第17話 雨の日の傘の恋

 目覚し時計代わりの携帯が鳴っている。うるさいなと思いながら、携帯を探して、薄眼で操作して、音を止めた。

 時間…と思いながら、握ったままの携帯の画面を付ければ、別に焦らなくてもいいけど、あとあとを考えれば起きなくてはいけない時間だ。

 めんどい…そう思いながら、布団をめくって起き上がった。

「早く起きなさいよー」

 追い打ちをかけるように母の声がする。

「んー」

 恐らく母には聞こえないであろう返事。

 返事すらダルい。

「学校遅刻するわよ」

「んー」

 廊下から聞こえる声に、さっきよりは大きな声で返事をする。

 遅刻しないし、時間的には、余裕、と反論することさえ面倒なので、朝は言われるまま。

 制服に着替えた私は、廊下に出ると、洗面所に向かった。

 洗面所で顔を洗って顔を上げると、廊下を通った母が、洗面所を覗いてきた。

「今日は夜遅くなるから、先にご飯とお風呂ね」

「んー」

 分かった、の意味で返事をして、髪を櫛で梳かした。

 私の返事は聞こえていないのであろうが、すぐに廊下に消えてバタバタと歩き回る母に、毎朝大変だな、と鏡越しに思う。

 マンションだから、下の階の人にも響いているのでは、と思うくらいで、見てるこっちが疲れるほど、母の朝の忙しなさは、ヤバい。

 洗面所からリビングに行くと、リビングのテレビはつけっぱなしなのがいつもの朝だ。母曰く、時計代わりにしているそうだが、テレビを観ている時間も無さそうで、果たして時計としての役割は微妙だなと思う。

 つけっぱなしのテレビのチャンネルを変えることもなく、見ながら朝ごはんにする。

 炊飯器から食べるだけのごはんをお茶碗に盛って、机に置いた。

 机に並んだタッパーに入っているおかずを、食べる分だけ少しずつお皿に乗せた。

「いってきます」

 少し遠い玄関からの母の声。

「んー」

 ご飯を食べながら返事をして、ガチャンと玄関の鍵がかかる音を聞いた。

 自分の立てる音はテレビの音に消されていく。さっきよりテレビの音が大きく聞こえる。

 テレビから聞こえてくる天気予報。綺麗なお天気お姉さんの声に、顔を上げると、今日の天気のところに、曇りと傘マークがついている。

 時間帯別の天気予報に切り替わり、夕方から雨か予報らしく、お出かけには傘をお持ちください、と典型文のような言葉に、はいはいと心の中で返事をした。

 食べ終わると、お茶碗とお皿を流しに置いて、水につけた。おかずのタッパーたちは冷蔵庫へ詰めていく。

 机の端に置いてある弁当は熱を逃がすために蓋をしていない。お弁当箱を手に取って蓋をして、下に敷いてあったバンダナでお弁当箱を包んだ。

 一度部屋に戻ってスクールバックに弁当を入れると、玄関に置く。ついでに、玄関に置いていた折り畳み傘を入れた。

 雨か、めんどうだな…と思いながら、洗面所に行って歯磨きをしながら、リビングでは誰も見ないテレビが、芸能ニュースを喋っている。リモコンで消すと、一気に静かになった。

 洗面所の鏡で髪が跳ねてたり歯磨きあとがついていたりしないか確認して、玄関に向かった。

 スクールバックを肩にかけて、玄関の靴入れの上に置いている鍵を握った。ローファーを履いて、玄関から出て扉を閉めると、少し重い扉が音を立てた。

 鍵をガチャンとかけて、もう一度ドアノブを下にさげて確かめる。鍵をスクールバックにしまいながら、マンションの廊下を進んで、エレベーターに向かった。

 高校までは歩いて行ける距離で、いつも通り、変わり映えのしない道を歩いていく。

 高校の近くになると、登校する生徒の声でざわざわとし始めた。それなりに人数のいる高校で、校門で同じクラスの人間に会うことはあまりない。

 昇降口でローファーから内履きに履き替えると、さすがに同じクラスの人間に会うけど、あまり話さない人間の時は、互いに挨拶をすることもない。

「おはよー」

 と声が掛かり、その声の方に振り向けば、いつもつるんでいる、友達だった。

「はよ」

 最初の「お」が掠れた声で短く返事する。

「今日さ、小テストあんじゃん、ダルくねー」

 と、朝からテンションが低めなわりに、見た目は気合が入ってる友達の隣に並んで歩き始めた。スカートを折って短くし、化粧をして、髪の毛の先をコテで巻いているらしい。

 教室があるのは、二階で、階段を登る時も「あーエスカレータになんねーかなー」とボヤく友達に、いつも言ってるなぁとまだちゃんとは働かない頭で思う。

 教室に入れば、ガヤガヤと話し声が充満していた。

「あ、おはよー」

 と先に席に着いて、もうすっかり鞄の中の物をしまっている友達に、真面目だなぁと思いながら、返事をした。

 一緒に来た友達とその子が自分の席に集合する。

 スクールバックを机の横に掛け、椅子に座りながら、

「今日の放課後は、先に帰るわ」

 と二人に声を掛けた。

「なんかあるの?」

 と首を傾げる友達に、

「親が今日、遅いんだって」

 というと

「?そっかー」

 とスクールバックを肩に掛けたまま、派手な見た目の友達は言った。

「なら、遊べるのでは?」と顔に書いてあるのだが、あまり、深く聞いてこないのが、この子の良いところ。時々、素なのか、気遣いなのかが不明な時があるけど。

 この子の場合は、彼氏が同級生で、別クラスとはいえ、割とデートをする。お互いに部活が不定期ということもあって、バイトまでの時間遊んだり、夜に電話したりするらしい。

 それを聞く、というか、勝手に話されることがほどんどだけど、羨ましくなる。

 あの人の話を、この二人には、したことがあった。

 覚えているかは分からないが、気になる人がいるといった時の二人の驚きようは、こっちが驚くくらいだった。まして、年上の人、と言うと、なんだか、妙に大人しくなったから、なんだ?と思ったくらいだ。

「なんだか、分かる気がする」

「うん、なんとなくだけど、年下とか同級生のイメージないもんね」

 そう言った二人からは、確かに「大人っぽい」「落ち着いてる」と言われたことがあった。

 そんなことないんだけどな、と反論するのは、いつも心の中だけ。

 別にそう思われていようが、どうでもよくて、その人の勝手なので、私が否定したところで、と思ってしまう。


 気になる人が出来たのは、つい、最近。駅の近くのカフェで見かけたのが最初だった。

 普段は徒歩通学だから、駅まで来ることはないのだけど、その日はたまたま本を買う予定があって、駅の近くの本屋に学校帰りに立ち寄った。

 せっかく駅の方まで来たのだからと、贅沢をして、カフェに入り、外に面したカウンター席に座って携帯をいじっていた。

 携帯に飽きて、顔を上げると駅に急ぐ人が早歩きで行き交うのが見えた。こうしてぼんやり眺めていると、なんだか大人になった気がした。

 ただ、制服でこんなところにいるのは、私くらいなので、なんとなく「高校生が大人ぶっちゃって」と言われている気がして、だんだんと落ち着かない気持ちにもなる。

 長居ができず、やっぱりマックとかにすれば良かったかもと後悔し始めていた時だった。

 ショートサイズで注文したコーヒーがまだ飲み終わってないので、それを持って、席から立とうとした時、店の外で、男の人が慌てて女の人を追いかけてきて、傘を渡したのが目に入った。

 男の人は書店名の入ったエプロンをしていて、女性に渡した傘は、女物だと一目でわかるものだったので、女の人が忘れたものを追いかけてきたんだと分かった。

 ガラス越しで声は聞こえないものの、女の人が笑顔で、お礼を言っているのに、男の人が少し照れながら、答えているのが分かった。

 いい人なんだな、としか思わなかった。

 その後、女の人が駅の改札に向かって歩いていくのを、男の人は駅とは反対方向に歩き出したのに、一度止まって振り返った。そして、女の人はもう行ってしまったと思うのに、時間にしたら数秒だけど、眺めているのをみて

「いいなぁ」

 と思わず声に出ていた。

 男の人はそのまま来た道を帰って行った。

 私は、さっき買った本の袋をスクールバックに閉まって、飲みかけのコーヒーを少しだけ勢いよく吸った。

 さっき立ち寄った、この本屋とは違う方向に、あのエプロンの本屋があることは知っていいた。

 覗くだけ。

 そう誰に言い訳するでもないのに、少しだけ焦るように、コーヒーを飲んでいく。

 カフェの中にあるごみ箱に飲み終わった容器を捨てて、足早に本屋に向かっていた。

 駅の近くとはいえ、私の家のある方向とは駅を挟んで反対の本屋には、あまり行かない。

 小さな町の本屋はチェーン店とは違って、なんとなく、入りにくい。常連じゃないといけないような、お客さんの顔を覚えています、みたいな、あの雰囲気があんまり好きじゃない。

 勢いで本屋に到着すると、入口が自動ドアで、勝手に開いた。開いてしまうと、入らざるを得ない感じがする。

 入口近くのレジを横にして、店内に進んでいくと、なんとなく、入口近くの雑誌のコーナーで立ち止まった。

 雑誌の一冊手に取って、開いて中を見るフリをして、レジを見た。

 さっきの男の人が、いた。

 雑誌のページをめくりながら、その中身は全然頭に入らない。ページをめくりながら、ドキドキしていることに改めて気づかされる。

 一冊の雑誌をめくり終わると、その隣の雑誌を手に取って、また、ページをめくった。読んでいるフリをしながら、肩に掛けたスクールバックをかけなおす。

 声を掛ける?

 いやいや、いきなりなんだ、で終わるでしょ。

 いくつくらい?

 大学生かな、もう少し上?

 聞けない、聞けない。

 買い物…は、もうしちゃったし。

 別の何か買う余裕はない。

 二冊目の雑誌を棚に戻しながら、少しだけ冷静になって、ため息をして、帰ろうと思った。

 それでもなんとなく足が出口に向かわないで、棚をぐるりと歩くように進む。棚ごしに、レジの男の人を見た。別にイケメンとか、そんなんじゃない、どこでもいるような人。だけど、なんかドキドキする。

 変に思われるかもしれないし、買うものがないから、もう出るしかない。と、自動ドアから外に出た。

 店の外からはレジは見えないけど、少し歩いたところで、店を振り返った。

 あの人が好き?

 あの人と付き合いたい?

 名前も知らない、一瞬見ただけの、そんな人。

 歳だって離れてるに決まってる。

 悶々と考えながら、降り始めた雨に、折り畳みの傘をさして家までの距離を歩いた。


 夜。布団の中で、あの人の顔を思い浮かべた。

 一瞬しか見えなかった照れた横顔。

 レジでの無表情。

 似合わない女物の傘を持ってたところ。

 レジのところに立つ姿。

 一目ぼれ、ってやつ?

 布団の中で寝がえりを打った。

 こっちは知っているのに、こんなに考えているのに、あっちは私のことを知らないし、考えてもいない。

 なかなか寝付けないでいる焦りもあって、なんだか、不公平に思えてくる。

 こっちばかり、と自分でもよく分からないけど、なんだかムカつくような気持ちになった。


 朝。携帯のアラームが鳴って、止めると母の声がした。

「遅刻するよー」

「んー」

 携帯の時計を確認しながら、声になっていない返事をする。

「起きてるー?」

「んー」

 昨日の夜のことをふと思い出した。

 変わらない。

 布団から起き上がりながら、のそのそと、制服に着替え始めた。

 あの人のことが気になる。

 昨日、今日で、忘れたら、それはそれで問題だけど。

 なんだか、ムカつく気がする。

 そんな気持ちが残っていて、朝からちょっとムッとする。

「いってきます」

 と出て行った母に

「いってらっしゃい」

 と、声を出した。

 掠れた声は、すぐに閉められた玄関の扉で届いていないかもしれないけど、朝からなんだか、声を出したくなったんだ。


                                  おわり


『古今和歌集』巻第十一 恋一 四八六

                   よみ人知らず


 つれもなき 人をやねたく 白露しらつゆ

       おくとはなげき とはしのばむ


 無情なあの人を、しゃくにさわることだが、

 私はどうして朝起きては思い嘆き、夜寝ては恋い慕うのだろうか。

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