第6話 お守りを君に
私にとっての「兄」は、いるのが当たり前だった。
私が生まれた時には当たり前だが、もう「兄」だったし、いない世界を知らないことになる。
物心がついて「きょうだい」というものが分かってからは、「お兄ちゃん」になった。小学校の高学年から中学生頃はみんなからの「兄貴」になった。高校生に上がったら、「兄」かな、そう呼んでみようなんて思っていた。
兄は、遠くに行ってしまうらしい。
大学生になる兄が、東京で一人暮らしをすると言い出したのは、大学が決まってからしばらく経ってからだった。聞いていた大学は遠いとはいえ、通えない距離ではなかった。一人暮らしをすると両親に話した時、私はその場にいなかった。特に両親の反対もなく、その後に母から聞かされた私は、そうなんだ、と答えただけだった。
そのちょっとあとに兄から直接聞かされたが、その時も、そうなんだ、とだけ返事をした。
それから兄は急いで引っ越しの準備を始めた。両親は何が必要かとか、いくらかかるかなどを話していることが多くなった。面倒ね、なんていいながら、両親ともそわそわして浮ついているようだった。
兄の部屋に段ボールが増えていった。基本的には扉を閉めているが、時々開けっ放しになっているところを通った時にみた部屋の中は、まだ物が溢れてる感じだった。両親との会話で、大きなものは運ばないと言っていたから、きっとガランとなくなることはないんだな、なんてことをぼんやり思っただけだった。
私たち兄弟は仲が良いというわけでも、不仲でもない。大きなケンカをしたことがないから、不仲ではないのかなというくらいだ。一緒に遊んでいたのも小学校の中学年くらいまでだったし、そのあとは自然とお互いの友達を優先して遊ぶようになった。家にいれば、会話くらいするが、長く話すわけではない。必要なことやどうでもよいようなことをちょこっと話すくらい。
兄の思い出というと、大きな事件もなく、ほとんどは日常に溶け込んでいる。だから、日常からいなくなることが想像できなかった。
引っ越しの日。
「今日は動くんだから、ちゃんと食べなさいよ」と母が兄に声をかけながら、自分の分のごはんをよそって席に着いた。
こうして朝ごはんにみんながテーブルにつくことは珍しい。休みの日はみんなが起きる時間がバラバラだからか、それぞれ好きなものを食べている。平日は母が用意してくれるおかずがテーブルに並んでいるが、そろってから食べるという習慣はこの家はない。夜ごはんはー?などと声をかけることはあっても、いらないときや時間をズラすこともある。べつに家庭崩壊しているわけではなくて、両親が働いているからそれぞれが無理ないのが今の形になっただけだった。
「晴れて良かったわね。雨だと運ぶの大変だから」
「そうだな」
父も今日は運ぶのに駆り出されるらしい。駆り出されるといっても、基本は業者に頼んでいるから、ほとんどいらないとのことだった。私も手伝いなさいと言われていたが、どうやったってド素人の入る余地なんてないように思えた。
朝ごはんを食べ終わってから、私はリビングのテレビを見てぼんやりしていた。休みの日のこの時間は特に面白いものがない。でも、お昼頃の番組は好きだ。私がぼんやりする隣で、父もテレビを眺めるでもなく眺めていた。時々思い出したように新聞を読んでいた。
母は兄の部屋で最終的な片付けをしているのだろう。
「お父さん、段ボールを玄関まで運んでくださいなー」
二階から母の叫ぶ声が聞こえた。
「もう運ぶのかー」
一階のリビングにいる私と父に二階の廊下あたりから叫んでいるんだろうなと、少し聞きにくい声に、父が対応する。
「玄関まで運んでおいた方が、業者の方だってラクでしょう。それに部屋が広くなるじゃない」
恐らくこんなことだろうなと、私でさえよく聞き取れない声に父が、あぁーと返事をした。父は新聞をたたんでソファーにおいて、どっこいしょ、と声をかけながら立ち上がった。特に呼ばれはしなかったが、私も手伝えということだろうな、とテレビのリモコンの電源ボタンを押した。消すと静かになり、二階の物音だけがやけに聞こえた。
父の後ろに続いて二階の兄の部屋に向かうと、段ボールが廊下に積んであった。
「お父さん。そっちから運んでください」
部屋の中にはまだ封のしていない段ボールの近くに兄の姿がある。
段ボールの封がしまっているものを玄関に父と運んでいく。ほとんどはひと箱を一人で運べるが、中にはなぜこの重さというくらいのものがある。
そうこうしているうちに兄の携帯が鳴り、業者が着くということだった。ほどなく玄関のチャイムが鳴った。
「本人が出なきゃだめよ」と母は兄を玄関に行かせる。
父と私の運べる物のもう無く、廊下から部屋をのぞいていた。
兄と業者の方が話しをしている声が聞こえた。玄関を見に行けば、父と苦労して積んだ段ボールがものすごいスピードでなくなっていく。
兄が自分の部屋に戻ってきてから、まだ片付け終わっていないところをみて、焦っているのが分かった。
なんとか部屋の荷物らしい荷物はなくなった。業者の方との話が終わって部屋に戻ってきた兄は疲れた、と項垂れた。
「業者の人が着く前にアパート行かなきゃいけないんじゃないの?」
そう心配する母に携帯の時計を見ながら兄が説明する。
どうやら引っ越しのトラックは一台で三件くらいの人の荷物を積んでは下ろすらしい。だから、兄の荷物を下ろすのは午後になってからだそうだ。とはいいつつ、うちから兄の新居までも電車で二時間くらいはかかるらしいので、そうゆっくりはしていられない。兄は業者が運べないパソコン、日常生活のもの、さっき積みきれなかったものなんかを旅行用カバンに入れていた。
家から兄のものがなくなっていく。
段ボール運びが終わった父と私は再びリビングに戻ってテレビをつけてぼんやりしていた。母は兄の部屋の掃除をしているらしい。こういうとき、母なんだなぁと思う。掃除のあと降りてきた母は、キッチンでレトルトなどを袋にいれていた。それからバタバタと二階に持っていった。必要だからという母に、そんな入らないよ、という兄のやりとりが目に浮かぶ。
バタバタと二階から降りてきた兄は、旅行用のカバンを持ったまま洗面所などにも行き、キョロキョロと確認しているようだった。それから旅行用カバンを玄関に置いたらしい。
リビングの扉のところで、兄がじゃー行くかなーと声をかけ玄関に向かう。父と私は兄に続いて玄関に行く。母もキッチンから小走りに玄関に来た。
「お昼は大丈夫?」
母の心配に、コンビニでも寄るよと返す兄。
「今生の別れじゃないんだからな。ま、時間があるときに帰ってきなさい」
父が言うと兄は頷いた。
私も何かいう流れなのだろうけど、なんだか、兄がいなくなることがいまいちわからなくて、言葉が見つからなかった。元気で?なんか他人っぽい。んと、と悩んでいると
「よ、高校生。花の女子高生か。青春しろよー」なんて兄が軽口をいう。
だから「大学生も青春しろよー」と返した。
玄関がしまってから母は大丈夫かしらとつぶやき、父は大丈夫だろうと玄関に背を向けて歩き始めていた。母のお昼ご飯何にしようかしらねーと声が聞こえ、玄関を見つめてから、私は二階に上がった。
階段を上がってすぐに兄の部屋、奥が私の部屋だった。兄の部屋は扉が閉まっていたけど、静かにドアノブを押した。
中は昼間なのにカーテンがしまっているせいか薄暗い。小学校から使っている学習机はそのままで、そばの本棚もそのままだった。埋まっていた本棚の二、三段分がごっそり無くなっていた。ベットもそのままだったから、新しいところではベットを買ったのかなと思う。大きい物は変わっていないけど、そこに人がいなくなったことはわかるガランとした感じ。
部屋の入口から眺めて中には入らずまた扉を閉めた。部屋の人がいないのに、そこに入るということのなんとなく気まずい。
自分の部屋の扉を、普段通り開けて入る。兄とは違う部屋。薄いレースカーテンだけにした部屋に日差しが入っている。兄の部屋と同じように私の部屋にも学習机がある。学習机の上は中学の教科書が積んであった。四月からは高校生だから、この教科書はもう必要ないのだろうけど、今すぐにこの片付けをする気にはなれない。
学習机に積んだ教科書と教科書の間にスペースがあった。
そこに置いてあったのは、〔恋愛成就〕のお守りだった。特にメモもなくそれだけが置いてある。私が置いたのでないし、両親でもない。兄だと思った。
玄関での「青春しろよ」の言葉が蘇る。そういうことか、と一人ちょっと笑ってしまった。
水色で普段みるようなお守りよりはかなり小さく、形も丸っぽいお守り。近所の神社ではない名前が刺繍されていた。
兄と恋愛の話なんて真面目にはしたことがない。お互いカレカノの話もしない。もっとも私はこれまで付き合ったことがないから、そういう話をしなかった。そういえば、兄には彼女がいるのかさえ知らない。もしいるとしたら、兄の彼女はどんな人なんだろう。もし、いなかったら、大学生になったらできるのかな。
このお守りのお礼をLINEしなきゃ。でも、行ってからまだそんなに経ってない。それはなんとなく恥ずかしい気がした。
そんなことを考えていると、下から、お昼はー?と母の声がし、今行くーと叫んだ。
携帯だけをもってお守りを学習机の教科書の間に置きなおす。お昼ご飯を食べてから考えよう。お守りって普段から身につけなきゃ意味ないって誰かが言っていた。あのお守りは水色だし、鞄につけても可愛いけど、堂々と恋愛成就の文字は恥ずかしい。大きさからも財布とかに入れるものかもしれない。
二階からの階段をトントンと降りていった。
財布の中には財布に似つかわしくない色の緑色のお守りが入っている。小さくて丸い形をしているそれは、〔家内安全〕の刺繍がある。一人暮らしを始める俺に、家内安全とは妙な気がするが、選んだのはほかでもなく自分だ。
離れていても家内はたぶん家庭、ひいては家族のことだろう。だから、これでいい。
離れたといっても二時間あれば着く距離。もっと遠くから上京してくる人がたくさんいる中で、俺は上京するともいえないような位置になる。だが、一人暮らしの不安や期待という面では、変わらないと思う。
妹からLINEでお守りのお礼が届いた。
〈兄、お守りありがとう。青春するね〉
「ほどほどにな」と部屋で一人呟く。
俺が置いてきたのは〔恋愛成就〕のお守り。妹に好きな人がいないと効果がないものだ。だから今は意味がないものだと思う。直接聞いたわけではないが、妹に好きな人がいるということは聞いていない。ただ本当に妹が誰かを好きになってしまったら、あのお守りは効果を発揮するのかもしれない。そうなるのは自分としては複雑だ。それほど信仰深いわけではないが、全く信じてないなら買ったりしない。
妹に彼氏ができることを単純に喜ぶ兄、ではない。
この感情は家族としての愛情だと思っていた。
でも、神社でお守りを買おうとした時、〔恋愛成就〕のお守りを持って浮かんだ人物はあまりにも身近すぎた。分からなくなった。
〔恋愛成就〕のお守りを買ってしまえば、何かが崩れる気がした。
妹に対して好きという感情はない。それじゃない、何かの感情があるが、それがはっきり分からない。むしろ、分かってしまうことを恐れているように、避けている。
妹とは仲が良いわけでも不仲でもない。これまでもLINEは必要な連絡事項くらいだった。お守りのお礼に返事を出したが、既読がついて、それきりだった。
スマホをベットに置いて立ち上がった。一人暮らしは家事がある。これから夜ご飯だが、何にしようか。
部屋の段ボールは半分片づけたから、生活はできる。大学が始まるまで、まだ日にちはある。それまでに片付ければいい。
今日は早く寝よう。疲れた。
のそのそと風呂場に行ってシャワーを浴びる。家とは違う狭い風呂場。風呂場から出たところは狭いながらも洗面所も兼ねているからすぐに歯磨きをした。一つの歯ブラシと歯磨き粉だけが置いてあるだけの殺風景な洗面台。タオルで髪を拭きながら部屋に戻った。
完全に髪は乾いていないが、ドライヤーを使うほどでもないからいつもそのままだ。タオルを引いた枕にベットに入ってからスマホをいじる。妹のLINEを開いた。通知もなってないから当たり前だが、何も来ていない。お守りのことが書いてあるだけだ。
〈高校短し、恋せよ妹〉
と思っていないことを打っては消した。妹が誰かを好きになることを止める資格はない。誰かを好きになればいい。ただ、その時俺はどうするのか。その時になってみないと分からない。
『古今和歌集』 恋部 四七四
寄せては返す沖の白波のように、ずっと思い続けている。
どんなに離れていてもあの人に心を置きながら。
6話 完
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