、少年の瞼の裏には、過去の光景が広がる。

 十字に組まれた木に括り付けられた少女。火が、すべてを赤く染め上げる……。


「僕は、僕の世界に来た客人の、願いを聞き届けることができる。もし、君が望むことを僕が叶えられるとしたら、君は転生の渦に戻ってほしい。僕としては、君には消えてほしくない……」


「……俺は……」





 そして、「神の箱庭」に続く……。








 ある剣士は、魔獣という驚異の出現で混沌とした世界から人々を救いました。

 しかし、その箱庭の神は、それを望んでいませんでした。

 神は人々に、剣士はこの世界の裏切り者だという考えを植え付けました。そして、その剣士が大切にしていた剣と、剣士が愛した人を取り上げて、そしてついに、剣士を牢に閉じ込めてしまいました。


 箱庭の住人達に、罪はあるのでしょうか。

 ……彼らは、自分たちの恩人を、裏切りました。誰も、頭の奥に鳴り響く声に逆らうことができなかったのです。


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