第2話 夢の底

箱庭ノ傍観屋 ◆ 夢の底


少女は、深い深い眠りにつきました。

深い深いところまで落ちていきました。

 落ちていく途中で、少女を取り巻いていたいろいろなものが、離れていきました。

 辛い気持ちも、楽しい思い出も、苦しい時間も、キラキラと光ってどこかへといってしまいます。

 取り返そうと手をのばしても、もう手は届きませんでした。

 少女は深く、深くまで落ちていきます。

(もう、いいや…)

 少女は、あきらめて、目を瞑るのでした…。







 ネクサスは絵本を閉じた。

 大きな絵本だ。分厚く、たくさんの話がはいりそうな…。

 天使は神の方をちらりとうかがう。


「ご主人様、この少女は、どうなってしまうのですか」

「うん? ああ、気になるかい?」

「いえ…」


 目を伏せる天使に、神は微笑んで見せた。


「その少女がたどり着いた夢の底の世界は、彼女の世界のすぐそばにあっても、いけない場所なんだ。

でも稀に、その場所にたどり着ける人たちもいる。

僕の世界──つまりここにも、たまにお客様が来るだろう?まぁ、それの逆だね」

「つまり…夢の底が、呼ぶということですか」


 ネクサスはうなずいた。


「箱庭の中の世界は、いろいろなところでつながっている。

自然にできた空間の歪みだったり、人為的なものであったり、ね。

それは、いわば通路のようなものだ。ひとつの世界とよべる大きさにするのは、とても難しい…。

でも彼女──ああ、これはその夢の底と世界をつくった神のことなのだけれど、その彼女は考えた。

『 夢の欠片を集めれば、ちいさな楽園を作れるかもしれない 』 と」


 ネクサスは、傍らの大きな水晶を見た。

 そこに映るのは、様々な世界に生きるものたち。

 箱庭に生きる者たちは、知らない。自分たちの世界が、何者かによって作りだされ、そして絶えず見られていることを。

 そして、箱庭を作りだした神々もまた、ネクサスによって監視されている……。

 ネクサスは、甘いミルクティーを啜った。軽いため息のように息をはきだし、ふっと、笑った。


(…そして…僕もきっと、誰かに見られているんだろうな、僕を生み出した存在に。そういうことを考えていくのは…きりがない。何もないところから何かが生まれるということと同じように。)



「……」

 かつて、今は絵本の中にとじられているその世界の中に、意識が紛れ込んでしまったことがある。

 …さまざまな箱庭の様子を一度に大量に見聞きする中で、意識が箱庭の中に紛れ込んでしまうことがある。

 ネクサス自身が、見ていた箱庭の中に滑り込むようにして入ってしまうのだった。

 しかし、その時の彼に実体はなく、干渉することはできない。…水晶を眺めているときと、同じ…。

 気づけば森の中にいた。

 美しい自然。そして、遠くに見える、赤い城。──ハートの女王の城だ。

 特にあてもなく歩いていた。

 3人組みが開くお茶会。たくさんの少女が、楽しそうにおしゃべりをしたり、紅茶を飲んだり、クッキーを食べたりしている。少女たちは皆、同じような格好をしていた。淡い水色のスカート、頭には、青いリボンをつけている。

 彼女たちがあまりに楽しそうなものだから、会話に混じってみたいという気持ちがあったが、生憎誰もネクサスに気づきはしなかった。

 …誰の目にも、見えない。


 そこで、ネクサスの意識は、途切れて、気づけばまたひとり孤独な、世界の傍観者に戻っていた。


 箱庭から戻って来た後も、水晶を通して夢の底の続きを見守っていた。とはいえ、自分の見たい世界の様子が、都合よく映るわけではない。

 断片的に見つけた物語の続きは、ネクサスの予想とは異なるものだった。



「どうして、どうしてこんなことに…」

 白いバラが咲き乱れる中、女は涙を流して立ち尽くしていた。

 かつての賑やかな様子は面影を残さず、重苦しい静けさに満ちている。



「もう、ここに残ったのは、貴方たちだけ…」

 女は静かに息をはくようにつぶやいた。

 辺りには真っ赤なバラが咲いている。よく見ると、それらはどれも、白いバラにペンキで赤く染め上げられているようだった。ポタポタと赤い雫が滴っている。

 猫耳の少年・チェシャ、兎耳の少年・黒ウサギ、手を塗料で真っ赤にした少年・ペンキ屋。

 3人の少年たちは、彼女の言葉をぼんやりと聞いていた。



「俺は…この罪を、償いきれるのでしょうか…」

 俯いて、黒ウサギが呟いた。誰かに、問うように聞こえるそれは、そのまま空気の中に消えていくかと思われるほど、か細いものだった。


「…仕方、なかったんだよ…それは、これも」

 ペンキ屋が、弱々しく反応した。彼も、俯いたまま顔を上げようとしない。足元のバラを見つめ、黙りこくってしまう。


「…私も、まさかこうなるとは、思っていなかったわ。こんな世界になるはずじゃ、なかったのに…」

「あんたは、魔女なんだろ? この世界、アリスたちを、もとに戻してくれよ…っ!!

 皆が狂っちまう前の、本当の楽園に、また戻してくれよ…」


 チェシャ猫が懇願するように女を見た。

 他の2人も、遠慮がちに顔をあげて魔女の答えを待った。

 しかし、女は何も言わず、首を小さく横に振った。


「もう、元には戻らない…残念ながら、私の力では、できないわ…。

 だから、私はこの世界の神として、決めたの。きっと、残酷かもしれないけれど、でも、それでも」


 女は一度目を閉じて、開いた。


「この世界は、眠っていなくちゃ…。少女たちの夢の底で、枯れていく運命というのが、あるのだとしたら、それを受け入れて、ただただ眠るの…。そのための新しい役目を貴方たちに授けるために、私はあなたたちの前に姿を現した…。その、役目はね…」



「役目とは…なんだったのですか?」

「…わからない。中途半端でごめんね、その続きは見つけられなくて」

「そう、ですか」


 天使に聞かせるには、少し重いと思って、あえて途中で終わらせた。


 あれからどれほどの時がたってしまったかは、時間の感覚の狂ったこの体にわかりはしないが、きっと、もうこの世界の時は枯れてしまっているのだろう。

 最後のアリスが、すべてを終わらせるためにあの世界に迷い込んだのだから…。



(悲しいな。自らが作りだし愛した世界が、壊れていくことを見守ることしかできないというのは。)

 そうして、泡がはじけるように儚く散った夢の底は、永遠に辿りつかぬ場所となってしまったのだった。


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