一章(2)
4
「じゃあまずは、鍵の秘密についてから話そう。実はこの空き教室の鍵、随分と前から壊れたままで放置されてるんだ」
「コツさえ覚えれば、鍵なんて無くても自由に開けられる」
見本を見せるからついて来てくれと言って、
「見せるも何も、開けるも何も、そもそも閉まっていないじゃないですか、その戸」
少なくとも私は幽霊じゃなくてもちろん人間だし、すり抜けて教室に入ってきたわけではない。
「鍵が壊れて閉まらない、ということでは無いんですか」
「いくらうちの高校が緩いと言っても、さすがにそれだと修繕に動くだろう。不良生徒のたまり場にでもなったらまずいし」
それ以上は何も言わずに私にも廊下に来るように促す先輩に渋々したがって教室の外に出る。
入ってきたときと同じく、廊下にはちっとも人の気配がなく静まり返っている。なんだか夢でも見ているみたいな気分だ。
先輩は戸をしっかりと閉めて、ブレザーの胸ポケットに差していた古いボールペンに手をかける。
「ここの鍵は壊れている、でも鍵が閉まらないわけじゃないから先生も用務員のおじさんもいつまでもこの秘密に気付かないのさ」
慣れた手つきでボールペンを分解してペン軸を取り出すと、先輩はそれを鍵穴に差し込んでいく。
いろいろな方向へ動かしたり一度戻したりしながら、ペン軸は鍵穴の中へ少しずつ入っていく。
そして入り切ったのか先輩がペン軸を回すと、鍵穴がカチャリ、と音を立てる。
……いやこれ、普通にピッキングってやつなんじゃないの、この人、こっちを振り返ってどや顔してるけれど、何やってるの。
もしかして馬鹿なのかもしれない。
「いや、これはピッキングじゃない、厳密には。うん、多分。あれは鍵を使わずに情を開ける行為を言うはずだ」
そうなのか、というかそういう問題の話なのかこれ。生徒の自主性を尊重している葵山高校の校風、むしろ尊重しているのは犯罪行為という感じがする。
私の視線に次第に増えていく軽蔑の意を感じ取ったのか先輩はよくわからない弁明を始めるが、すぐに言い訳を思いつかなくなったのか咳払いを一つして、また鍵の秘密に話題を戻す。
「とにかく、だ。こうやって鍵を閉めることができるから、誰かに放課後、施錠の確認に来られてもこの空き教室のことが露見したりはしない」
そう言いながら先輩は実際に取っ手に手をかけて何度か開けようと力をかける。 確かに鍵が閉まっているようで、戸が開くことはない。
「ここまではいいか、次はこの鍵の開け方だ」
いいもわるいも、さっきから私は一体何を見せられているんだろう、というかこの人なんでこんなことわざわざ教えてくれるのか、やたら意気揚々と。
約束、と言っていたけれど。
「閉めるのには道具がいるけど、開けるときに必要なのはちょっとしたコツだけなんだ。何回かやってみればすぐに覚えられるから大丈夫さ」
すでに何一つ大丈夫なことなどない気がしたが、この後、一連の技能説明と実技練習はさらに熱を増していった。
なんとかそれらをやり過ごして、今日の記念にくれると言ってきかないボールペンも謹んでお断りして、やっと教室の中へ戻ってお弁当の続きにありついたときにはもう昼休みは終わりに差し掛かっていた。殺意。
でも、事情はともかくとして、昼休みがもっとあってほしいと思うのなんていつぶりだろうか。
いつもなら、一刻も早く終わってほしい時間なのに。
5
「なんでこんなことができるんですか、若干不安になってきましたけど一応学校ですよね、ここ」
話しながらもお弁当をかきこむ手を止めない女子高生を見るのはさすがに気が引けたのか、教室に戻ってからは窓を開けて遠くの景色ばかり見ている先輩に質問する。
日の当たる場所にいると、白い肌も色素の薄い目や髪も透き通って見えて、なんだかそのまま光の中に消えて行ってしまいそうだ。
「旧校舎、ああ、この部室棟のことだけど、今使ってる新しい教室棟ができるまでは、部室棟と呼ばれているこの校舎も教室として使われていた、って話は知ってるだろ」
先輩は窓の外を見たまま続ける。
「それで、新校舎のほうができてからは、教室数も足りてるし、わざわざこっちを使う必要も無くなった。倉庫や部室として幾らか使われている以外は」
「だからこの校舎には、昔のまんまで改修されないままの設備が残っていることがあるんだよ。たとえ壊れたままでも」
一応、耐震工事とかは入ってるはずなんだけど、修繕費ケチったんだろうな。まるで自分が見てきたことのようにスラスラと、先輩は部室棟の歴史と鍵の秘密について教えてくれた。
話によれば、備品の管理のこともあるので部室についている鍵は新調されているらしい。ただ、同様のやり方で、手口で、開けたり閉めたりできる場所もあるそうで、このまま相槌を打っているとそのすべての場所の説明にまで話が及びそうな勢いだったので、何位ついてかは自分でも疑問だが取りあえずお礼だけ言って、この場を切り上げることにした。
これ以上この人に関わるのは良そう、危なそうな人だし、それ以上に、なんだか面倒くさいことになりそうだし。
割と気に入っていたんだけれどな、この場所。
「どういたしまして。っておいおい、どこへ行こうとしてる。予鈴は聞こえずらいけれど、まだ昼休みは終わってないぞ」
「いえ、もうお昼も食べ終えたので、失礼します。貴重なお話本当にありがとうございました」
「なんて感情のこもっていない謝辞、だがそういうわけにもいかない、行かせられない。」
席を立とうとする私の方へ、先輩はゆっくりと歩いてくる。色素の薄い琥珀色の目がじっと私を見つめる。
「俺は
え。
いきなり人を下の名前で呼んじゃうタイプの人だ。相容れない。それになんだか噛みそうなセリフ。
いや違う。そんなこと別に今どうだっていい、友だち、友だちっていたのかこの人。
「聞こえなかったのか、朱夏、友だちになってくれ」
なんだそのお願い、に見合わない口調と態度。見下すような目線。それは私が座っているせいだけれど。
「う、急に何言いだすんですか、友だちになってくれって」
単刀直入に、唐突に、何を言い出すんだこの人、変な人じゃなくて変態だ。これなら幽霊と出会った方がまだましだったかもしれない。
「確かに、こんなことはわざわざ願い出るものでは無い、という意見もわかる」
それも思ったけれどそこだけわかられても困る。こんなに納得のいかない納得のされ方もない。
「いや別に今そこはいいです。なんですか友だちになろうって、はっきり言って意味わかりません」
取りあえず机を挟んで距離をとる。お弁当箱はそのままにして両手をフリーにする。来るなら来い、返り討ちにしてやる。
しかし先輩はそこから動くことはなく、そのまま臨戦態勢をとる私をしばらく見た後、特に悪びれる様子もなく一言、悪い、といった。
「混乱させてしまって申し訳ない」
「また冗談ですか?」
「いや、朱夏と友達になろうとしているのは本気だ」
そこが一番本気ではなくあって欲しかったです。
「さっきの鍵の秘密の話には、まだ続きがあるんだ。そして、ここからのほうがずっと重要なんだ」
鍵の秘密の話で、鍵の開け閉めより十四応なことがある、とはいったいどういうことなのだろう。前置きにしてはあまりに衝撃的な話だった。捨て置けない話だったのに。
「実はこの秘密は、忍び込める空き教室のことは、教室棟が建てられた十五年前からごくごく限られた生徒の間でだけ語り継がれてきたものなんだ。そして、それ以外の生徒には、空き教室には幽霊が出る、なんてオカルトめいた噂が広まった」
空き教室に忍び込んだ生徒が幽霊の正体、という私の最初の予想はどうやら一応当たっていたらしい。あのとき、ここに来ることをやめておけばよかったと今ははっきり思える。もっと思慮深く生きよう、この場を乗り切れたら。生きて帰れたら。
「代々、この秘密を守れると判断した後輩一人を選んで先輩が伝えてきたらしい。同じ条件でまた誰かを選んで伝えていくように念を押して。まあ本当に一人だったのか確かめることはできないけど」
「そんなの……」
ありえない。と正直思う。先輩から後輩に、代々一人ずつ秘密を伝える。
そんなの、どこかで誰かが約束を破ったらそれで終わりなのに?
別に秘密だと言われても、漏らしたところで何か罰があるわけでもないのに?
誰一人として、友人に口を滑らせることもなく?
というかまず何のために?
そんなことを、この教室が使われなくなってからずっとやってきたと言うんだろうか、その生徒たちは。そして目の前のこの人も。
「幽霊よりよっぽどこっちの話のほうが信じられない、といった風だな、その反応」
「だって、そんなの不可能でしょう。ただ空き教室に忍び込めるってだけ、鍵を開けられるというだけの秘密を、そんなに何年も、何人も」
「だが実際、秘密は漏れていない。空き教室の鍵が修理されることはない。大勢の生徒が代わるがわるここを訪れて好き勝手に使うこともない。未だに、怪談話なんて語られてるくらいだ」
「この秘密にそこまでの旨味が無いからだとしても、単なる偶然の連続だとしても、約束は守られ、秘密は受け継がれている」
それだけが真実だ、と先輩は力強く言う。私には何一つ理解できない。それが私と先輩が友達にならなければいけないという結末に着地する理由も含めて。
「なんで、なんでそんな秘密をその人たちは受け継いできたんですか、受け継ぎ続けてきたんですか」
「それは簡単な話だよ、他の奴のことは、まあ知らないが、この秘密を守るのは俺に言わせれば当然のことだ」
「この秘密は、信頼の証だからな」
信頼の証。他の誰にも教えてはいけない秘密、二人の間の、先輩と後輩の間にある絆を証明する約束事。
本当に信用している相手にしか教えないから、それを教えられることには特別な意味がって、重大な価値があって、だから教わった方もわざわざその思いを無碍にするようなことはしない、するわけがない。と、善乃先輩は語る。
現実というより理想に近い話を、自分はいたって正気ですという口ぶりで。
ただ、本当にそう思っているというより、そうであって欲しいというような、願いのような、祈りのような言い方で。
サンタクロースを信じたがる子どものように、あるいは幽霊や呪いを信じたがらないように。
「それだけで、ですか」
本当に、そんなことがあるのだろうか、いや、実際に何年もそれを繰り返してきたんだろうけれど。
トクベツは嬉しい。それはわかる。知っている。
でも――
「おっと、もう昼休み終わりか」
耳を澄ましてみると、確かに予鈴が鳴っているのが聞こえる。
そもそもお弁当を持ってきてもいなかった善乃先輩は、そのまま話を切り上げて教室を出て行ってしまう。
あれ、これ鍵閉めるの私になる?
「あの、話がまだ」
「さっきは俺が引き留めたのに、ずいぶん興味を持ってくれたみたいで嬉しいな」
慌てて廊下に出て行って呼び止めると、先輩は笑いながら振り向いた。
「いえ、そういうんじゃないです、断じて」
「それなら鍵の開け閉めなんかじゃなくて、先にこっちから話せばよかったな。反省しよう」
話を聞いてくれない、というかその反省は次どこで生かすんだ。さっきの話が本当なら私以外にもうできないんじゃないのかそれ。
「じゃなくて、興味はないですけど、色々と理解できないことが山ほどあるんですが」
「だったら、この続きはまた明日ということにしよう」
「はあ?」
「仕方ないだろ、もう昼休み終わりだし。五限、送れるぞ」
後はやっとくから先行きな、と先輩は空き教室の鍵を閉めるための作業を始める。
そんな急に年長者感出されても。
失った信頼がそんなことで回復すると思ったら大間違いだ。信頼?いや最初から信頼はしていないけれど。一貫してずっと変な人だけれど。
「いやあの、いつの間に私連日ここに来るという話に」
「だって気になることがあるんだろ?それに俺も話したいしな。友達にならなければ」
ひい、これが寒気。一人で静かに過ごすための、ためだけの昼休みが危機に瀕している。
「あ、もう解決しました。すべて。急に突然ではありますがもう平気です心配おかけしました」
「朱夏がこんなところに来る理由を詮索しない、と言ったな。あれは本心だ、だが仕方ないな。利用させてもらう」
鍵が閉まったのを確認した後、先輩はゆっくりとこちらに向き直る。
「もし来ないのなら、迎えに行く」
後悔する暇もないほど突然に、反省したってしょうがないような突拍子もない理由で、私の唯一の平穏は崩れ去った。
五限には普通に遅れた。怒られた。
昼休みが嫌いな私と、部室棟の幽霊 鳶タ は、や。 @tobita-88
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