第8話 チークカラーは何色

 化粧室、時々そこはおしゃべりの場となる。

 仕事の昼休みも終わる頃、お弁当を一緒に食べていたメンバーが散り散りになった。化粧室に歯磨きをしに行ったり、煙草を吸いに行ったりと、残りの昼休みを過ごす。

 私は歯ブラシや化粧ポーチを持って化粧室に向かった。扉を開け、さっきまで一緒にお昼を食べていた同僚一人と洗面台の鏡越しで目が合った。それから違う部署の人がもう一人。違う部署の人がいる手前、なんとなくお昼のメンバーの同僚にも、他人行儀に頭だけ軽く下げた。違う部署の人は洗面台から離れ、入れ違いのように出ていくところだったようで、すれ違いざまにお辞儀をした。

 洗面台の鏡の下、少し棚のようにせり出しているそこにポーチを置いて、ケースに入っている歯ブラシと歯磨き粉を取り出した。歯磨き粉を歯ブラシにつけてから洗面台の蛇口の下に持っていくと自動で水がでて歯ブラシが濡れた。

 静かな空間に、鏡に向かってシャカシャカと音だけがする。洗面台の後ろは化粧直しのできる鏡が並んでいる。なんとなく鏡越しに様子をみてしまう。同僚はファンデーションを塗り直しているらしかった。

 歯磨きが終わって口をゆすいで顔をあげた。タオルで口元を拭い、ケースに歯ブラシと歯磨き粉をしまいながら、ポーチを脇に挟んで後ろに向かう。後ろの鏡台に歯磨きのケースを置いて、それから脇に挟んだポーチも置いた。ポーチのチャックを開け、あぶらとり紙のメモ帳みたいになっているものをだして、一枚ぺリぺリとはがした。額と鼻を押さえながら油をとっていく。

 隣合うようになった彼女は、目元を直しているらしかった。

「そういえばさー」と唐突に声をかけられ、目だけ動かして鏡の中の彼女を見る。自分の顔を押さえたあぶらとり紙の色が変わっていく。

「営業の新人くんが言ってたよ」

「なんて?」と聞き返しながら手を動かしていた。

 営業は自分の部署とは違うが、接点がない部署でもない。営業の新人くんと言われてあぁあの子か、くらいには顔が分かる。ただ、それほど仕事で関わることはなく、営業の人は基本的に外に出ていることが多いこともあって、名前と顔が一致している程度だった。親しくしている人もいないし、関わりのある部署の一人が最近増えたな、くらいの記憶である。

 彼女は鏡に向かってアイラインを引いてアイシャドウを瞼に指で塗っていた。

「帰り、たまたま同じ時間だったらしくて、あんたのこと見たって」

 部署ごとで帰宅時間がまちまちだったり、まして営業の人は現場からの直帰があるせいか、帰りが同じとなることは珍しいといえば珍しいことだった。それでも、いつのことなのか分からないけど、そんなことあったんだ、ぐらいにしか思わない。

 使い終わった、あぶらとり紙を折って台においた。ポーチからファンデーションを出してスポンジで直していく。

「で、声かけるか悩んで、かけなかったらしい」

「なんじゃそら」と、ファンデーションを塗っている手を一瞬離して、笑った。

 声をかけられたらさすがに記憶にあるはずだが、最近そんな記憶はなかった。記憶にないということは、その通りだったのだろう。横の鏡では同僚がチークを入れていて、顔が少し明るくなった。

「別にとって食ったりしないのに」と、あははと笑う彼女に、私はどんなイメージなんだと言いたくなる。彼女のこういう軽口が皆から親しみやすいにつながっているんだと思う。

 口紅を持ったところで、自分のポーチにファンデーションを戻して、アイブローを出した。

「あれかな、名前覚えてなかったとか」

 口紅を塗ってから、んぱっ、と唇を窄めて離し、なじませている彼女を横目でみた。

「それ言ってきたときは、はっきり名前言ってたよ」

 うちの部署での女性はいわゆるオフィスカジュアルである。今日の彼女はぴったりとしたベージュのパンツにさらっとした生地のシンプルな黒のシャツ。シャツの形は最近はやりの襟元が抜けるタイプを着ている。女性らしい恰好ではなくても、なんとなく、女性らしいのは化粧での華やかさもあるのだろう。

 元々の雰囲気のせいかも知れない。彼女は同じ部署内でも華がある。というか社交性があるというか、交流関係が広い。コミュニケーション力の塊というのは誉め言葉だ。

 ふーんと返すと、「さすがにこの時期で名前覚えてないことはないんじゃない?」と。

 彼女はアップにしている髪、サイドの髪は少しウェーブがかかっている。その髪を確認するように鏡で角度を変えてみていた。鏡を覗き込むように前かがみにしていた姿勢を直した。すっと立つ姿が、できる女って雰囲気になる。

「わかんないよ、営業さんとはほとんど接点ないし」

 自分の名前を覚えられていない可能性をいうのは、彼女と比較して自分には突出するところがないということの裏返しだった。バリバリ仕事ができるわけでもないし、社交的でもない。良くも悪くも普通くらいだと思っている。

 彼女のように営業の人とこういう雑談を私はほとんどしない。

「まーね。でも飲み会あったじゃん。歓迎会的な」

「あれは、大人数すぎて名前と顔は一致しないでしょ」

 自分のポーチにアイブローをしまいながら、今度はビューラーを出した。

「まー、そうね。ありゃ完全に飲むだけの会だった。つか、完全にうちら、お酌的な係で呼ばれただけだよね」

「たしかに」と同意すると、彼女は終わったらしく、鏡台に背を向けた。それを横で鏡越しでみて、自分の方の鏡を半目にしてビューラーをする。こうしているときの顔はあまり見せられるものじゃないと毎回思う。

「タダじゃなかったら行かないわ」

「半強制的だったけどね」

 ビューラーをしまいながら今度はアイシャドウのケースをだした。指でそれを瞼に塗っていく。彼女が後ろの洗面台、鏡越しで自分の後ろを見ているようで、少しどきまぎする。

「で、あの場にいたんだ、彼」

 そういいながら、本当ははっきり覚えていた。飲み会以前にも部署の就任時に挨拶はあったし、形だけでも、飲み会の乾杯前には挨拶をしていた。ただ、一対一で話すことはなかったから、相手が私のことをどう思っているかなど、分かるはずがなかった。それこそ、認識さえされていない可能性がある。

「ま、一応主賓だったんじゃない。たぶんほとんど食べたりはできなかっただろうけど」

「かわいそうに」

 そういったのは本心で、飲み会で少しだけ彼を目で追った時、彼は上司にお酌をしていた。それからまた違うときは、別の上司にビールを注がれていた。

「んー全然気づかなかったなー」

 そういったのは帰りのことだったが、彼女には飲み会の時と思われてもいいと思っていった。気になるか気にならないでいえば、気になる。別に彼のことを好きというわけではない。そこまでの関わりも会話もない。ただ、新人で入ってきて、もの珍しいからだと思う。気になるというのは、好意とイコールではない。

「でさ、帰り、同じ路線だったっていってたよ」

 都内というだけあって、最寄り駅は複数あるが、同じ路線というだけで、そうなんだという感想にしかならない。アイシャドウケースをパチンと閉じてがさがさとポーチをあされば、チークをみつけて手に取った。

「あと、あんたのこと、美人さんですねって」

「はっ、何、その、お世辞」

 吹き出すように笑いながら言うと同時に、隣の彼女に顔を向けた。今は、ファンデーションをだけの少し顔色の悪いはずの顔だ。チークのケースを台に置いた。

「いやいや、お世辞でもないんじゃない。なんか雰囲気あったよ?」

「雰囲気って。ありえないわ。話、盛ってるでしょ」

 指にアイシャドウの色がついているその手を横に振った。

「んなことないって」

 否定の言葉を笑いながら言う彼女がくるりと回って、台の化粧ポーチと歯磨きセットを手に持った。洗面台に向かって歩き、軽く手を洗った。そこから化粧室の扉に歩き出す。

「じゃ。私、戻るわ」

 そういう彼女を振り返ってみていた。腕を上げて自分の腕時計をみれば昼休みがあと五分で終わるところだった。

「え、嘘、やば、時間っ」

 鏡に向き直って急いでチークのケースをあけた。

「今度、新人くんに話しかけてみたらー?」

 扉を開けてでていく前に一瞬足を止めてそういった彼女に、勢いよく振り返っていう。

「しないわっ」

 化粧室に一人になり、静寂の中、もう、と小さくつぶやく。

 帰り、声かけてくれたらよかったのに。私も気づけば。あー、なんかもったいないことしたー、と思わずにはいられない。

 お世辞だとしてもやっぱり褒められるのは嬉しいもので、昼休みの終わる時間に焦りながら化粧直しをやりつつ、ドキドキと心臓が速い。

 こんなことで自分から話しかけるようなことはしないけど、やはりちょっとだけでも見方は変わる気がする。午後、彼は外回りなんだろうか、なんて思うくらいには。

 チークを入れて顔に色味がでる。ちょっとチークの量が多かったのか、朝より赤くなりすぎた気がして、指でこする。

 荷物をそのままに、入口近くのごみ箱に油とり紙のごみを捨てた。洗面台で手を洗い、タオルで拭く。ポーチの底の方にいたリップを塗り、その上から口紅を塗って鏡で見ながら口紅をなじませた。顔全体をみて髪を少し触る。

 問題ない、と急いでポーチのチャックを閉めて歯磨きセットとともに持った。化粧室扉の近くの姿見でくるっと後姿を確認して、勢いよく扉を開けた。

 少しだけ口角が上がっている気がする。そして、少しだけ姿勢をよくして歩いた。



『古今和歌集』 恋部 四七六/四七七

   右近うこん馬場ばばのひをりの

   むかひにてたりけるくるま下簾したすだれよりおんなかおのほのかにえければ、

   よみてつかはしける

                    在原業平朝臣

 ずもあらず もせぬひとの こいしくは あやなく今日きょうや ながめくらさむ

   かえし           よみ人知らず

 らぬ なにかあやなく きてはむ おもひのみこそ しるべなりけれ


   右近衛府の馬場で騎射の試合が行われた日、

   馬場の向い側に止めてあった車の下簾の幕越しに

   女の顔がかすかに見えたので、詠んで贈った歌


 見ないというのでもない、といってはっきりと見たわけでもない、

 そんなあなたが恋しく思われて、

 わけもなく今日はもの思いにふけって過すことでしょうか。

    返し

 見たとか見ないとか、

 どうしてわけもなく分けへだてをして言われるのでしょうか。

 ひたむきな愛情だけが、あなたを私に導くものになるのです。


                                 8話 完

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