第10話 残った音と共に
雑音。
信号機、車の音。
足音、話し声。
その中で、どこからか聞こえる、規則性のある音。
音楽が流れている。
十分な道幅があるにも関わらず、人がすれ違うのには注意が必要なくらい混んでいる。だれもが避けようという意識で歩かないこともあって、ぶつかりそうになる。時々ワザとだろと思うくらい体や鞄がぶつかるが、謝罪などないことの方が多い。いつの間にか眉間に皺を寄せながら人込みを歩いていた。
見れば仕事終わりの自分と同じようなスーツ姿の人も見えるが、ほとんどが若い中高生か大学生くらいの私服の人間だ。オフィス街ではなく、どちらかといえば、遊ぶために訪れる人が多いこの場所は、仕事場からは電車に乗らないと着かない。
仕事終わりに用がなければ来ることのない駅で、今日は降りた。かといって特別な用があるわけではない。明日が休みということもあって、今日はそのまま帰る気持ちにならなかっただけだ。用事、あえてあげるならば、夜ご飯くらいで、たまには外で食べるのも良いかもしれない、と考えていた。
いつもは家に帰る途中のスーパーで出来合いの弁当で済ませている。一人暮らしも長く、自炊もできなくはないが、仕事のある日はとてもそんな気分にならない。かといって休みの日は時間が不規則になるせいか、そもそも食事らしいものを摂らない。料理ができないわけではないと自分では思っているが、特に好きでも食にこだわりもないために、疎かにしていると自覚はある。
普段降りる駅でもなく、目的のお店があるわけでもないため、人込みの中で目的なく流れのままに駅から離れるように進んでいた。
飲食店が並ぶ通りがこの先にあったはずだと、曖昧な記憶を頼りにしていた。もし飲食店が少なくても、駅に戻ればそれなりに店はある。そもそも駅で済ませることもできたが、なんとなくふらふらと歩きたい気分だった。ただ、この人込みは予想外で、駅から出た瞬間に後悔し始めていた。
目的なく歩くとなんだか、人より歩くのが遅くなるな、と自分を追い越して歩いていく人たちを見た。長めの肩掛けに黒の鞄は多く荷物が入っているわけではないが、軽くはない。いくら軽量化が進んでいるとはいえ、ノートパソコンはそれなりに重い。特に朝の通勤ラッシュの時の面倒といったら、ため息が出る。
ともかく夜ご飯をどこで食べるか決めなくては、と記憶頼りに進んだ先に見つけ、飲食店が並ぶ通りに入った。人込みの上、道の片方に立っている建物の横に突き出た看板を見上げて進む。
雑音の中に音楽が聞こえてきた。飲食店からもれている店内BGMかと思ったが、飲食店のある方とは逆、建物などがなく道路に面している方からだ。
音楽のもとを辿るようにして、建物が並ぶ方から道側へ、斜めに歩いていく。人と人の間を縫うようにして歩くことは、一種のスキルだよな、なんて思う。流れから少し外れるためか思うようになかなか進まず、人にぶつかる。
「あ、すみません」
という声は相手に聞こえていないのかもしれない。それでも振り返ることなく進んでいく人を見ると、ため息をついた。
一瞬振り返った顔を戻して、進む。音楽らしき音は、今は聞こえない。
人込みの先に、そこだけ空間が開いている。再び音楽が聞こえ始めた。
目の前を横切る人越しにみると、一人の男性が椅子に座ってキーボードを弾きながら歌っているようだった。行き交う人から一歩その人の近くにいけば、そこだけ流れがなく別の空間のようだった。そこにはカップルらしき一組と、大学生くらいの女の子が一人いた。歩きながらなんとなく気になって歩みを緩めたわけではなく、ちゃんと聞いていた。
なるほど、ストリートミュージシャンってやつか。
ある程度の知名度があれば、路上でこうしていても人の輪ができると聞く。ストリートミュージシャンがプロデビューしてという話もある。ただ、その確率は低く、ほとんどがこうして足を止めて聞いてくれる人がいても数人で、生活などとてもできないとか。
演奏している彼の手前には鞄が置いてあり、そこに紙が貼ってある。この人の名前らしい。隣には宣伝のためのチラシが置いてあった。
後ろの雑音から近づけば、曲は聞いたことがある流行りのものを演奏しながら、固定されているマイクに向かって歌っているらしかった。チラシの置いてある斜めの位置にいると、後ろを歩く人に押される形で一歩出た。後ろを振り返るも、押した人などはわかるわけもなく、気まずい。歌うその人の近くに一歩進んだ。
演奏しているその人の左真横のカップルらしき二人も、決して冷やかしでいるわけではないようで、曲に合わせて少し体を揺らしている。正面に近いところにしゃがむようにして聞いている女の子は、真剣に聞いているらしく、ファンかとさえ思えた。
押されるようにして近づいたものの、視線を泳がせていると、一曲終わったらしい。カップルらしき二人が拍手し、女の子も拍手している。なんとなくつられて小さく拍手をした。
正直うまいとか、下手とかは良く分からない。音楽が詳しいわけでもないし、今の演奏も知ってる曲だなとわかるくらい。ただ、その曲のアーティストが歌うものよりも、静かな感じで優しい気がした。キーボードだけだからとか、一人で歌っているからとか、いろいろ要素があるのかもしれないけど。この人の声によるところもある気がした。
「ありがとうございました」
マイクに向かってそういう声は、さっきまでの歌声とは少し違うようで、でも、曲から受けた印象や雰囲気は変わらなかった。ゆっくりとした話し方。
「改めて自己紹介させていただきます」
それはおそらく自分に向けられたものだと思ったが、名前を名乗ったその人はこちらには視線を向けずに話している。名前と、こうしてストリートミュージシャンをして何年という簡単な自己紹介だった。
「今からお届けするのは、僕のオリジナル曲です。どうか、ひとフレーズでも気に入ってもらえたら嬉しいです」
そういって弾き始めた曲調はバラードのような静かさがあり、かと思えば、早いテンポにもなった。歌いはじめたその歌詞を注意して聞く。
雑音にかき消されないように、耳を傾ける。
どこが、かは、分からない。どのフレーズだったか、一度だけのそれは、すぐに消えてしまう。ありきたりな単語だったのかもしれない。
それでも、その曲は僕にとっての一つの出会いになった。
励まされた、そうかもしれない。疲れていたから。毎日仕事して、休みは寝て、また仕事が始まる。朝早くから夜遅くというほどではない。ただやることをやっている毎日、仕事だな、と改めて思うだけだ。生きるためにお金をもらうためだけの仕事。人間関係で悩んでるわけでもないし、今日が仕事で大失敗をしたというわけでもない。ただ、疲れたなとは毎日思う。
曲のなかで、叱咤激励するような、鼓舞するような言葉があったわけじゃない。僕はきっとそういったものはどちらかといえば苦手だ。
共感した部分があったのかと思う。そうかもしれない。いつだったか、心理学の本で共感ということが大事だなんてことを読んだ。最近本屋でもその手の本が売れているらしい。うつ、という言葉は珍しくもないし、自殺や精神疾患ということが他人事でもないと会社でも言われる。共感か、でもその部分だって歌詞を思い出せない。
もとから音楽には疎い自覚はある。記憶力もそれほど良いわけでもない。こうして、周りが騒がしいということもあっては、半分も聞けていないかもしれない。それでも、曲が終わった時、しっかりとはっきりとした拍手を送っていた。
曲が終わってからカップルの二人は一言二言話しして、女の子の方が財布を取り出し、小銭をしゃがんで鞄の傍の入れ物に入れた。
「ありがとうございました」
マイクでそういうと、カップルはお辞儀をして離れていった。
「オリジナル曲『歪な輪っか』を聞いてもらいました。ありがとうございました。本日はここまでとしたいと思います。明日もこの場所でやりますので、お時間がありましたら、よろしくお願いします。本日はありがとうございました」
椅子を引いてお辞儀をしたその人と一瞬、目があった。あ、と思った時にはにっこりと笑いかけられてしまって、なんだかむずむずとした。こんなおっさんに、恥ずかしいという気持ちと申し訳ない気持ちが入り混じる。
歌っていたその人は自分より確実に年下だ。
苦笑いしていると、視線はファンらしい女の子へ向かった。ちょっとホッとすると、今度はキーボードの前にむかって歩いてきてチラシを数枚手にとった。
「あの、聞いてくださってありがとうございました。もしよろしければ、チラシも持っていってもらえませんか」
「あ、はい」
と受け取ると、感謝の言葉を言われる。
感想など言えたらよかったのかもしれないが、とっさに言えるような言葉がみつからない。頷くようにして、受け取ったチラシに視線を落としたまま、それっきりとなってしまった。
いつの間にか近くに来ていた女の子が待ち構えているようにしていた。その子に体を向けたのを見て、自分は肩掛けの鞄から財布を出した。特に数えるわけでもなく、小銭を握り、チラシの隣の入れ物に入れた。
方向を変えて人の流れの方に向きなおってから、一度ため息をついた。そして、駅に向かって歩き出そうとした。
背中にありがとうございましたというあの声が聞こえた気がしたが、雑音が大きい。
振り返らずに駅に向かう。チラシは財布を出した時に鞄の中にしまった。
今日は外食しないで帰ろうと決めた。早くひとりになりたいと思った。
『古今和歌集』 恋部 四七九
そこなりける
貫之
人が花摘みをしている所にたまたま行き合わせて、
そこにいた人のもとに後に詠んで贈った歌
山桜を霞の間から見るように、ほのかに見かけたあなたが恋しくてたまりません。
10話 完
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