チャタレイ裁判と悪徳の栄え裁判


 〜 文学史上、有名な上記の最高裁判例が示すものとは?


 文章表現における「猥褻わいせつ性の判断基準」がどこにあるか争った判例で有名な「チャタレイ裁判」(昭和32年・1957年)と「悪徳の栄え」事件(昭和44年・1969年)。


 これらの判例は「みだらに性欲を興奮又は刺激せしめ,且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し, 善良な性的道義観念に反するもの」(1)を猥褻とした。


 「猥褻」という「社会通念」が「表現の自由」を制限するという「公共の福祉による制約」を認めている。当然のことながら、何を持って「猥褻」と判断するのかということになり、曖昧な判断基準として、「表現の自由」の後退を巡って批判が常につきまとうことになった。


 「社会通念」が「公共の福祉による制約」を盾に「表現の自由」を制限することは、国家のあり方、時流、何を持って普通・正常とするのかの世論などに左右され、個人の自由が侵害される可能性を示す。


しかしながら、後者の判例では「文書等の猥褻性の強弱,科学性,思想性,芸術性,そして,作者の態度,宣伝,広 告方法などの観点から相対的に判断するべきである」(2)と反対する田中二郎裁判官の反対意見が付されたことに注目したい。


 戦後、価値の多様化に伴い、個人の自由を尊重する方向に社会風潮は変わってきても、日本に表現の自由を最大限に守る判例は出ていない。


 猥褻物イコール「みだらに性欲を興奮又は刺激するもの」つ、「普通人の正常な性的羞恥心を害し, 善良な性的道義観念に反するもの」であることははっきりしたが、自分の表現するものが、そこに当てはまるか、決めるのは「社会通念」ということになる。


「公共の福祉の善意の第三者」の存在がどう感じ、何を思うか。猥褻か芸術か。自分の所属している社会階層、地域社会、国家の社会通念・常識に寄る以上、自分の創作物の表現の自由が制限される制約がかかってくる。


 他の事例を挙げることにする。

 




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情報出典


『日本国憲法における「表現の自由」の意義  梅山香代子』より


(1) 最高裁大法廷判決 昭和32年(1957年)3月13日

(2) 最高裁大法廷判決 昭和44年(1969年)10月15日


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参考URL


日本国憲法における「表現の自由」の意義  梅山香代子

http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8214921_po_02umeyama.pdf?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F8214921&contentNo=1&alternativeNo=&__lang=en


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