無と業

「ムよ」

 白い空間に、一つの影が立ち上る。ムが拿捕したという捕虜を再び薬で眠らせた上で、影の正体である彼の右腕〝ム〟としかと見据える。

「お前は私を恨んでいるか」

「オッシャッテイルコトガヨクワカリマセン」

 一瞬の逡巡もなくそれは応える。それはそうだ。ムには感情がないのだから、感情の語彙を理解できない。理解できない語彙を使い、それを〝持っているか〟と聞かれても、答えようがないのである。ムはシステムにすぎない。老人の問いに関しはじき出された応答は「エラー」だった。

「恨んでいるだろうな」

 ムの応答を無視して老人は言う。そもそも彼は返事を欲していたわけではなかったのだ。彼は思考の海のただ中におり、考え事を始めた老人を見届けてムはシステムを休止した。

 メゾン区第二空軍、それは使い捨ての黒肌の民の行きつくごみ溜めのようなものだ。戦闘用システム〝ゴウ―業―〟がまるで新陳代謝のように、一定以上強くなった戦闘員を殺していく。その後に残った、戦闘機と人間はどうする?

 人を人とも思わない彼が思いついたのは、死体の有効利用だった。

「ムよ」

「――……ハイ」

 システムの起動音がして、ムが目覚める。老人は冷ややかな口調でムに命じた。

「この男を解放せよ」

「リョウカイイタシマシタ」

 白一色の空間から、メシアは蒸発するように消えた。ムはメシアの肉体を再構成して元居た座標に再現する。――そして、白の空間に佇むのは老人一人となった。老人は物思いに耽る。


「ゴウ、サターニャ区との戦闘状況はどうだ」

 政務室に入れば、壁一面の画面と沢山の機器が目に入る。機器に内臓している人工知能の名をゴウというが、老人はその性能を疑いつつあった。

「ハ、三機ノ黒肌ノ戦闘機ガファスト亜区カラ出現シマシタ」

「その話題はもういいと言っているだろう!」

 老人は激昂する。黒肌の民の戦闘機が、二機以上で行動することは、彼のなかでは疑いのないことだ。ありえないことを言って自分を惑わそうとしているようにしか、老人には見えないのだろう。

「マタ、ファスト亜区トノ区境ニ未確認部隊ヲ多数確認」

「……何?!」

 ゴウの指定した画面を、老人は指で拡大する。そこには確かに、巨大な機械が多数闊歩する様子が映し出されている。

「なにをする気だ、この部隊は……ッ」

 画面が赤く染まる。老人は思わず、炎の出てくるはずのない画面から飛びのく。画面は徐々に視界を取り戻したが、大地に対し傾いた角度で、それもところどころ視界が欠けている。

「ファストが、我ら三匹の鷹メゾンに戦いと挑んだ、だと?!」

 老人にとってファスト亜区は沈黙を保ち、領土に何者も侵入を許さないかわりに山脈から出てくることもない。今まで語るに値しない区として、安全保障の考慮の網から完全に抜け落ちていたのである。

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