第二章 いざ、人間界へ
第21話 扉は開かれた
※ ※ ※ ※ ※
草原の中、白に近い銀髪をなびかせた女性が、青空を背にグレイフィールを優しく見下ろしている。
水色の瞳を細めて微笑んでいる姿はとても美しい。
しかし、幼いグレイフィールがつないでいる女性の手はしわだらけであった。
「母上……人間界とはそんなにひどいところだったのですか」
「またその話ですか? グレイフィール」
子の質問に、女性は呆れたように答える。
「はい。母上が暮らした人間界というところにとても興味があります」
「そうですね……わたしにとっては、とても辛いところでした。でも他の多くの人間たちにとっては、きっと幸せな場所だったことでしょう。良いところも悪いところも両方ありました。この魔界と同じように。わたしが特別でなければ……もっとあの世界の良いところを楽しめていたかもしれませんね」
そう言って、女性は寂しそうに笑った。
魔族と人間の歳の取り方は違う。
魔族は人間のおよそ五倍の寿命があり、その成長スピードも五倍遅い。
グレイフィールが二十歳のとき、女性は四十歳だった。
グレイフィールの見た目はそのとき四歳児、そして女性は、人間が魔界で暮らすという無理がたたり、およそ実年齢の倍、八十歳ほどの見た目となってしまっていた。
老婆となった母親は、すでに死期が迫っていた。
「いつかあなたも、人間界に行くときがくるでしょう。成人したら魔王の座を引き継いで、魔王軍の指揮をとらなければならなくなるのですからね……。ああ、そのときを見られないのが残念です。でも憶えておいて。わたしがどうして魔界で暮らすことになったのかを。あなたはあなたの目で、人間界がどういうところなのかをきちんと見てきてください。もし、そのときも人間たちが変わっていなければ……あなたは……あなたも、あの世界を滅ぼして――」
※ ※ ※ ※ ※
ハッとして、グレイフィールは意識を取り戻した。
ここは魔王城の離れの塔、その三階にある寝室である。
いままでのは夢の中の出来事だったと気付くまでに、しばしの時間を要した。
「母上……」
額に手を当てながら、グレイフィールはかつての母親を思い出す。
あれはちょうど亡くなる一年ほど前の出来事だった。
「どうして、こんな夢を……」
グレイフィールはそうつぶやくと、朝の支度をするためにベッドを飛び降りた。
魔界にしか存在しないという薬草<流星の花>。
それを商人のイエリーに卸してから、数日が経過していた。
グレイフィールは相変わらず離れの塔の書斎で読書をしつつ、たまに魔道具などを作ったりしている。
一方、吸血鬼のメイド、ジーンは毎日のようにこの塔に通い続けていた。
説得係の役目はそこそこに、今ではグレイフィールの身の回りのことなどをただのメイドとして行っている。
そんなジーンは今、魔法の鏡を一所懸命に磨いていた。
「ごーしごし、ごーしごし! ごしごし、ごしごし! はぁー。もうこんな感じでいいですかぁ? ヴァイオレットさ~ん」
「あーん、吸血メイドちゃんありがとー! 細かいほこりが取れてすっきりしたわぁ~。 朝の光が、気っ持ちいい~~~!」
鏡の中にはいつのまにか長い紫色の髪の男性、ヴァイオレットが現れていた。
彼はこの鏡の精であり、長らく倉庫に放り込まれて忘れられていたのを、最近このジーンに救われたのだ。
ジーンは拭く手を止めて、にっこり笑った。
「えへへ、それは良かったです! じゃー……そろそろグレイフィール様のお茶を用意しましょうかね!」
「おい、ジーン・カレル」
「はい?」
呼び止められたジーンは、なにげなく声の方を振り返った。
「前にも言ったが、私は別に何も飲み食いしなくとも平気だ。そうして毎日いろいろする必要はない」
たしかにグレイフィールからそう言われていたが、ジーンは大きく首を振った。
「いえ。これは……わたしがやりたいんです!」
「なに?」
「唯一お世話できるのが、このお茶とお掃除ぐらいだけなんで! なのでぜひ、やらせてください! ただじっとお側で見守り続けているのは……その、なんというか、ヒマなんですよう!」
「ヒマ……」
「というか、グレイフィール様のお世話がしたい。お願いします! やらせてください!」
「……」
暇つぶしだと言われたが、世話も焼きたいからだと聞かされて、グレイフィールはどことなくこそばゆくなった。
顔に熱が集まりそうになりながら何も言えないでいると、沈黙を肯定と受け取ったのか、ジーンはひらりと階下に走っていってしまう。
「お、おい、待て!」
「行ってきまーす!」
「……うふ、うふふふ~」
その様子を見ていたヴァイオレットが、突然不気味な笑い声をあげた。
「な、なんだ、鏡」
グレイフィールは半目になって鏡を見る。
「いいえ~、べっつに~? ただずいぶん仲良くなったわねえ、と思ってぇ~」
「何が言いたい」
「平和だわ~。とっても平和~。いつまでも、こんな状態が続けばいいって思うわ~。でも……あの子はいつかアナタを魔王にする。アナタも、いつか魔王になる日が来る」
「……鏡?」
妙に予言めいたことを言うヴァイオレットに、グレイフィールは怪訝な目を向けた。
「アナタの父上は、待っちゃくれない。今は一応あの吸血メイドちゃんにアナタのことを任せているようだけれど……それ以外は着々と進行しているのよ。ねえ、今人間界がどれほど魔族に侵攻されてるか知ってる?」
「それは……」
グレイフィールは唇をかんだ。
それは長年、見ようとしてこなかったことだ。
ひきこもりを続けている間も、
この魔法の鏡を見れば、いつだってそれらを知ることができる。どこだって見渡すことができる。
けれど、グレイフィールは一度でもそれを見ようとはしなかった。
グレイフィールは、永遠に現実を見たくなかったのだ。
自分が父親のやることを阻止して、かわりに人間たちとの正常な国交を回復させる。
そんなことは夢物語だと思っていた。
誰かにこの考えを否定されたら? 人間たちに拒絶されたら?
それを思うと途端に何もできなくなってしまった。
だからずっと何もせず、物事が良くなることを漠然と待ち続けていた。
この魔王城の離れの塔で。
誰からも干渉されることなく、深く考えることなく、自分の世界の中だけで完結させていたかった。
しかし――。
ジーンと出会ってしまった。
「アナタはもう、歩き出してしまったのよ、冷血王子様……塔の扉は開かれてしまったの。あの子がここからいなくならない限り、アナタは嫌でも感化されて前に進んでいく。さあこれからどうするの。すべてはアナタ次第よ? 滅ぶのも。救うのも」
ヴァイオレットは歌うようにそう言い切ると、真剣な瞳でグレイフィールを見つめた。
何か言おうとする前に、鏡の奥から別の声が聞こえてくる。
「グレイフィール様、グレイフィール様~! 聞こえるっスか~?」
それはワーウルフの商人、イエリーからの連絡だった。
ヴァイオレットは一度だけニヤッと笑うと姿を消し、代わりに人間界にいるイエリーの姿を映しだす。
グレイフィールは気持ちを切り替え、イエリーの呼びかけに応じた。
「あ、ああ、聞こえている。なんだイエリーよ」
「売り上げの定期報告っス! あと、またちょっとしたお願いがあるんスよ~」
「お願い?」
これが後のグレイフィールに、また大きく影響を及ぼすこととなったのだった。
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