#5 『異能系生物学教授・木崎梨沙』
「木崎さーん、御厨でーす。出てきてくださーい」
週刊小奇譚通信の記者・
しかし、山に入ってかれこれもう三十分近く返事がない。
東京西部に位置する、帝都異能五大都市の一つ、
五大都市のなかでは『最も治安が悪い』と有名な街。
――だが実のところ、それは七夕町の約半分の地域でのはなし。
もう半分――特に七夕町西部――には、森林・山林地帯が広く分布し、実に自然豊かなのだ。
動植物や、それらを愛する者にとっては、『都会のオアシス』となっている。
そういった七夕町の味を生かすため、近くの大学に通う学生や教授のなかには、『キャンパスは中央街にあるが、フィールドワークとしてよく西部地域に足を延ばす』という者も少なくない。
今しずくが探している人物も、その一人だ。
「あのー、木崎さーん? いませんかー?」
もう何度声をかけたかわからない。いい加減ノドもかれてきた。
慣れない山道で足も疲れている。体力的にも、だいぶヘトヘトだ。
(……ダメだ。今日はもう諦めて、出直そうかな)
そう思い足を止めた時だった。
(ん?)
駆けてくる足の音が聞こえてきた。
(木崎さん?)
一瞬そう思った。
だが、すぐに違うと判る。
小刻みなリズムは、とても二本足の人間とは思えない。
その柔らかく重い駆ける足音は、大きな四足獣のそれだった。
(どうしよう! 逃げなきゃッ!)
しずくは迫りくる音とは真逆の方へと、山道を進んだ。
道らしい道ではなかった。
急な斜面。木々に手をつきながら、半ば滑り落ちるようにしなければ進めない。
だが今は、道の危なさなど気にしていられない。
後ろから迫る恐怖の方が大事だ。
しかし――。
(――ッ!? うそ……)
辿り着いた先、そこは崖だった。
さっと見る限り、下までは四十メートル近くある。
(他に逃げる場所はッ!?)
――と探している間もなかった。
獣が姿を現す。
白い犬だった。ただ、通常の企画ではない。
四本の足で立っていても、目の位置はしずくよりも高い位置にある。
巨大な白い犬は、こちらを見つめ立ち止まる。
距離にして十メートルもない。
舌を出しての息遣いがよく聞こえてくる。
食われるか、落ちるか。
――頭の中はその二択が占め、他の助かるための案が浮かばない。
手足が震える。目は獣に釘付けになる。
じっと見つめてくる黒目は何を考えているのか分からない。
怖い。しかし、目を逸らす事はできない。
膠着状態は十秒と持たなかった。
ふと、犬が一歩足を踏み出した。
しずくは思わず、足を退く。
その時だ――。
(……あッ! うそッ!?)
落下してしまった。
だが――。
瞬く間に速度を上げる視界に、血の気が急速に引いていく。
そんななか、見上げている形になっていた空に、サッと人影が差したのだ。
その人影は素早く崖を駆け降りると、力強くしずくの体を抱え込んだ。
「何してんのさ?」
「木崎さん!」
驚くしずくをよそに、こんな状況でも木崎は呆れたような表情を浮かべている。
そして数秒後には、しずくをお姫様抱っこし、そのまま豪快に二本の足で着地した。
重い音が鳴り響き、周りの木々や草花が大きく揺れる。
だが不思議と、しずくは衝撃をあまり感じなかった。
「あ、あの、ありがとうございます」
「礼は良いんだけどさ、なんでこんなとこまで――、」
「木崎さんッ、後ろッ!」
あの巨大な白い犬が、崖から飛び降りてきたのだ。
真っ直ぐこちらに向かっている。
だが、木崎はゆっくりとしずくを地面に下した。
そして一歩前に出ると、飛びかかり伸びてきた獣の前足に、木崎は片手をかざした。
獣は木崎の手の前で足を止めた。
そして――。
「待て! お座り!」
巨大な白い犬は命令に従った。
それこそよく見る犬のように。
「え? ……あの……これはいったい」
「あー、しずくはこいつを見た事なかったかー?」
木崎は犬の鼻の頭を撫でながら言った。
「こいつは
適当な言葉が見つからないといったようだ。半ば投げやりな紹介だ。
しずくとしても、その言葉を受け止め難い。「ペットって……」と思わず、否定したくなる。
だがそれでも、飼い主を名乗るというなら、文句の一つを言ってやりたい。
「ペットならちゃんと躾けてくださいよ! 私、襲われそうだったんですよ!?」
「違う、その逆だ」
「……え?」
意味がよくわからず、言葉を失いかける。
そんなしずくに、木崎は冷静な口調で続けた。
「こいつは君を守ろうとしたんだ。私の命令でね。君は気付いていたかい? 森のだいぶ深くまで入っている事に」
しずくは驚いた。
(森の深く? ……いつの間に?)
そんな事は微塵も感じていなかった。
「ここには人間にとって危険な生物も多く生息している。教授陣でもほとんどは一人で入ろうとはしないよ」
「でも、木崎さんは一人で入ってるじゃないですか」
「私には白介がいるからね。それに私はそこそこ強いからね」
木崎は微笑み力こぶを作る。
タンクトップから伸びる腕は、『女性にしては』という言葉を抜きにして、細く引き締まっていた。
胸は大きく張り、腰まわりはしっかりと筋の入った肉付きだ。
確かに、木崎は一人でも大丈夫だろう。
確かに、不用心に単独で森の深くまで入った自分は悪い。
落下から助けてくれた恩もある。
白介の件も、心配してくれたなのだと判った。
――だが、それでも文句はある。
「だいたい、私が一人で来たのは木崎さんを探してたからですよ。約束忘れたんですか?」
「ははは。ごめん、ついさっき思い出した」
悪びれた様子が見えない笑みを浮かべていた。
しずくは大きく溜め息をついた。
〇
自らの教授室に辿り着くと、木崎はタンクトップの上から白衣を羽織った。
「それで、今日は何を知りたいんだね?」
「知りたい、というより、お願いに来ました」
木崎はコーヒーを二人分淹れているので、しずくは先を続けた。
「今度、『小奇譚通信』で異能系動物の特集をしようと思いまして。その監修をしていただきたいのです」
「監修ねー。……はい」
しずくが「ありがとうございます」とコーヒーを受け取ると、木崎は言った。
「前も頼まれたけどさ、本当は私、そういうのあんまり興味ないんだよね。フィールドワークの方が好きだし。それに他にやりたがる人はいっぱいいると思うよ」
歯に着せぬ物言いだ。嫌味にならないのは彼女の快活な人柄のおかげだろう。
ただ、しずくは引き下がらなかった。
「いえ、木崎さんにお願いしたいんです。『
自然と力が入る。
仕事への情熱――もさることながら、『ここまでの苦労』を考えれば当然かもしれない。
しかし、木崎は言った。
快活な口調の中に、少し弱ったような『陰り』がある声だった。
「うーん。教授ってさ、派閥争いとかまーまーあんのよ。私はそういうの興味ないから距離置いているんだけど。でも、雑誌とかで名前が売れるたびに『こっちの派閥に入れ』って誘われたり、断ると変な嫌がらせ受けたりすんだよね。正直、それが一番めんどくさいのよ」
木崎は笑みを浮かべていた。
ただ、冗談ではない事が、語り口から判った。
しずくは引き下がるしかなかった。
「そう、ですか……わかりました。そういう事でしたら、ご迷惑をかけられません」
懇意にしている人なら尚のことだ。
「他を当たる事にします」
「うん。そうしてくれると助かる」
「今日はお時間を割いていただきありがとうございました」
しずくは頭を下げ、辞そうと、席を立った。
すると――。
「まあ、待ってくれ」
木崎が呼び止めた。
「せっかく、直接会いに来てくれたんだ。そのまま返すのも悪いから、私からも一つ、異能系動物特集のネタになりそうな話を聞かせてあげるよ」
「本当ですか!?」
思わぬ申し出に驚きながらも、しずくはすぐに席に戻る。
そして目を輝かせながら、瞬く間に手帳とペンを構えた。
その様子に木崎は笑みをこぼし、語り始めた。
「君は〈アフリカ・リザードドラゴン〉について、どれくらい知っているかい?」
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