第5話 アイスティーのガムシロップ

「ねー聞いてた?」

「え、何が?」

 有線の音楽が流れる店内。カチャカチャと食器の音が混じっている。ピークのお昼がすぎたとはいえ、見渡せばまだお昼ごはんを食べている人もいる。

 このお店は駅から少し離れたところにあるが、逆に駅のせわしなさがないからか、人気のようで、同じ年齢くらいの女性客がほとんどだ。今どきのランチも食べられるお洒落なカフェだ。自分より少し若い子、大学生くらいのグループが近くで、料理の写真を撮っている。若いなーと苦笑いした。そこから視線を一緒に来た友人に向ける。

「もー、色気より食い気なんだから」

「ごめんって」

 テーブルの上にはまだ、お互いの料理が残っている。混んでいるのを避けたランチには少し遅い時間から来たからだった。注文したのは、どちらもキッシュのワンプレートだが、ランチ時のキッシュが八種類から選べるということがこのお店の売りでもあるらしい。

 前菜としての野菜は新鮮な緑色が生き生きとしているレタスに名前も分からない葉っぱが何種類か。彩りとしてのトマトはミニトマトで、赤色だけじゃなく、黄色のものが半分にカットされていた。紫がかった薄くスライスされた玉ねぎに、全体にかかったドレッシングはさすが、お洒落なお店らしく、詳しい調味料は分からないがレモン風味でさっぱりしていた。

 メインのキッシュにも野菜が多く入っているらしいが、ホウレンソウとベーコンが使われていることくらいしか、料理名から私にはわからない。目の前の友人のは、たしかキノコが入っているものだ。具材たっぷり、生地の玉子がふわふわなのに、周りの生地がサクサク、というのは、メニューの説明にも書いてある。

 テーブルの向かいに座る友人に声をかけられ、キッシュにフォークとナイフを入れていた手を止めた。色気よりというには実際はぼんやりしていただけだが、否定するほどでもない。

「で?」

 話を進めるために返しつつ、飲み物に手を伸ばしてから友人を見ると、飲み物を置いたところだった。

「あー、中学の同級生のさ、あれ、たぶんサッカー部だった。んで、結構モテてた…」

 何かを思い出すように眉間に皺を寄せたり、視線が空中を彷徨わせたりしていた。思い当たる名前を言うと、パッと閃いたかのような人差し指を立てたジェスチャーになった。

「そう、その人!同級生のあの子と結婚したんだって」

「え、誰?」

 またしても肝心の名前が出てこない。

「えっと、図書委員でさ、メガネかけてて、いかにも真面目って感じの子いたじゃん」

「あーいたかもね」

 今回は私も名前が思いだせなくて、中途半端な返事となってしまう。

「名前はもういいや」

「え、いいの?」

 こういうところが、らしいと言えばらしい友人に、苦笑いを返す。

「そんな仲良かったわけじゃないしね。結婚式だって呼ばれてないし」

 中学の頃の記憶をたどる。女の子はグループみたいなものができる。そして図書委員の彼女は、思い出す限りは、友人と同じグループにはならないタイプだった。

「そもそも卒業以来会ってないし、連絡先だって知らないもんね」

 助け舟のように同調すれば、うんうんと大袈裟に頷いた。

「つか、あんたはどうなの?」

「何が?」

 何の話しの続きなのかと思いつつ、飲み物に手をのばした。

「結婚」

 効果音をつけるなら、ドンッとなっているかというその熟語の響き。

「はぁーーやめてよ、そういうの疲れるから」

 大袈裟半分半分は本気でため息をついた。伸ばしていた手が飲み物に触れ、グラスの汗が手に気持ちいい。

「分かったわよ」

 もう、といいながら肩を落とすが、本気であきれているわけではない。彼女が私にその手の話をしてはこう切り返すのは、もうお決まりのパターンとなっていた。

「そっちこそ、最近どうなの。誰かと会ったりした?」

 話題を変えるようにして質問したが、長く会っていなかったわけではないので、最近はというのは、最近である。前回会ってから三カ月ぐらいだろうか。

「そーねー、さっきの話もそうだけど、あの子と会ったわ」

 だいたいこの歳になると、友達の出てくる名前も限られてくるが、彼女は私とは違って交友関係が広い。

「えっと、本名なんだっけ?」

「本名って芸能人じゃないんだから」

 そういって笑って、グラスのアイスティーを飲んだ。ガムシロップが多めで甘い。

「そうなんだけどーほら、あだ名は覚えてるんだけど。あーやばい、思い出せない」

 再び眉間に皺を寄せて考えている。

「思い出せないと、脳みその皺がぁ」

 小さな唸り声をだしている。「歳かしらねー」なんて揶揄えば、「それは断固拒否」なんて返してくる。実際、同年齢の私よりも若く見える。子持ちの母という落ち着きはあるが、こぎれいにしているせいか、元からキレイ系だった彼女は若い。

 あだ名を聞いても、そのあだ名の子は、私の記憶にはなかった。

「まーそーねー、うちのグループだけで呼んでたし、陰で」

 ちょっと申し訳なさそうな顔をしたのは、きっと良くないほうの呼び方だったのだろう。人は変なものや、どうでもいいことの方が覚えている。

「今、あんたとこうして会ってるのが不思議なくらい」

 まじまじと見つめられるのは慣れていないから、苦笑いしつつ、「系統違ったからね」と返した。別に反撃ではないが、彼女とは中学の時は友達ではなかったと思い出す。グループが違っていた。

「派手グループの人と仲良くなるなんて思わないわ」

「うわ、きつ」

 彼女は派手グループだったが、いじめをやるとか、そういうのではなくて、ちょっと校則を破る系のグループだった。授業はちゃんと出てたし、行事も参加する。でもスカートが短くて先生に注意されたり、化粧をして反省文を書いたと噂になったこともあった。

 一方で私はいわゆる普通だった。校則も守るし、いじめられたこともないし、進級が危うくなったことなどもない。きっと当時のクラスメイトや先生に会って一番印象が薄くて思い出されないタイプの人間だ。

「だって、スカート短すぎだったもん」

 そういってから、フォークとナイフを持ってキッシュを切った。

「やめて、あれは、あの時お洒落だと思ってやってたんだから。今思えば、ちょっとぽっちゃりしてたのに、よくもまーあんなスカート短くできたわ」

 思い出したように彼女もキッシュを食べ始めた。

「そお?そんな太ってなかったと思うけど」

 お世辞でもなんでもなく言うと、キッシュをパクッと食べてから項垂れた。

「いや、足が太いのよ。今もだけど、子供産んでからは、余計に肉が落ちなくて」

 そういうもんなのか、と子供を産んだことのない私にはわからない苦労を知る。みえないけどね、という言葉はあまり効果をなさないことは知っていた。

「はぁあ、もうダイエットする体力さえないわ」

 ため息一つして、一瞬止まった手を再び動かしてはキッシュを食べ終わっていた。

「私も。誰かとこうして会って話するたび、どこが悪い、とか、あの時は懐かしいなんてことばっかり」

「そうなんだよねー。最近、起きたら腰痛くて」

 わかるー、なんて相槌がむなしい。

「そういや、この間話しててさ、あの人の話もしたの」

「んー?」

 自分のキッシュも食べ終わったと、フォークとナイフを置いたところだった。

「あんたの初恋の人」

 ちょっとだけ声を潜めていった言葉が余計に恥ずかしさを際立出せた。

「うわ、なんか恥ずかしい、そのワードっ」

 思わず体ごと引いてしまった。

「あはは、いやぁ懐かしいなー。聞きたい?」

 反応が良かったせいか、笑ってから、いたずらっ子ぽく首をかしげて聞いてくる。

「別に…」

 そういうのはこの年齢になると、綺麗なというか、ちょっと恥ずかしい思い出くらいにしておくのが丁度いいのではと思う。

「うそー初恋は一生もんよー、気にならないわけないでしょー」

 そういう彼女の初恋を聞いたことがあっただろうか。なんとなく、ちょっとませた小学生くらいを想像してしまう。

「だってもう、そういう歳じゃ」という言葉にかぶさるように彼女が続ける。

「この年齢だからよ。同窓会すれば、結婚しただの、子供の話になる。んで、なんだか独身だと同窓会に行きにくい」

「それは、ねー」

 その通りで、加えていうなら、あまりそういう場が得意ではないからということもある。こういう一対一ならともかく、気心の知れている人ならいざ知れず、不特定多数と二時間くらいの食事など、疲れるに決まっている。せっかくの休みをそういうことに使うことが、もったいないと思っている。

「今回のも行かないんでしょ」

 同窓会が今年の秋にあることは知っていた。ただ、まだ日程など正式に決まったわけではなく、こうして同級生にあったときにチラッと耳にした程度である。

「だって、別に仲いい子たちとは会ってるし」

 食事でも、緊張や気遣いであまり食べた気がしないことは目に見えている。

「で、も、だ。この歳だからこそ、同窓会での出会いだって貴重なんじゃないだろうか!」

「なんでそんな力説すんの」

 少し体を引きつつ、嫌な予感がしてじっと彼女を見た。

「実は、同窓会の幹事、任されちゃってさー」

「ご愁傷様」

 手を合わせて合掌しておいた。

「つめたーい。ね、今回だけ手伝ってー」

「い、や。前回も前々回も、参加してないんだから、私、役に立たないよ」

 前回は五年前。仕事が忙しいという理由で断っていた。前々回は二十歳の成人式だったが、式の後にあるという同窓会は仲の良い友達だけでごはんに行った。

「心細いんだもん。他の子にあたったら、結婚だとか、子供がとかで断られちゃったんだよー」

「私は最終手段か」

 責めているわけではなく、冗談めかしていう。

「うー、こういうの苦手って知ってるからさー申し訳ないとは思うんだけど」

「その割には、同窓会も出会いって言ったのは」

「だってさー最近、流行りじゃない?不倫とか」

「え、そっち?」

 意外な方向に話がいく。不倫が流行るっていうのはどうかと思うが、最近やたらと耳にする単語ではある。

「同窓会で会った昔のカレカノ。昔のことが蘇って、とか」

「ドラマの見すぎでしょ」

 自分は見ていないが、そういうドラマがやっていたとは聞いたことがある。

「あるかも知れないじゃん」

「ないわよ」

 ドラマのようなことがそんな頻繁にあっても困る。

「ってか、それなら、既婚者に頼めば」

 不倫云々なら独身の私には無関係だ。相手が既婚者であれば成立するが、ドラマではお互いが既婚者同士のというものだったはずだ。というか、自分はなぜそこまで知っていたのかと飽きれた。

「うーそういう理系っぽいところだすのやめてよー私文系なんだからー」

「理系関係ある?今の」

 論理的かと言えば、穴だらけなので、理系よりではあるが、普段私はそれほどでもない。

「理屈っぽいっというか、こう、理路整然と反撃されてる気が」

「まー理系ではあるけど、そんなバリバリの理系じゃないよ」

 高校でのクラスは理系選択だったし、大学は文系ではない。とはいえ、数学科などの理系でもない。

「最近はリケジョなんて言葉が…」

「それ、最近?」

「え、うそ、古いの?」

「さー?」

 焦る姿を見つつ、話の脱線を試みた。

「で、戻すけど」

「あ、忘れなかったんだ」

「もう」

 そう言いながらちょっと怒ると真面目モードになった。

「ちょっと考えてみてよ、幹事」

「考えても同じだけどなーきっと」

 彼女には悪いが、不参加は90パーセントの確率で決めている。

「んーじゃあ、相談役とか」

「それ今までと変わりある?」

 これまで彼女は幹事でないにしてもいろいろ同窓会の運営にちょこちょこ口出してたようだった。その相談というか愚痴を聞くのが私だった。

「ない、かも?」

「なら、この話はなかったってことで。ま、いつでも愚痴は聞くよ」

「あーまたっ」

「あはは」

「笑ってごまかすなー」

 こういうノリは社会人になってから会った人たちにはない。中学、高校、大学とそれぞれの時になんだか戻ったように話してしまう。最も彼女とは中学時代は接点がなく、大学でのサークルつながりで再会したのだった。

「もう。初恋のあの人の情報教えてやらないぞー」

「だから、もう興味ないって」

 そういえばそんな話もしたな、とさっきの話を思い出した。

「いいのー?」

 妙にニヤニヤしていう。

「ホントはあんたのこと好きだった」

 と一息で言った彼女に思わず「え」と反応してしまった。

「とか、だったら、どうするの」

 と続けたところに「ないわー」と笑い返した。

「どうかねー、理系同士相性は良さそうだったけど」

 そういってから飲み物をすする。

「いやいや、そもそも接点がほとんどなくて、覚えているか怪しいレベルよ」

「んーそー?」

 とストローからアイスティーをすするのを見ていた。グラスは氷だけになりそうだった。


 中学の数学の時間。数学だけのレベル別クラス編成がされていた。そこで、普段のクラスは違う彼と同じクラスになった。当時はクラスの中では、割と数学に関してだけはできる方だったため、上のクラスだった。ただ、そのクラスの中ではできない方だったが。教室も移動で、私の教室に数学の上のクラスの子が集まって受けることになっていた。

 ある放課後、その日はたまたま友達を待っていて、教室に一人だった。そこに彼が来た。開けっ放しの前の扉から入ってきて、しかも無言だったから、たまたま顔をあげていなければ、気づかなかった。

 親しいわけでもなかったし、これまで話すことなんてほとんどなかったので、教室にきたときになんとなく、気まずい気持ちになった。今思えば、この時は好きとかの気持ちもなかった。数学が同じクラスの人くらい。いや、数学が得意ということは結構噂になっていたと思う。だから、数学できる人ってくらい。

 なんとなく行動をみてしまって、あ、教科書を忘れたんだということが分かった。数学得意な人でもそういうことあるんだなぁなんて親近感がわいた。で、そんな気持ちのせいか、声をかけた。

「ねぇ、数学得意なんだよね」

 今思えば意外な積極性だが、たぶん誰もいなかったからの行動なのだと思う。

 で、反応はというと、無言というか、ちょっと怒っている感じで、声をかけたことをすぐに後悔させた。

「いや、宿題のここ、分からなくて…なんでもないです」

 あわよくば教えてもらえたらと思った自分を怒りたくなった。動きを止めて、こっちを見、机の上をみるようにして、近づいてきた。そういえば、普段気に留めないけど、身長高いな、なんてどうでもいいことを考えていた。

「どこ?」

「え」

 教えてくれるんだと、意外に思いながら、ここと持っていたシャーペンで差した。

「ここなら…」

 その説明を若干緊張気味に聞きながら、真剣に考えて問題を解いていった。

「解けたーありがとう」

 まるまる一問、教えてくれた。

「やっぱり数学は面白い」

 ぼそりとつぶやいたその言葉に顔をあげてみれば、少し嬉しそうな顔だった。数学が面白いとまでは私には分からなかったが、ここで否定するのも悪い気がした。

「あーえっと、不思議だよね」

「不思議」

「うん…」

「…」

 不思議といったことに気を悪くしたらと思ったが、表情はあまり変わらなかった。

「えっと、」

 と次の言葉が出ずに、沈黙する。

「帰らなくていいの?」

 教えてもらっておきながら、なんか失礼な言い方になってしまったが、沈黙がなんとも気まずかった。

「帰る」

 テキストを持ち、踵を返して来た時と同じように前の扉に向かって歩いていった。

「あ、宿題、ありがとう」

 歩いている背中に声をかけたが、反応はなかった。

 そのことがあってから、なんとなく彼を目で追うようになった。好き、というか好きかもという感情だったが、私にしては青春らしい青春の思い出だ。


「で、聞きたくないのー?」

 ニコニコと言いたくてソワソワしていると分かる。

「聞かなくても言うでしょ」

「わかる?」

「で?」

 空のグラスの氷が解けて下の方のガムシロップと混じっているのをすすった。

「やっぱ気になるんじゃん」

 ものすごく薄い紅茶と水、そしてガムシロップの甘さだけが口の中に広がった。

「うそうそ。なんかね、大学教授なんだって。意外だよねー」

 へぇーと、いいながら、あまり意外ではないなと思った。

「なんか、無口で、人とあんま喋るイメージなかったから意外」

 どうやら彼女のイメージは、そうらしい。

「変わったんじゃん?」

 と言ったものの、私はたぶん変わっていない姿を想像した。

「そうなんかねー」

 店員さんがプレートと飲み終わったグラスを下げた。そして変わりのように水をそっと置いた。

「どう、気になった?」

「普通」

 気になるというか、懐かしいだけで、今を思うことはあまりない。

「じゃ、もう一つ」

「あの人、まだ結婚してないんだって」

「そー」

 あの人も結婚云々もこうやって誰かに言われているんだろうな、と変に冷静になってしまう自分がいる。

「反応薄いなー」

「だから、何を期待してるの」

「もしかしたら、もしかするかもしれないでしょ」

 そういって、水を飲んだ。

「そんな恋愛もの好きだったっけ」

「ずっと家にいると、ドラマぐらいしか楽しみなくてねー」

「そーなんだ」

 そういう事情があるということに関しては、なんともいえない気持ちになる。専業主婦がラクだというのは幻だと、結婚したこともない私も知っている。

「で、どう」

「どうと言われても」

「じゃあ、とっておきの、もう一つ。あの人の連絡先を…」

 含みがあるように声を潜め、携帯を握ったが

「知らないんだなー」

 携帯を再びテーブルの上に置いた。

「知らないのかい」

 思わずツッコミのようにいえば、笑いあった。

「前回の同窓会幹事から引き継いだのは、前回参加した人の名簿だけだからねー」

 説明するように言った。

「そういや、卒業アルバムも住所とか載せないらしいね」

 ふーんと相槌を打ちながら、卒業アルバムか、と懐かしく思った。実家にしまってはあるはずだが、卒業式でもらった時以来、全く開いていない。

「あ、なんか飲む?」

 彼女は水も半分くらい飲んでいた。

「んーそろそろ帰ろうかなー」

 その声に自分の携帯を見れば、早めの夕食の時間が迫るくらいだった。一人暮らしの自分とは違って、家庭のある彼女には夕食の準備もあるかもしれない。

「子どもは大丈夫?」

 自分に子供がいないが、だいたい小学生の下校時間はこれくらいだったのではと思う。

「平気平気。今日は塾だし」

「へー頭いいんだねー」

 鞄を荷物入れから取り出した。

「違う違う、逆。勉強追いついてないの」

 お互いに鞄から財布を出す。

「でも、塾行くなんて偉いじゃん」

「勉強しろーは言いたくないから、言ってなかったんだけど。ま、それで点数ひどくなったんだけど。友達とならっていって塾行ってる」

「そうなんだ」

 最近の子供は塾に通うことが当たり前になっていると聞いたことがあるが、本当にそうなんだろう。

 自然に彼女が伝票を持ってくれる。

「友達とだと遊んじゃいそうだけど、ま、それはそれでいいかなって」

「塾は遠いところ?」

「ううん。近所。帰りも一人で帰って来られるように、ね」

 レジの方に向かいながら、並んでいる机と机の間を抜けていく。

「あとは、安さね」

「なるほど」

 レジにつくと、彼女がよいしょと鞄を鞄置きに置いた。

「別会計できますか」と言って自分の注文したものを言っていく。

 会計が終わって店をでると、西日が差していた。

「いやー美味しかったわー」

「そうだね」

 鞄を肩に持ち直して駅の方を見た。

「さてと。電車だっけ?」

「うん」

「じゃ、駅まで」

 並んで駅までの道を歩いた。駅に近づくにつれて、だんだんとにぎやかになり、人も増える。

「じゃーまたー」

「うん。また連絡してー」

「気を付けてね」

「そっちもねー」と言いながら、改札をICカードをタッチして通る。

 上の電子掲示を見ながらホームを確認して少し混雑している構内を歩いた。階段を降り、ホームにつくと、電車は発射までの待ちだったようだ。

 電車に乗って、扉の上の電子掲示を確認した。視線を扉の横にやれば、新ドラマの広告だった。また、恋愛ものかと思う。同級生だったメンバーの再会から始まるらしい。へー、どうやら、同窓会ものは流行っているらしい。とはいえ、私とは無関係だ。

 連絡手段もない、噂だけが私に届いた。もうすっかり忘れていた昔のこと。こうやって私のことも誰かが噂しているのかもしれない。それが、あの人の耳に入ることもあるのかもしれない。いや、そんなこと、ほとんどないだろうなと思う。



『古今和歌集』 恋部 四七三

               在原元方

  音羽山おとわやま おときつつ 逢坂おおさかの せきのこなたに としるかな


   音羽山ではないが、あの人のことを音に聞くばかりで、

   逢坂の関のこちら側で逢う身にもなれず、

   むなしく年月を過ごしていることだ。


                                  5話 完


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