第11話 百面相案件

 社会人になって、毎日が慌ただしく過ぎていく。覚えることはたくさん、気を遣い、へとへとになっても、その疲れを顔に出せば注意される。

 そんなこんなで一カ月が経った。

 いつもなら営業先から直帰することが多いが、今日はたまたま内勤で、提出する書類の作成に追われていた。

 定時退社なんて言葉はほとんどない営業職についたのは、一番はイメージだった。バリバリ仕事をするイメージ。なんとなくだが、カッコいいな、と。

 それに、自分は喋ることが好きだった。人も好きだった。大学の時のサークルは季節のスポーツを楽しむサークル。平たくいえば、遊びまくるサークル。バレー、フットサル、サーフィン、テニス、バスケ、ボーリング、スキーと一年中体を動かし、BBQに飲み会はよくやっていたと思う。

 後悔まではいかないが、営業職の大変さを甘くみていたと、この一カ月で否が応でも感じていた。

 歓迎会という名で行われた飲み会の席。主役というわけではなく、上司のご機嫌取りに駆けずり回っていた。ただ、その会は営業部だけではなく、事務部も一緒だったこともあり、男だらけのむさ苦しい感じではなかったことが唯一の救いだった。男性が多い営業部に比べて、全員が女性の事務部が会で一緒になるのは、上司や先輩もご機嫌にさせていた。

 事務部の人たちとはほとんど接点がない。ただ、全くの無関係でもなく、営業で使う資料や営業で使った主に交通費などの経理処理と、話す機会はある。とはいえ、仕事のそれこそ事務的なことしかやり取りのないため、名前を覚えることが割と得意な自分でも忘れがちになってしまう。さり気なく、首から下げている社員証をちらりと確認してから話すこともある。

 営業部と事務部のフロアは同じ。ただ、仕切りがあって互いが見えるわけではない。そもそも営業はほとんどが外回りで、席などあってないようなものだ。

 飲み会の席で知ったのは、中には事務より営業の方が向いているのではという人もいることだった。

 そう考えていたら、その人が廊下の向こうから歩いてくる。自分の部署からとは逆方向だったから、どこか違う部署に行っていたのだろうと思われた。片手に書類を抱えていた。

「あら、新人くん」

「お疲れ様です」

「もしかして、私の名前知らなかったりする?」

「そんなことないですよ」

 苗字にさんづけで呼ぶと、よくできました、と笑顔で返される。

「今日は、外回りはないの?」

「はい。今日は一日、書類の作成です」

「そう。どう?はっきりいって毎日疲れてヘロヘロでしょ?」

「正直」

 苦笑いしながらいうと、正直でよろしい、なんて言ってくれる。

「年上のお姉さんからいえば、もう少ししたら力を抜けるところが分かって、ちょびっとだけラクになるみたいよ。ま、私のところとは勝手が違うかもしれないけどね」

「アドバイスありがとうございます」

「いやね、かたい」

 書類を持っていない手の方で、おばさんがやるような手招きの仕草をした。ただ、おばさんっぽくはなく、むしろ親近感を持たせてくれる。

「そうそう、新人くんは、うちの事務の子で気になるなーって人いないの?」

 さっきよりも雰囲気を崩し、書類で口元を隠して内緒話をするように、少しだけ声を落として言う。

「いませんよ。今はそれどころじゃなくて」

「と、いうことは、今はフリーなんだ?」

「これは一本取られましたね」

 あら、簡単に認めるのね、と口元から書類を下げつつ笑った。

 こういうとこか、と同期の男同士で話したことを思い出した。


「事務部の課長、良くない?美人だし、スタイルいいし、それで仕事バリバリできるらしいぞ」

 いつだったかの休憩時間に、今、目の前にいる人の話になったのだった。

「わかる。社交的でフレンドリーだし、欠点がないよな。なのに、噂じゃ結婚してないらしい」

 ひそひそ話をするようにしたのは、休憩室という人が多くいる場所だったからだ。

「え、そうなの?うちの指導からは、内縁の夫がいるとか聞いたぞ」

「いや、年下彼氏がいる噂が」

 ほかの他の三人がそれぞれ言うのを聞いて、ここまでバラバラな噂って逆にすごいなと思ったのだった。

「いや、わかんねーな。ミステリアスレディってか。キャリアウーマンっぽいのに、人懐っこい感じで、事務にしておくには勿体ないよな」

と一人が言えば、みんなが同意していた。


 そんな人と今話しているわけで、きっと同期に言えば、羨ましがられること間違いがなかった。

 事務と言えばと思い出して、あ、とつぶやいた。そのつぶやきを聞き逃さず、何々?と好奇心を隠さずに前のめりになって聞いてくる。

「いえ、このあいだ、帰りの電車が一緒だったんですよ」

 と事務の一人の名前をあげた。

「そうなのね。へぇー、ここら辺は路線も多いし、分かれるのにね」

「そうですね。声かけるか悩んだんですけど、なんとなく言いそびれてしまって」

 一応関わりのある部署の人ではあるし、お疲れ様ですくらいは挨拶をするべきかと思ったのだった。同じ部署の人間なら外でも声をかけるが、一歩会社を出てしまうと、普段は外で見かけない部署の人に声をかけるのはなんとなく躊躇われた。

 結局、路線が一緒で、同じ電車には乗ったものの、少し離れたドアから電車に乗り、姿は見えるくらいの距離にいた。あっちの方が先に降りたようで、気づいた時には、いなくなっていた。

「ふーん。新人くんは、うちのあの子が気になると?」

 いつのまにか、口元を片手で隠しているが、にやにやした顔をしているのが分かる。

「ち、違いますよ。たまたま路線が一緒だったということだったので、言っただけです」

 焦って否定するものの、うんうん、と頷きながら、わかったわ、と言う。

「で」

 で?とオウム返しをする。

「もっとあるでしょ、あの子の印象とか」

 普段から明るい人らしいが、生き生きして声が弾んでいる。

「勘弁してくださいよー」

 そう言いながら、あの人のことを考えた。

 なんか一言いわないと解放しないわよ?と言われ。それ、パワハラですよ、と言い返したが、聞いていない風に横を向かれてしまった。

 再びこっちを好奇の目でみてくる。

「…雰囲気とかいいなって。あとは…、き、きれいな人ですよね」

「はい、いただきました。これは、あの子に報告だわ」

 そういうと、くるりと自分の部署の方向に体を変えた。

「やめてくださいよ。なんとなく嫌な予感がします」

 背中を追う形で声をかければ、再びこちらに向き直る。

「そんなことないわよ。とっても親切な私が、とっても素敵にアレンジして伝えるわ」

「そこですよ」

 げんなりしたリアクションをすれば、また一笑いする。

「ま、冗談はさておき、引き留めて悪かったわね。私も席に戻るわ」

 そういうと今度は本当に自分の部署に向かって歩いていった。

 きっかけはどうであれ、引き留めたのはどちらかというと自分のほうであるのに、こういう気遣いのところが凄いなと思う。

 大学の時、元気で明るい子はたくさんいたが、こういう気遣いのできる人はあまりいなかった。年上の人、みんながみんなこととは限らないが、かっこいいと思う。

 颯爽と歩いていく。こういう人をできる女というのだろうなと感心してしまう。確かに慌てている姿は想像できない。なんで営業のじゃないのかと改めて疑問に思う。

 それにしても、自分の発言を今更ながら撤回したくなった。なんで言っちゃったんだろう。廊下の端で、握ったこぶしを額に当てた。

 あれじゃ、気になってるって思われても仕方ない答え方だった。

 いや、好きとかじゃないんだよ、まだ。いや、まだってなんだ、まだって。

 同期で話した時を再び思い出す。


「お前は気になる人いないのかよ」

「そんな余裕ねーよ」

「いやいや、だからこその潤いだろ」

 うーん、と唸ってから同じ路線を使っているあの人の名をいう。

「いったっけ」

「お前、それは失礼だろ」

「そんな目立たないけど、キレイ系だと思うけどな」

「キレイ系か」

「大丈夫だ、趣味趣向に誰も文句は言わないからな」

 なんだよそれ、と笑いあった。


 今日の書類は事務の人に頼んで印刷をかけてもらうものもある。なんとなく、頼みにくい気がして、でも、あの人もいるんだよなと思った。

 とにかく書類を完成させなくては、と仕事モードに切り替えるために力を込めて歩いた。

 早く仕上げて、定時に帰ろう。

 そうすれば、またあの人と帰りが一緒になるかもしれない。と一瞬考えて、せっかくの仕事モードが台無しになった。

 恥ずかしい。廊下で一人百面相をしているが、それ自体の恥ずかしさには、まだ気づかなかった。


『古今和歌集』 恋部 四八〇

   つからず       元方もとかた

 便たよりにも あらぬおもひの あやしきは こころひとに つくるなりけり


    題知らず       在原元方

  便りを届ける使いでもないのに、恋の思いが不思議なのは、

  心をあなたのもとに届けてしまったことだよ。


                                11話 完

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